「漏給」問題への対策と、Jカーブ効果批判 白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等』

白波瀬佐和子(編)『変化する社会の不平等―少子高齢化にひそむ格差』東京大学出版会 (2006/02)


佐藤俊樹「爆発する不平等感―戦後型社会の転換と「平等化」戦略」

■何でいまさら、「格差」が論じられたのか■

 90年代の終わりから日本では不平等感の爆発が起こった。つまり実態以上に強烈に「不平等化」が感じられるようになったが、それ以前は「平等社会である」という感じ方が強かった。 (21頁)

 日本においては戦後ずっと実態的に「不平等」が存在していたのに、最近まであまり論じられることがありませんでした。それが、90年代の終わりになってやっと、多くの人々が「不平等」に敏感になって、これを主題が論じられることが多くなったのです。
 以下、佐藤論文について、註釈めいたもの(単なる意見?)を書いていきましょう。「平等社会」といわれていた時期でも、「世代間職業継承性」で見れば、日本社会はイギリスや西ドイツに比べても特に平等だったわけではないのです。なぜ最近になって?、というこの疑問に本書は答えようとします。その解答が出せたのかどうかは、本書を実際に読んでご確認ください。(なお、佐藤論文をまとめたものが、『arsvi.com』様のサイトに掲載されています。)

■自己責任原則と家族制度の矛盾■

 ピューリタンは、自己責任原則と家族が矛盾することを見ずにはおれなかった。そのくらいには原理主義者であったが、今のアメリカ合衆国にいるのは、その矛盾から目をそらしつつ、「家族も自己責任も神が定めたもうた」という自称「原理主義者」たちである。 (24頁)

 自己責任原則と家族制度は、互いに相反しうる要素をはらみます。プロテスタントの教義においては、自己の責任に帰する範囲が比較的大きい。しかし子供は家族が育てるから、自己責任にできる範囲は、家族の存在によって制限されるのではないか、ということです。
 もっとはっきりいえば、人が貧しいのは自己責任だというが、子供は家族を選べませんよね、家が貧しいのは子供のせいでしょうかね、ということです。いわば、個々人のスタートラインが不平等だが、これはどうしたらいいのか、という問題です。これは、どの社会にとっても難問です。
 もし、教義に正しくあるのなら、子供にも自己責任論が全面的に適応されるべきでしょう。これを解消するには究極的に、プラトン『国家』のように、共同体全体で子供を養育する云々、という話にもなるはずです。
 で、著者の想定する合衆国の【自称「原理主義者」たち】は、それを日和ったわけです。【通称「自己責任論者」たち】も同じく、それを日和っています。
 
■もう、次の世代に希望を回す形での自己犠牲は望めない■

 現代の私たちは「本人がこうむった機会の不平等を本人の生存中に是正する」という課題に正面から取り組まなければならなくなっている。 (37頁)

 佐藤論文は以下のように、乱暴に要約できるでしょう。
 いま自分が損をしていても、家族の次の世代が豊かになればいい、という希望が、戦後日本を支えていた。しかし、そんな希望は持てなくなった。さあどうしよう。こんなところでしょうか。
 もう、親は子供の幸福に希望を託す、という擬制に頼れません。だからまずは、その当人自身の将来を主眼に置いた政策、つまり、子供世代とか孫世代じゃなく、自分自身が損をしないような制度を設計していこう。また、親世代の作った負債を、子の世代にまでまわさないような工夫をしよう。このような方法を佐藤論文は提案するのです。

■「自己責任」を水掛け論にしない工夫■

 本人の上で不平等を是正するとすれば、どんな要因でどの程度不平等だったのかを確定できないままで、是正措置をとる必要がある。「本当にそのせいか……」と細かく厳密に検討していけば、水掛け論になりやすい。少なくとも容易に水掛け論にしてしまえる。そうなると、明らかに不平等な状況も結果的に固定されてしまう。 (41頁)

 「<測定の不確定性まで考慮した上で>、政策の採否を決める必要がある」と著者は述べています。
 自己責任をめぐる論議は、嫌でも【水掛け論】になってしまう。なぜなら、どの要素がどの程度原因として働いたのか、これを厳密に測定することは、不可能だからだ。これをめぐる論議をやっている間にも、不平等は固定化される。著者は、立岩真也の意見を引きつつ、「機会の平等」の原理を重視する立場でも、結果的には「結果の平等」を推進するような政策を推進した方が、かえってよい場合がある、といっています。
 この問題については、生活保護の「漏給」問題を想定すべきでしょう(詳細は、拙稿「【自己責任論=精神論】と「濫給」問題」をご参照ください)。「漏給」問題を解決するには、きりがない原因の詮索をある程度までで中止し、「氾濫」を生んでしまうリスクを一程度甘受してでも、「結果の平等」を生む政策をすべきなのです。


