「日台戦争」あるいは、「芸」のためのガイドブック 特別番外編(0)(本田善彦『台湾総統列伝』)

http://d.hatena.ne.jp/higeta/20090509/p1 に捧ぐ

■はじめに■
 「コメント欄の容量にも限りがあります」とブログの管理人が書いているのに、なかなか止められない人はいるものです。まるでアメリカが止めても入植をやめなかったイスラエルのようです(もしかしたらシオニストの方なのかもしれません)。
 Apemanさん曰く、「自分の主張の根拠として higetaさんのエントリ(そこのコメント欄における自分の発言ではなく)を挙げる、という不可思議な発想をお持ちの方」なのですが、なかなか面白い「芸」をされているみたいですし、「その他の理由についてはこちらをご参照ください。http://d.hatena.ne.jp/higeta/20090509/p1 」と書いてあったので、面白半分に見てみることにしましょう。いや、あのようなゴミコメントを真に受けてしまう純真な人もいるかもしれませんし。 (本稿を書くきっかけになった出来事については、拙稿「「日台戦争」・「台湾征服戦争」が「戦争」であることの妥当性 番外編(2)(本田善彦『台湾総統列伝』)」をご参照ください。
 この拙稿が、「芸」を鑑賞する上で助けとなるガイドブックの役割を果たせれば幸いです。歴史研究など恐れ多いことです。
 (できればhigetaさんのところのコメント欄に記入するのは、もう二度とやめた方がいいと思います。また、こちらのコメント欄に長文として掲載された場合は、削除しますので、念のため。トラックバックは気分しだいで受け付けます。)

?基本方針:
 基本的に、政府がどう考えようと、これはあくまでも考慮すべき対象のひとつであり、「戦争」は規模を重視して考えてもよい。「日本政府が閣議決定で戦争だと承認していた」かどうかは、あくまで考慮すべき事柄のひとつという立場をとります。重要な点は、本稿が「妥当性」を問題としていることです。「唯一正しい」ではなく、きちんとした論拠に基づいており、それを使うことに問題が無い、という点を論じています。

?戦争規模について:

■戦争状態=複数の勢力間に戦闘が発生している状態=「戦闘」
■戦争=「日本政府が閣議で正式に認めた戦争」

だそうな。
 一方こちらは、「その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。」というWikipediaの「戦争」の項目での定義を、本論では重視する見方をとります。ただし、こちらは米軍の基準を使う必要などありません。あくまでも、これまで「戦争」と呼ばれてきた(呼びえた)慣例に依拠して、これを材料の一部として判断をする見方をとります(「函館戦争」など)。これについては、既に拙稿にて論じたことですので繰り返しません。

しかもwikipediaによれば、「西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人」とありますから、「規模だけを見るなら」、西南戦争の官軍死者数の39分の1でしかない日本軍側戦死者164人の台湾平定は戦争と呼ばなくて良いことになります。なぜなら、西南戦争では戦闘1回でもその程度の死傷者が出ているからです。

 以上、御主張の内容です。なるほど。西南戦争のときの病死者の数はどのくらいなのか、という点は置いておきましょう。藤村道生『日清戦争』によると、日清戦争(「日台戦争」分を除く)の戦死者は、736名です。「日台戦争」(仮に「日清戦争後半」)以前の日清戦争(仮にこれを「日清戦争の前半」と呼ぶ)も、戦争と呼ばなくていいことになるんですよね。今後は、「日清の戦い」に訂正です。
 で、藤村によると、戦死者こそ「日清戦争の前半」が、「日清戦争後半」の二倍程度。対して、戦争での病死者は、「日清戦争後半」が「日清戦争の前半」の六倍です。戦闘の性格の違いがこの様な結果を生んだのですが、戦死者は圧倒的に「日清戦争後半」の方が上です。「戦争」って呼んでもいいでしょう、とこちらがいうのは、この点です。(以上、「15年戦争資料 @wiki 日清・日台戦争戦没者数」より引用)

?清国兵と一般住民の乖離?:
>清国兵に合流した「台湾の住民」の正体は「土匪・匪賊(=山賊)」
 この点については既に、higetaさんからの反論があります。

『清国兵と一般住民の乖離』の部分は、一面的すぎましょう。 / 陸奥宗光台湾島鎮撫策ニ関シテ」においては、「台湾人民」は広東福建出身の人々が多く、「同族聚居シテ村落ヲ成シ互相応援シテ以テ他族ト抗拒シテ下ラサルノ習俗尤モ固ク」、首長のもと、同族一体となり、「豪モ海外事情ニ達セサルヲ以テ他国管轄ニ隷属スルヲ欲セサルト且他国管轄ニ属セハ同族財産ヲ虧損シ或ハ没官セラルルヲ危疑スルニ因リ敢テ抗拒ヲ図ル」と述べられています。 / 『台湾総督府警察沿革誌第2編』271-272頁をみても、「土匪」と「部民」が一体となっていること、両者は簡単に関係が切れていないことわかります。

