ゴミと文学について -ゴミコメントと「優しさ」の問題-

 それがいかなる記事、いかなるコメントであろうとも、人は優しさを隠せないものです。今回、その実例として、実に親切かつ高貴な方が例示してくださったので、早速、見てみることにしましょう。

ああああ
何このくだらんゴミ投稿(´・ω・`)
文学なんて誰も見ないんだから自分のノートにでも書けよ。
2010-10-20 06:50 | ああああ #pxxjxOTw URL [編集 ]

 実にぶっきらぼうさを装ったコメントです。これは、拙稿「プルースト『失われた時を求めて』の書き方、読み方について 工藤庸子『砂漠論』(4)」に寄せられたものですが、しかしながら、ここにはぶっきらぼうさを装った慎みが隠れています。

■ハンドルネーム■
 例えば、「ああああ」という名称です。匿名性を有するネット空間において、ハンドルネームは何であってもよいのです。キャラクターの名前であっても、「@@@@@@」でも「fへくぃsfはk」のようなものであってもよいはずです。
 それなのにこのコメントの主は、「ああああ」と、キーボードを4回押す形で、己のとりあえずの名を名乗っています。わざわざ、「A」のボタンを選択しているあたり、このコメントの主は、ボタンを選択にあたって配慮をしているのです。じつに、つつましやかで好感が持てます。
 次に、「このくだらんゴミ投稿」という言葉です。一見すると、記事に対する悪印象をもっているようにしか思われません、しかしながら、次の点こそ重要です。

■ゴミの価値■
 「くだらん」「ゴミ」という価値判断は、最低限記事に目を通さなければ、出来ないはずのことですから、ある程度は、この「くだらん」「ゴミ」につき合っていたことになります。コメントを書くに至るまで、最低限時間を費やしてしまう。これほどまでにに、コメント主はやさしさをお持ちなのです。
 その上、単に「ゴミ」と書けばよいところ、わざわざ「投稿」という言葉を用いています。誹謗したい対象に対して、そのような「投稿」という言葉を選ぶということは、実はこの対象を「投稿」の名に値する者として肯定しているのです。ゴミという価値判断をしながらも、これがやはり「投稿」に値するものとして評価する優しさは、書き手としてありがたいことです。「(´・ω・`) 」というコメント主様の似顔絵も、性格のよさが表れていて好ましいものです。きっと御顔はクリソツであること間違いありません。

■文学を読む■
 そして最後が重要です。「文学なんて誰も見ないんだから自分のノートにでも書けよ」という言葉です。
 まず問題になるのは、「文学なんて誰も見ない」という箇所です。この点は事実に即しているのか。しかし、文学に対して最低限の読者が存在することは、現在でもなお残存する大小の文学系出版社と、大学の文学部が証明するでしょう。文学は一応最低限の読者を保有します。まして、プルーストという有名作家であれば、最低限の読者ぐらいは一応存在し得るわけです。線材的にこの記事は、目を通される可能性をもちます。
 「文学なんて誰も見ないんだから自分のノートにでも書けよ」という命題は、「文学はだれかが見ている以上、自分のノート以外に書く権利をもつ」へ容易に転換されてしまうのです。このような軟弱・貧弱な命題の論理は、明らかに狙って書かれていると思われます。
 さらに言えば、文学とは「見る・見ない」という語によってではなく、「読む・読まない」という語彙によって判断されることが通常でしょう。この語彙の選択を見る限り、「文学」に対する無知を、このコメント主が装っていることは明白です。みずからが文学など無知であるにもかかわらず、文学について書いてしまうという俗物。これを演じる見事な器用さが見て取れます。

■誰も読まない■
 それでもなお反論があるかもしれません。文学に関係なく「誰も見ないんだから自分のノートにでも書けよ」という反論です。
 しかし、「誰も見ない」と「自分のノートに書く」という行為は、実はいっさいつながりなどありません。なぜなら、ネット空間にあるものはたいてい「誰も見ない」ものが書かれる空間であるからです。 「誰も見ないんだから自分のノートにでも書けよ」という命題が正しいとすれば、ネット空間に広がるたいていエクリチュール(文字も記号も)は「自分のノート」に書かれるべきであることになります。
 しかしながら、本来「自分のノート」に書かれるべき言葉さえも、誰も読まない文章さえも、ネット空間に平気な面で存在してします。それを証明するのに、かの有名な投稿掲示板は格好の事例のはずでしょう。その質や量のいかんにかかわらず、ネット上にエクリチュール(記号も、文字も)は氾濫しています。
 ここで当然、この「文学なんて誰も見ないんだから自分のノートにでも書けよ」というコメもまた、誰も読まない「くだらんゴミ」であることに思い至ります。読まれぬ記事につけられたコメントもまた、読まれるはずがないからです。するとこのコメントもまた「自分のノート」に書かれるべきものとなってしまうのです。自身もまたゴミにすぎないという帰結を甘受しない愚昧。これを演じるコメント主は、身をもって「ゴミとしてゴミを批判する」ことの間抜けさを教えてくれているのです。ここには心の優しさがにじみ出ています。

■自分のノート■
 では、なぜ優しさがにじんでいることが分かるのでしょうか。それは、「自分のノート」という言葉に表れています。
 「自分のノートにでも書け」とネット空間からの追放を命令する乱暴さ(「にでも」!)に見えながら、実はコメント主は、「自分のノート」に書くことは許容しているのです。別にノートに限らず、トイレの壁やチラシの裏など、書くべきスペースはいくらでもあるにもかかわらず、この記事が十分「自分のノート」に書くに値する内容であることを是認しているのです。どれだけ傲慢さを装っても、心の優しさは隠せていないことが分かります。

■朝早い高貴さ■
 実際この投稿は、「2010-10-20 06:50」に書かれています。早朝、これから勤め人たちが勤め先への準備をしたり、既に向かったりしている貴重な時間です。この大切な時間帯に、わざわざこんな「ゴミ投稿」へコメントをすること。この行為には、余裕と優しさが表れています。
 この時間帯にわざわざ投稿できるということは、よほどの高貴な身分の方に違いありません。労働から遠く離れていられるような身分の方であることが推定できます。そのような方が、わざわざブコメの姿にやつして、このような優しさにあふれたコメントをくださったわけです。
 
 高貴な方からの投稿、実にありがたい限りです。しかしながら、当ブログは下賤なるゆえ、このような高貴な方のコメントと、ゴミコメとを見分けられず、削除するという無礼を犯す可能性も否定できません。特に夜遅くともなれば、眠気がそのようなことをさせぬとも限りません。これも当方の力量不足によるものですから申し訳ない限りです。しかしこれも「労働」からは離れられない身の上ゆえ御寛恕願います。
 ですので次回以降は、当方にも高貴と分かる形でのコメントをお願いいたします。お忙しい身分でしょうから、なかなかコメントを頂けないものと思いますが、いつか高貴な御身分に相応しいコメントを頂けることを当方は希っております。

 なお、コメントですが、早速眠気のせいで、消してしまったようです。申し訳ありません。

(おわり)