正坐嫌いは全員集合、読んで足と心をラクにしようぜ、といういい本。 -矢田部英正『日本人の坐り方』を読む-

 矢田部英正『日本人の坐り方』を読んだ。
 正坐嫌いな人は、絶対に読んでおくべき*1。マジで。

 著者の主張には一部共感できないところはあるが、「坐る」ことの歴史について、学ぶべきところは多い。

日本人の坐り方 (集英社新書)

日本人の坐り方 (集英社新書)

正式な坐り方だった、立て膝。

 当時の茶の湯での正式な坐り方というのは、右の足首を尻の下に畳み、左の膝を立てて坐る「立て膝」だった。 (29頁)

 当時とは、将軍・徳川家綱の時代である。
 片桐石州『石州三百箇条』を引用して、著者はそう述べている。

 立て膝は元々、正しい座り方だったのである。

 茶の湯の時だけではない。

 読み書きをしながら立て膝 (略) が中世の寺院を描いた絵にも結構見られる。たとえば『融通念仏縁起』には (略) 立て膝で仏典を素読している場面が描かれている。 (52頁)

ゆったりとした服って、実は自由。

 袴を常に着用していた武士の場合、「立て膝」をするのに問題がなく、そのうえ「安坐」をするにしても、足を組んだ「胡坐」をするにしても、足はその裾に隠れているので外見的にはほとんど区別がつかないため、かなり自由度をもって足は動かせたものと思われる。 (35頁)

 袴を着ていれば、足は裾に隠れるので、けっこう足を自由に動かせたというわけだ。
 ゆったりとした服は、実は自由度高いのである。

女たちの服の歴史と「自由」の問題

 男性の場合は胡坐、立て膝、正坐などいろいろな坐り方をしているのだが、家のなかでの女性の坐り方は、すでに幕末・明治の頃には、正坐が一般的になっていた様子が窺える。 (76頁)

 幕末・明治のころの写真を見て、著者はそう述べる。*2

 女性の方が先に「正坐」が、家のなかでの正しい座り方になっていた。
 だが、

 腰のところで細紐を蝶結びにしたごくシンプルなもので、温泉旅館にある浴衣のように、誰にでも簡単に着られるものだった。細紐以外に身体の動きを拘束するものが何もないこの自由な感覚は、現代に流通しているキモノからは失われてしまったもののように思われた。 (90頁)

 室町時代の庶民の女性の服についてのはなし。
 室町期には、こうした、ゆったりとした「自由」な服もあったのである。*3
 「和服」はよく想像されるような、躰にきついやつだけじゃない。

着物の美しさと「自由」の背反

 室町時代には女性も普通に行っていた「胡坐」や「安坐」の坐り方が、江戸時代の女性にほとんど見られなくなるのは、おそらく幕府が改定した反物の寸法と密接な関係があるだろう。 (83頁)

 室町時代だと、丈が短く、身幅が広く、袖幅が狭かった。
 それが江戸期に入ると、身幅が狭くなり、縦方向の丈を長くとるようになった。
 幕府の禁令によってそうなったのである。
 これが結果的に、女性の動きを制限することになった。

 それが今の着物姿の「美しさ」を生む要因になる一方で、女性の動きの自由度は狭まることとなった。
 どこか、「纏足」を思い起こさせるようなエピソードである。

正坐が「正しい」座り方になるきっかけ

 明治時代に小笠原流が普及させた礼法とは、室町時代の昔から代々伝わってきた武家儀礼を、抜粋して公教育に移植したものである (97頁)

 明治にできた学校の礼法教科書についての話。
 引用部の通り、明治期に、小笠原流が礼法を普及させる役割を担ったが、その作法は武家のものだった。
 
 武家以外出身の、集団生活を体験する子供たちは、じっとして坐って授業を聞くことが出来なくて、読み書き算数より前に、坐り方や挨拶の仕方などから、学ぶ必要があった。
 そして、武士のスタンダードが広まった。*4

 このとき、

 明治期の礼法教科書は正坐以外の坐り方を教えていない (103頁)

 これが大きな影響を与えている、と著者はいう。
 結果、正坐だけが正式な坐り方として普及した。*5

ちなみに、下駄はラク

 しゃがんでの作業が多かった時代、人々は踵に坐ることを日常的に行っていて、その姿勢を支え安定させていたゲタは、履物としてばかりでなく、座具としての機能まで担っていた (128頁)

 「下駄あるある」である。
 下駄の前の刃と先端とで支えることで、しゃがんで前傾姿勢しても、楽に坐れる。
 椅子を使わない文化の人間にとっては、下駄は(大きさ次第だが)結構便利である。

(未完)

*1:世の中、無駄な正坐イデオロギーとでもいうべきものがあるようで、その例がこれhttp://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/life/news/140429/bdy14042903320002-n1.htm

*2:正月の将軍への拝謁のときの坐り方が、室町時代には「安坐」や「胡坐」であったのに対して、江戸時代の二代将軍秀忠の頃には「端坐(正坐)」となる(80頁)。つまり、江戸期に、「正坐」スタンダードは、広まりつつあった。ただし、それはあくまでも武家階級内のものであったし、武家階級内でも限られた時だけだった。  なお、この註について、誤字を2021/2/10に訂正した

