同化ユダヤ人は辛いよ/「キリスト教世界」なんて近代の産物だよ 工藤庸子『砂漠論』(1)

 工藤庸子『砂漠論 ヨーロッパ文明の彼方へ』左右社(2008/3)
 本書は、『砂漠論』というタイトルで、実際に表題の一編が、冒頭に掲げられています。しかし、全編を見通すと、ヨーロッパ文明の「彼方」の事よりは、「此方」の方が主題として扱われています。
 「彼方」が取り上げられるにしても、主題として扱われているというよりは、「無限大の砂漠。その微粒子の密かな囁きに、ヨーロッパが耳をかたむけるようになったのは、いつ頃のことなのか」と本文にあるように、ヨーロッパ文明から見た非・ヨーロッパ文明(あるいは他者)として扱われています。例えば、砂漠での幻視を取り上げるフロベールの聖アントワーヌ、オリエントへの視線の中に植民地的な欲望をのぞかせるピエール・ロティが取り上げられています。

■同化ユダヤ人、あるいは、社会進出したら脅威と見なされて■
 砂漠については、まあ、本書をお読みいただくとしましょう。
 まずは、ヨーロッパ文明から見た非・ヨーロッパ文明(あるいは他者)という観点から何か取り上げてみましょう。例えば、ヨーロッパにおけるユダヤ人であり、「イスラーム圏」の人々を。
 著者は、ポリアコフの著作を評して、ユダヤ人に対する差別の歴史的変遷をたどり、1492年のユダヤ人追放令以後、キリスト教徒に改宗した旧ユダヤ教徒である「マラーノ」が取り上げられます。
 このとき、マラーノはキリスト教を信仰しているのか、それとも偽装なのか、誰も究極的には確認できません。そこで、「リピエンサ」という純潔規範が設けられ、これが19世紀における「人種」観念となったというのです(192,193頁)。スペイン起源であるというのが、ポリアコフの考えのようです。なお、人種という観点からユダヤ人が差別されるようになった経緯については、ハンナ・アレント全体主義の起源』もご参照ください。
 で、マラーノはキリスト教を信仰しているのかそれとも偽装なのか、誰も究極的には確認できない、というこの不確定さは、後々にまで引き継がれる問題となります。フランスでは大革命の際、A、伝統的なユダヤ教を廃棄させる代わりに、ユダヤ人にもちゃんと市民権を、という主張と、B、ユダヤ教の伝統を維持させる代わりに二級市民にする、という主張とが拮抗した歴史があります。
 この拮抗は、「同化ユダヤ人」の存在に引き継がれます。つまり「劣等」のレッテルを貼られないために、フランス国内で何とか出世しようとするのに、公教育の現場では苛められ、頭角を現して社会進出すればマジョリティに脅威に見られて警戒されてしまうのです(究極なものとして、ユダヤ資本陰謀論がある!)。
 かといって、もしユダヤ人が社会の底辺にいるままだったら、おそらく今度はマジョリティに「穀潰し」などと批判されたでしょう。日本に在住する非・日本国籍取得者たちの中には、そのように罵倒される人々がいるわけでしょうし。社会の底辺にいたら税金泥棒扱い、社会的に活躍したら、今度は脅威と見なされる。マイノリティは、社会において、おおよそこのような扱いを受けてしまうのです。

■「イスラーム世界なんて近代の産物」、「じゃあキリスト教世界も近代の産物」■
 著者は、羽田正『イスラーム世界の創造』を批評しています。おおまかな内容は、イスラーム世界」なるものは近代になって創られた概念であったが、近代になるとムスリムたちもヨーロッパ植民地主義に対抗するために、「イスラーム世界」、理念的な共同体としてのイスラームという意識を共有するようになる、という内容です。この共同体意識は、近代になってから出てきたものなのです。あとは、日本におけるイスラーム研究の歴史と大アジア主義の関係についても取り上げられていますが、これは羽田氏の本をお読みください。
 で、著者は、「原因と結果を混同し、複合的な因果関係を短絡的に図式化してみせる論説」(199頁)を批判します。「イスラーム世界」といった、ヴァーチャルな存在なのに、それをコアにして過激な行動に駆り立てられることに、対抗しようとするのです。その代表格として、「原理主義」があるわけです。
 複雑な世界を単純に切り分けてしまう鈍磨さの例として、著者は、イスラーム世界の政治体制に触れます。ムスリム住民を多く抱える国の大半は、政教分離が採用されているのに、イスラームという宗教を一絡げにして断罪しようとする鈍磨さ。このような鈍さに対して、著者は、フランスだって長らくカトリックが国教だったし、イギリスは今でも国教会だし、アメリカなんか宗教勢力が政治に堂々と介入しているじゃないのよ、と反論します。こういう事実、イスラーム批判の際に、結構忘れられていることですね。(そういえば、ドイツも「キリスト教」を看板にした政党があるし、結構宗教が政治に関りもします)
 著者は、キリスト教世界」についても、羽田氏に匹敵する書物が求められるといいつつ、誰が書けるのか、と嘆息しています。まあ、それが書かれる際には、『ヨーロッパ文明批判序説 植民地・共和国・オリエンタリズム』が、参考文献に上がること間違いなしです。皆様ご一読を。