 と他の資料も交え反論されています。んで、それに対する反批判はというと、

また、『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』 / 271-272頁には、「台湾島の住民は土匪をそれほど悪い人間だと思わず、 / 状況に合わせて土匪に従うことを恬として恥じない風潮がある」と / 書かれていますので、ご紹介したように土匪が村を襲って村民を / 従わせているという事実を補足する内容です。

 あらかじめ、『近衛師団台湾征討史』に対する読解についていっておきましょう。政府側の資料を何の疑いなく読めるというのは、なかなか素直で幸福な人生を送っていらっしゃるようです。たぶん歴史を扱う学問には向いていないと思います。
 歴史を研究するなら、?一次史料にあるバイアスには注意する、?二次資料をきちんと読み、それとの対照の中で自身の読解を研鑽する、以上の少なくとも二点が重要になります。学校の先生に習わなかったかもしれませんので、念のため、書いておきましょう。
 次に、『台湾総督府警察沿革誌第2編・領台以後の治安状況(上巻)』に対する読解について。これはむしろ、【日本政府側から見て、台湾の住民は状況に応じて、「土匪」側についたりする傾向がある】内容です。「土匪が村を襲って村民を従わせているという事実を補足する」内容ではなく、『近衛師団台湾征討史』と齟齬をさえ含む関係にある内容、と読むのが普通じゃないでしょうか。『台湾総督府警察沿革誌第2編】の内容は、住民たちのいわば【日和見主義】を書いているだけでしょう。
 むしろ、『近衛師団台湾征討史』での住民の「歓迎」も、住民たちの日和見主義と捉らえる方が妥当なんじゃないかと思われます。後述しますが、「宣伝」で住民が蜂起するという性格も考慮すべき事項でしょう。

もともと、唐景スウや劉永福の自称「台湾民主国」軍に参加したのは、「土匪」「匪賊」と呼ばれる土着の山賊です。

 この大胆すぎる御主張の根拠になっているのは、よくよく読むと、李鴻章側の見解だけではないでしょうか(あるいは乃木の発言?)。日本側と清朝側の資料だけだと偏ってしまうと思うので、?それ以外の資料、もしくは、?きちんと資料のバイアスを考慮した二次資料を希望します。李鴻章側の言い分だけを鵜呑みにするのはよくないでしょう。なお、Wikipediaの「乙未戦争」の項目には、「戦闘の主体が清国軍ではなく台湾民主国及び自主的に組織された義勇兵に移ったことなどが主な理由としている。他に日台戦争の採用者には駒込武がいる[36]。」とありますが、ご覧にならなかったのでしょう。二次資料を探して読解して行くの歴史研究で大事なことです。がんばって探して批判してみましょう。二次資料というのは、きちんとした学術的書籍や学術論文を指しますので、お間違えないようにお願いいたします。

?「自発的に従ったよ史観」について:

そのため、台北と台南の両方とも、民間人が日本軍に「占領してくれ」と依頼

 台北と台南について、民間人が日本軍に「占領してくれ」と依頼したのは事実ですが、その後も戦いは続いています。「台南をまかされていた劉永福を中心にした台湾民主国軍と漢人系住民[15]義勇兵は、日本軍に対し、高山地帯に立てこもってゲリラ戦で応戦した。その際には高山族に対抗するための組織であった隘勇制度が抗日運動の基盤となった[10]。」というWikipedia乙未戦争」の項目はきちんと読んでいるんですよね?「漢人系住民[15]義勇兵」と書った気がしますが、、見間違いかもしれませんので、きになる方は、Wikipedia本文を見てください。
 その上で、

 同地の地主であった簡義は日本軍を抵抗せずに受け入れたが、一部の兵士や軍夫らが婦女子を姦淫殺害したために、反旗を翻し、黒旗軍の部隊とともに日本軍を襲ったために、日本軍は北斗渓北岸まで退却した。ノース・チャイナ・ヘラルドによれば、抗日軍[20]はこれをもとに「日本軍は婦女を暴行し、家屋の中を荒らし、田畑を奪う」と宣伝したところ、台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗した[10][17].

となるわけです。宣伝だけで、「台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗」するわけですから、婦女子への姦淫殺害は、結構ひどかったのかもしれません(未確認)。
 自発的に従った住民がいたことが、そのまま「自発的に従ったよ史観」にはならないでしょう(この史観は、住民はみな従順に日本軍に従い、戦ったのは「土匪」「匪賊」だけだったという、勧善懲悪的で素敵な史観を指します)。むしろ、反抗する勢力がいて、結果、?で見た規模の戦闘になったわけです(wikipediaに、台湾側の「義兵 100,000人」という数字が載っています)。「宣伝」で「台湾各地の老若男女は義勇兵として郷土防衛のために抵抗した」というので、これは「土匪」「匪賊」だけじゃないですよね?
 さらに言えば、