・石田宏「健康と格差―少子高齢化の背後にあるもの」  

■飲酒と経済的格差の関係■

 専門管理層と高所得層は、飲酒をしやすく、さらに病気と通院以外の健康領域では他の階層よりも健康であることがわかっているが、より健康であるのは飲酒のためであると解釈するよりも、より健康であることにより飲酒できると解釈する方が妥当であろう。 (158頁)

 専門管理層や高所得層は、医療情報のアクセスがよく、このことを通じて、健康維持が可能になり、肉体的だるさ、活動制限、抑うつを訴えにくく、主観的健康状態も良い傾向があることが推察される。 (159頁)

 経済的資源は、(略)医療器具を購入したり特別な治療を受けたりして、予防策を講じることも可能にする。 (161頁)

 飲酒の頻度と、経済格差にはどんな関係があるのでしょうか。石田論文はこれに応えています。
 石田は、統計の結果、所得が高く専門管理職についている人の方が、飲酒しやすく、それでいて健康である傾向があるといいます。その理由というのは、【飲酒するから健康だ】ではなく、【健康だからこそ飲酒できる】というものです。(注1)そして、所得が高い人なら、医療情報へもアクセスしやすいし、健康のために予防策を行うだけの経済力もある、といいます。(注2)
 以前、日本では所得と飲酒及び健康に関する統計がないと書きましたが、この論文が存在していました。この論文こそ、Jカーブ効果のカラクリを説いてくれる鍵になると思います(詳細は、拙稿「Jカーブ効果を批判した例」をご参照ください。)。

(了)


 (注1)【飲酒するから健康だ】ではなく、【健康だから飲酒できる】というテーゼについては、「1 お酒のJカーブ理論 の もう1つの見方」(『飲酒習慣の見直し 謹酒の会』様)も参照されるべきです。曰く、「全く飲まない人とは体力的に飲めない人ではないだろうか。」

(注2) 酒を飲みすぎてからだを壊してしまい、もう酒を飲めなくなった人がいる、ゆえに、Jカーブを描くような、飲酒と健康の相関関係をあらわす統計が出てくる。このように批判を行ってきました。これに対しては、「以前に飲酒していたが、何らかの理由で現在禁酒している者」を除いても、やはりJカーブを描くという統計が存在するようです。「飲酒とJカーブ」(『e-ヘルスネット』様)という記事にあります。
 これに対する批判としては、「以前に飲酒」という言葉の問題を挙げることができるでしょう。確かにこの統計では、非飲酒者のうち、酒の飲みすぎて酒をやめてしまった人は除かれています。しかし今回は、酒以外の原因で元々体が弱い非飲酒者のことを、想定していません
 また、この記事自体が認めているように、「アルコールは健康問題以外にも、暴力、虐待、事故等の深刻な社会問題を引き起こします。これらの問題のリスクと飲酒量の関係もJカーブ関係を示さないことが示唆されています」。この統計を見ると、「外傷やその他の外因による死亡」は、飲酒をした場合、発生するリスクが増加します。「暴力、虐待、事故等の深刻な社会問題を引き起こします」。
 記事にあるように、総死亡のリスクを下げる要因である「虚血性心疾患」の場合でも、「Jカーブ関係が認められるのは、先進国の中年男女とされています。若年者の死亡については、ほぼ直線関係になるという研究結果もあります5)」。要するに、一概にJカーブ効果が期待できるわけではありません。また、どのようなメカニズムでこのような効果が発生するのか、厳密にはわかっていない以上、Jカーブ効果を、(その摂取量に関らず)飲酒を進める口実に使うのは差し控えるべきでしょう。
 なお、Jカーブ効果から、酒の健康への効果を見出そうとする人は、酒以外の飲食物の健康度を考慮すべきです。酒を20グラムまでなら健康によい云々という言説がありますが、それ以前に、野菜を摂ったほうがいいのです。適切な食事をきちんと摂ってから、酒と健康の関係を語りましょう。

2010/02/12 内容一部更新