天野郁夫『試験の社会史』を読んだ。
正確には再読なのだが。
興味深かった所だけ。
まず、試験と競争の歴史について。
実は、競争と結びついた試験は中国の科挙に始まる(27頁)。
科挙の存在が、欧州の啓蒙思想家たちに注目された歴史的事実は、よく知られているだろう。
たしかに、西洋の大学にも試験はあった。
しかし、この大学は、学問をする同業「組合」の色が濃い。
組合であり、メンバーシップが重視されていた。
他の徒弟関係を軸とする「組合」のように、メンバーになるための資格制度だったのが、この資格制度には競争の要素はなかった。
あくまで、ペーパーではなく、対論を裁定する実習くらいしかなかった。
本題。
日本の戦前の教育制度について、基本的なこと。
大まかにいうと、明治期の日本の教育制度(もちろんエリートコースの場合)は二階建てだった(157、158頁)。
一階の小中学校と二階の大学は別世界で、大学は「日本の中の西洋」でありつづけた。
(ここらへんについては、Wikipediaのこの記事の図を参照あれ。)
この二つの間に、外国語主体の「予備教育」があった。
日本国の試験地獄が展開されるのは、なにより、この「予備教育」(予備門、高等中学校、高等学校など)においてであった。
では、なぜ予備教育が必要だったか。
二つの外国語の能力が必要だったからである(272頁)。
それが帝国大学入学に必要な条件だった。
一方、日本人教師が日本語で授業を行う「専門学校」の場合は、さほど外国語について高い能力は必要なかった。
(さっきのWikipediaの記事の図を参照。)
井上毅は、こうした日本語による専門教育機関こそ本当の「大学」であるべきであり、帝大はむしろ研究や研究者養成に特化すべきだ、と考えていた。
この考えを抱く人々は当時においても少なくなかった。
しかし、当時の若者たちの目は、強く、帝国大学への道に向けられていた(273頁)。
それは、制度がもたらすインセンティブによるものだった。
官僚などエリート候補者を全国から吸い上げるために、帝国大学を頂点とする系統に、国家が集中的に資源(予算や人員)を投入して特権を付与して育成したことが、その背景にあった。
実際、試験免除や就職先に大きな差があったことが、本書には書いてある。
それだけではない。
全ての段階の学校が一斉に作られた日本では、上級の学校はそれぞれ独自に、自分の学校の教育レベルにあわせて入学者に要求する学力の水準を定め、試験によって学力をはかって、入学者を決めなければならなかった(353、354頁)。
急ごしらえの改革で、一斉にスタートしたため、そうせざるを得なかったのである。
入学前に能力で選別をしておけば、その学校にとっては、落後者を出すリスクが減る(身も蓋もない説明の仕方だが)。
だが、その後も入学試験は廃止されなかった。
前述のとおり、近代化を担うエリート校である帝大の場合、学術の水準において欧米諸国に引けを取らないよう、入学者に要求される学力が高い水準に設定されたからである。
「二階建て」の落差を埋める方法として、中学校や高等学校も厳しい入学試験をせざるを得なかった。
さらにさらに。
学校が立身出世のもっとも重要なルートだと認知されてくると、富裕な平民層を中心に、上級学校への進学を目指すものの数が急速に増えていった。
だが、財政難に苦しむ政府は、上級学校、とくに高等学校や帝国大学の収容力をなかなか増やそうとしなかった(355、356頁)。
結果、押し寄せてくる受験者の波をさばくためにも、入学試験は無くてはならないものだった。
こうした理由によって、日本の選抜試験において、入学試験が軸になったのである。
「急ごしらえの改革が、その背景にあったのである」みたいな話。
(未完)