清国反乱兵側はゲリラ戦により、白旗を掲げて敵意がないことを装い、日本軍が安心したら後ろから攻撃することを繰り返したために関係のない住民までが戦闘に巻き込まれ、このために日本軍が住民から恨まれたいうこともあったようですが

という自信満々の文章についても一言。これはおそらくWikipediaの「乙未戦争」の項目の以下の文章を使ったものでしょう。

日本軍が土兵や土匪と呼んだ義勇兵は大軍をみたら白旗を揚げて笑顔で迎え入れ、少数になれば後ろから襲いかかって日本軍を攻め立てたために、日本軍は対策として村まるごと殺戮するといった強硬手段に出た。このことがさらなる反発を呼び、抗戦運動を長引かせた[17]。

パクリ創造的引用だと思いますが、ちょっと「使い方」に問題があります。「少数になれば後ろから襲いかかって」ということは、散開するまでのタイムラグがあるわけですから、「卑怯」の印象度は少なくなります。で、「日本軍は対策として村まるごと殺戮するといった強硬手段に出た」らしいので、結局住民の中の有力者ときちんと話をつけられなかったみたいですね。この「強硬手段」も考慮すべき事柄のひとつです。
(「自発的に従ったよ史観」というのはこちらのめいめいに過ぎないので、「自発的に従ったぜ史観」への変更を希望される方は、ご連絡ください。)

■まとめ■
・歴史研究によく似た「芸」に対しては、ガイドブックが必要です。
・本論では、病死者含む死者が「日清戦争後半」の方が上である点で、「戦争」と呼ぶことが十分妥当であることを主張します。
・「清国兵と一般住民の乖離」を論証するには、ちゃんとした二次資料も必要になります。
・「自発的に従ったよ史観」という名前が気に入らなかった方々は、候補をいただければ幸いです。(注1)
Wikipediaくらいきちんと読めないと、社会に出てから苦労します。
・『日本近現代史と戦争を研究する』の新しい記事が待ち遠しいです。

■おまけ☆Q&A■

清国末期に起こった『義和団の乱』は西太后が列強諸国に「宣戦布告」までしているにもかかわらず、何故「庚子”戦争”」と呼ばれないのか?

 小林一美義和団戦争と明治国家』という名著が存在しております(「名著」というのは、増補版のキャッチコピーです)。「戦争の推移」という但し書きが、Wikipediaにもあります。実質戦争ということです。要するに、「義和団の乱」と呼ばれるのは、慣習上のことに過ぎないようです。論拠があれば当然、「戦争」でもいいわけですね。

・清国兵は台湾の住民を守らず、敗走時には逆に住民を虐殺・略奪

 これのきちんとした出典をください。

同時に、台北と台南という2大拠点の両方で決戦すらせず、 / 逃亡しただけなのですから、規模の点でも戦争とは呼べません。

 「決戦がないと戦争じゃない」という斬新な考えをお持ちのようです。早速、論文を書いてそっち方面の学会に投稿されるといいんじゃないでしょうか。


(注1) 

台北と台南2城が戦わずに開城したのを除き、各地(後山=山岳地帯と東部を除く)ではすべて日本軍の侵入に激しく抵抗し、無数の死傷者を出している。日本軍を案内して無血入城させたことについて、以前から人民をさらなる塗炭の苦しみから免れさせたという言い方があった。結果論としては、このような言い方も正しいかもしれない。しかし開城して敵を迎え入れるこの行為は、果たして外敵との抗争に苦しむ人民のためを思っての大慈悲心によるものであったのか、それともあるいは自分の財産や生命に思いがあったのか、あるいは極言すれば、いちかばちかの大博打であったのか。史料を見わたしても語るものは少なく、憶測は敢えて避げておこう。ただ、無血入城を推進した彼らが、 後に日本側から膨大な贈り物を受け、久しく密接な「協力」関係を続けていったことから見れば、少なくとも慈悲という宗教的な動機からではなかったことはほぼ確かであろう。

 一応、Wikipediaだけだと不安なので、二次資料のなかでも、周婉窈 『図説・台湾の歴史』から引用しました (「第7章 日本統治時代――天子が代わった」(『15年戦争資料 @wiki』様))。台北と台南以外は、日本軍と台湾側(義勇軍含む)との激戦が続いた、と書かれています。また、台北と台南以外の「無血入場」についても、それを行った側には、「慈悲という宗教的な動機」以外の動機があったことを述べています。
 「日本軍を台北城に導き入れた辜顕栄は、逆に一躍台湾の名家の仲間入りを果たし、その一生を栄華のうちに終え、現在その遺産は何代も後の子孫にまで及んでいる」。これは、Wikipediaの「辜顕栄」の項目にも書かれています。

(さらに追記)
 二次資料について、どれを読めばいいかについては、「植民地台湾」(『日本近現代史と戦争を研究する』様)をご参照ください。

2010/2/12 一部修正済