喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションでい続けるか、ってことに尽きる -塩田明彦『映画術』を読む-

 塩田明彦『映画術』を読んだ(再読)。

映画術 その演出はなぜ心をつかむのか

映画術 その演出はなぜ心をつかむのか

  • 作者:塩田明彦
  • 発売日: 2014/01/22
  • メディア: 単行本
 

  内容は、紹介文の通り、

観る者を魅了する人物は、どのように作られるのか?映画監督の著者が、偏愛するさまざまなシーンを取り上げながら、心をつかむ“演技と演出”の核心に迫る連続講義。

というもの。

 かんたんにいうと、とても面白い。

 以下、特に面白かったところだけ。

意識の分散

 何か別のことをやっていると演技は格段に楽になります。二つのことを同時にやっていると芝居は基本的に成立する。僕が子供を演出するときは、まさにこれをやるわけです (22頁)

 何かをしていないと、芝居を受ける側の演者は、待っている時間に耐えられない。
 「自分の台詞を言い終わったあとの時間をどう過ごしていくかは、たぶん俳優に課せられたすごい重要」なことなのである。*1

「これが映画だ」という感触

 動かないはずの物に動きを与えることで、物に命を吹き込もうとしている。生命なきものに生命を与え、生命あるものは物として見つめるーーまさに「これが映画だ」という感触がここにあります。 (53頁)

 ヒッチコックの「サイコ」の終盤の演出である。*2
 照明を揺らすことで、死者が笑っているように見せている。
 生命なきものに生命を与え、生命あるものは物として見つめる、まさしくそうである。*3 *4

説明過剰の演技

 観客は仮面の中の視線や瞳の動き、声の感触だけで、ほとんど彼女の内面を察知することができる。それなのに、俳優が自分の内面をわざわざ「表情」として表そうとすると、それはすでに観客が知っていることの追認でしかなくなってしまう。 (58頁)

 その結果、「説明過剰に見えてしまう」のである。*5
 観客は「俳優が演技していることすら忘れて、映画や登場人物に没頭したい」のである。
 著者は例としてヴァン・サンド版「サイコ」を挙げ、そこでは或る俳優が自分の「気持ち」を表情に出すことにばかり意識がいっていて、目の前にいるもう一方の俳優が「危険」な存在(役柄)だということを忘れてしまっている、というふうに指摘している。

喜劇役者はエモーションに逆らう

 みんなが怒っているシーンで平然としてる。それをいかに通すか(略)喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションでい続けるか、ってことに尽きるんです。 (196頁)

 異化するのが喜劇役者の仕事である。
 たとえ悲しい場面でも泣かない。*6
 他人事のような態度を貫くために、喜劇役者は歌うように、口上のように、セリフを言うことがある。

カサヴェテスと渦巻く感情

 カサヴェテスはそうじゃない。人間の感情は常に複数あって、その複数ある感情のうちのどれかが今支配的になっている (引用者中略) 複数の感情が渦を巻いて一定しない。 (231頁)

 カサヴェテスはそういったアンビバレントな感情*7をきちんと「行動」で描いているという。
 彼は、感情を必ず「動き」に転化させるのである。
 また、著者は、

本当は後悔の念とか罪の意識が渦巻いて、それが怒りや憎しみに転化してこそ、復讐のエモーションは強くなる (167頁)

とも述べている。

 

(未完)

*1:矢野靖人は平田オリザの「意識の分散」という概念について次のように述べている(「アフォーダンスについて/意識の分散・分断について」https://theatre-shelf.org/diarypro/archives/397.html )。

放っておくと俳優の意識はつい、台詞(あるいは言葉)に集中しがちであり、言葉を喋ることに集中しがちになる。が、現実の生活の中で人間は、実際にはそれほど喋ることや喋っている言葉(台詞)そのものに対して集中していない。ではどうすればこの状態を回避出来るのか。意識を台詞以外のことに分散させればいいのだ。

*2:ネタばれ感もあるが、まあ、許されるだろう。

*3:この笑っているような死骸の演出が、映画ラストに出てくる二重写しの笑みにつながっていることは、間違いなかろう。

*4:この平等性は、どこか、カフカの小説に通じるものがあるように思われる。たとえば、後藤明生カフカの迷宮 悪夢の方法』(岩波書店、1987年)、62頁を参照。

*5:観世寿夫は、「間違った意識のしかたを観客に対して持ち、表象的説明過剰の演じかたをしたがる能役者は今たくさんいる」と、能の世界にもまた、そうした傾向のあることを述べている(『心より心に伝ふる花』白水社、1991年。58頁。

*6:安岡章太郎『映画の感情教育』(講談社、1964年)は、喜劇役者が客を笑わせるためには、まず自分が笑ってみせる必要がある、と大抵の場合は考えてしまうわけだが、キートンは全く笑わなかった、としている(66頁)。キートンが特異なのは、喜劇役者は間の外れた時(みんなが悲しんでいるときなど)にはちゃんと笑うのであるが、キートンだけは、やはり笑わないのである。

*7:森川輝一は、書評・「神崎繁著『内乱の政治哲学 : 忘却と制圧』(講談社、2017年)」において、次のように説明をしている(https://irdb.nii.ac.jp/01147/0004065609 )。

著者は『魂への態度』(岩波、2008年)等で、西洋哲学における魂の捉え方を、プラトンアリストテレスに典型的な「葛藤型」と、犬儒派からストア派に受け継がれた「振動型」とに分けている。 (引用者中略) 一元的な魂が時間の中を進みゆく過程で振動する、という後者の見方に従えば、内乱とは魂の振動の所産であり、魂が生きて運動を続けるかぎり、私たちの生から切り離すことができない。ストア派の物体論に通じていたホッブズはこれに気づきながら、内乱への「恐怖心」ゆえに、魂の運動を力で制圧する道を選んだ

カサヴェテスにおける「感情」は、およそ「振動型」とみるべきであろう。