?日本人は信仰心が薄いのか、?現代人は欲深いのか? 『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』(4)

■宗教において、急ぐことは禁物です。■

 宗教的な伝統が最も近代の世俗社会と対立するのは、実はこの時間というファクターかもしれん。神や霊魂が不合理とか、そういう問題よりも、時間意識の違いというものがいちばんのギャップとなっているのかもしれないのじゃ。 (132頁)

 一方に、近代の急ぐ社会。一方に、伝統宗教の確実に時間をかけて急がない伝統。この対立が最大の違いだ、というのです。宗教において、何事も、急ぐことは禁物です。宗教的なコミュニティの中に、順応し、入信に至るまでには、時間がかかるものです。 

 世人は「宗教って何ですか?」と問う。すぐにも答えを得ようとして、『ネコにもわかる宗教入門』といった式のハウツー本を買う。(中略)わからないと疑心暗鬼に陥る。妄想だ、マインドコントロールだと騒ぎだす。 (133頁)

 急ぐべきでないものを、無理に急ごうとすることの不幸。周りにいる宗教嫌い、宗教に偏見を持つ人というのは、こういった急ぐべきでないところで、急いでしまった人かもしれません。
 以前も書いたとおり、現代の世界に必要なのは、この【時間をかけること】の重要性のはずです(詳細は、拙稿「【「安楽」への全体主義】と【時間をかけること】」 をご参照ください)。

■現代人は欲深いのか?■

 よく現代人は欲望が肥大したといわれるが、これは必ずしも正しいとらえ方でない。現代人は毎日毎日、せっせと欲望の抑制に努めておる。
 現代人に比べれば、昔の人間は実にちゃらんぽらんじゃった。分刻みの時間感覚なんぞとはまるっきり無縁じゃった。
 現代人の好きな「計画」というのは<欲望肥大>の青写真であるかもしれんが、計画そのものは時間を決めて欲望を<抑制>することで成り立っておる。 (164頁)

 欲望をより満たすために、満たし続けるために、現代人は、欲望を抑えます。あくせく労働します。貯金します。時間も厳守します。(欲求を満たすために、ひたすら労働する現代人の姿については、拙稿「【「安楽」への全体主義】のなかの苦痛」もご参照ください)
 一方、昔の人々は、所属する共同体の規律・戒律の中で、現代社会と比較して時間に追われることのあまりない生き方をしていたはずです (自然の災害や戦乱に振り回されたり、政治的・宗教的な迫害を受けたりなど、無論その生活は決して楽だったわけではないでしょうが)。
 要するに、現代人=欲深いなのではなく、各時代で、欲望と禁欲の配分の仕方が違うだけなのです。現代人(近代人)は未来の欲求を満たすために禁欲し、前近代人(昔の人々)は戒律を守る制約の中で相応の自由な生活をします。昔の人は、物質的に節制し、自然に謙虚で、人生設計を自分で綿密に立てることなどあまりなかったのです。

■日本人は【信仰心が薄い】?■

 世界中から「宗教」に違和感が申し立てられていることは、世間ではあまり知られていない。日本でも「宗教」という言葉はどこか宙に浮いた感じがあるが、それはもっぱら日本人の精神的な自覚のなさのせいにされてきた。
 しかし、そういう問題ではない。文化の違いを超えて同一の言葉(の訳語)を当てはめることには、それなりのリスクがある。世の中に出回っておる「宗教」解説書は、どうもこのあたりの解説に手抜きがあるようじゃ。 (182頁) 

 世界中の人々には宗教への信仰心がある、もしくは、世界各国は宗教に根ざした社会を作っている、なのに日本には、そういったことがない。これは日本人の特殊な社会、あるいは信仰心のなさによるものだ。このようなことが言われます。
 しかし、かような言説は、俗流の日本特殊論にすぎません。むしろ、「宗教」という語自体の問題と考えるべきでしょう。西欧由来である「宗教」という概念は、どうしても、西欧におけるキリスト教(特にプロテスタント)の、個人主義的かつ教義重視の傾向をもちます。この概念と、日本の宗教的実態とのズレを、考察すべきなのです。この点については、磯前順一 『近代日本の宗教言説とその系譜』をご参照ください。
 
■近代におけるゴミ捨て場、としての宗教■

 近代人は不合理と思えるものを「迷信」として退けてきたが、単純に合理化できない精神的な世界については、「宗教」という聖域を認めることで、不合理性の追求を猶予してきたようなところがある。 (190頁)

 「キリスト教から離脱しようとする近代の社会と知のシステムは,同時に自らの同一性を確認するために,近代性の母胎にして,その他者でもあるところの宗教という概念を必要としたのです.」という深澤英隆氏の言葉のとおりです。
 言葉を悪くして言うと、「宗教」というのは、近代における【不合理性】というゴミくずの捨て場所なのです。とすれば、宗教に「近代性との軋轢のなかで,さまざまな待望や幻想」を託そうとした知識人たちはみな、【くず拾い】、【収集家】となるはずです。この【くず拾い】たちの軌跡をつづった好著として、島薗進『宗教学の名著30』があります。

(了)