「公共空間」における本音と建前 の問題 /入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか?』(2)

 (引用者注:「異者」もまた) 自分は「異者」ではなく「公共空間に住まう同じ者」であって、「排除」される理由など何もないのだ、と市民社会的で安全な言葉で語らなければならない。だからこそ、たとえば「神聖な場を大切にする(べきだ)」という点については、覆面反対派も覆面容認派も、実は一致してしまう。一致しているからこそ、賛成・反対のコミュニケーションが成り立つ。(164頁)

 これが、「原-排除」の問題です。「異者の創出と排除」及び、「場のフィクショナルな維持」というテーマです。(覆面云々の話になっているのは、これが「『覆面問題』が隠すもの」という題名で、某議員が覆面をして議会に出ることの是非が問題になった時事ネタが背景にあるためです。)
 例えば、原理的に、ある集団からは、誰かが排除されます。会社からは、「無能者」が、学校からは、苛められっ子が、国民からは、「非国民」と外国人が、日本の福祉の網からは、ワーキング・プアが、。彼らはそれに対して、自分もまた、「公共空間に住まう同じ者」であって、「排除」される理由などない、と反論します。(ただし今回の場合、類似した問題としてあるのは、仏国の「スカーフ(ブルカ)」問題や、外国籍の日本在住者への「子供手当て」支給資格の是非、などでしょう。)
 しかし、排除に賛成するにせよ反対するにせよ、その口調はあくまでも、「市民社会的で安全な言葉」でなければなりません。排除に賛成の側も、排除に反対の側も、「市民社会的で安全な言葉」を擁護し、その言葉が交わされる空間(「公共空間」)を守ろうとします。
 では、その口調を用いずに、別の語り方(=「本音」)でしゃべったら、どうなるのか。
 排除に賛成の側は、「公」には、これを口にできません。素直に口にすると、「異物感」という私的な意見に堕するからです(【あいつは嫌いだ】、【気持ち悪い】)。しかし「公」の言葉にしてしまうと、今度は、「品位」「常識」「規則」などの安全な言葉になってしまうのです(【あいつには資格がない】、【能力が不足している】、【前例がない】、【規則で決まっているから】)。
 逆も然り。排除に反対の側は、素直に「自己利益のため」に自分を排除するな、などとはいえません(【煎じつめれば、全ては自分たちのため】、【俺にもよこせ】)。しかし、「公」の言葉にしてしまうと、今度は、「品位」「常識」「規則」などの安全な言葉になってしまうわけです(【能力は十分ある】、【OOという先例がある】、【そのような規則が、他国で認められている】、【理念的に正しい】)。
 両者は、ともに、そのフィクショナルな「公共空間」を維持する点では、一致しています。著者は、プロレスにはそのような公共空間の安定を脅かす魅力がある、と述べていますが、これについては詳細を語るつもりはありません。ただそれでもなお指摘しておくべきは、その公共空間は強力であることを、著者が何度も強調している点です。
 ジャック・ランシエールの「政治」観と比較しようと思いますが、また次回。