*3:着物業界は早くアップを始めるべき(マテヤコラ

*4:儒教なども、教育勅語などを通じて、明治期に旧武家階級より下の階級に影響力を持った。

*5:なお、この著者は別に、正坐をダメだと言ってるわけではない。否定していないし、正坐の美しさについて、きちんと認めている。ただ、正坐だけが「正しい坐り方=正坐」になってしまっている現状を、歴史的観点から「批判」的に考察しているのである。

俳句にとって切字は具体的にどれだけ重要なのか、という話。 -金子兜太、いとうせいこう『他流試合』を読む-

 金子兜太いとうせいこう『他流試合 兜太・せいこうの新俳句鑑賞』を読んだ。 
 これを読めばきっと俳句の面白さが貴殿にも分かる(という煽り)。

季語が必要とは、子規は言ってない。

 発句を俳句にした子規その人が、季題がなければならないなんていうことはひと言も言っていないですから。だから、虚子なんですよ。虚子が、なければいかんと言った。その理由は、今言ったように、兄弟子の碧梧桐なんかがうんと走っちゃったから。 (54頁)

 金子はそう述べる。
 子規は季題は特に必要だとは言っていない。
 季題を言い出したのは、虚子である。

 兄弟子である碧梧桐(「季語」なんていらねぇんだよ!)に対抗するためには、季題を掲げるしかなかった、というわけだ。

 俳句に季題は必要か、というのは、よく問題にされる。
 個人的には、不要だと思う。

 季語の話題は、この本にはもっと出て来るのだが、今回は省略する。

発句から俳句へと「自立」したとき。

 最上川を見て、土地の人たちと歌仙を巻いたときに、芭蕉は発句として「五月雨をあつめて涼し最上川」とやったんですね。その後へすぐ、土地の人が付けてるわけです。ところが芭蕉さんがそいつを『奥の細道』に書きとめるときには、発句を独立させて書くわけですから、「あつめて早し」と直した。「涼し」と言ったときは、挨拶を含んでいるんです。そして相手の応えを待っている。「早し」と言ったときは、自分の思いだけで作ればいい(以下略) (95頁)

 金子はそのように述べている。
 「涼し」だと、今ここでその涼しさを共有している人向けの言葉になるが、「早し」だと、よりヴィジュアル感が増すし、五月雨が集まって川に注ぐという壮大なイメージが出てくる。
 こっちの方が句として上出来なのは、間違いない。

 発句から俳句へと「自立」する時、こうした差異が生じた。
 この芭蕉の使い分け意識が、俳句を明確に独立の文芸にさせたのだと金子はいう。

 ただし、金子がいうには、(これは彼の持論なのだが)俳句にも一応のあいさつの意識は含まれている。

 俳句を考えるうえで、忘れてはいけない大事なことである。

切字の意味、意味の曖昧さ(多重性)

 俳句では、助詞はアキレス腱というものにあたるのかな。弱点ですね。 (171頁)

 金子はそう述べる。

 理由はつまるところ、名詞などが単純化して、散文的になってしまうから、だろう。

 これは、切れ字の存在理由に関わる。
 どういうことか。

 「一瞬の間」というのがイメージを切り離した上でくっつけてみせる詩形の上での効能なのだと言われれば、たしかにその方がリズムとしても必要だということがよくわかります。 (183頁) 

 切字について、いとうは述べている。
 イメージを切り離し、イメージを再結合して見せること。

 やはり切字というのは、ひとことで言うと曖昧化というか、曖昧の美意識というか、そういうものを喚起するんじゃないかということが言えるんじゃないでしょうか。 (186頁)

 金子はそのように述べる。
 これに対して、いとうは、それは「多重化」といった方がいいのでは、という。
 これが切字に関する明瞭な説明である。

 例を挙げる。
 「バルコニーで文庫一冊分の陽灼け」という句。
 「で」を取り、曖昧さ(人が日焼けしているのか、バルコニーが日焼けをしているのか。)が出る。

 こうしたあいまいさ、多重の意味こそ、散文では出にくいあじわいであり*1、ここを感得できるかどうかは、その人の資質に関わるものと思う。
 (こういうのを感じられないなら、詩文の世界には近づかない方がいいだろう。)

この句がナンバーワンやで

 ちなみに、金子がある句について述べている。

 抱く孫の瞳のうるみ鯉のぼり

 これは年配の女性が作った句だ。
 これを金子は、

 抱く孫の瞳のうるみ山法師

に直した。
 この句こそ、この本で取り上げられた句の中でのナンバーワンだと思う。

 飛躍しながらも、しかし、イメージはきっちり、多重化している。


 つまり、前者だと、孫と鯉のぼりで容易にイメージがくっついてしまっているから、面白味は薄い。
 だが、後者だと、山法師の白い花のイメージと、白い衣にくるまれた赤子のイメージが、連結して面白い。
 それだけではない。
 山法師、つまり僧兵の白い頭巾が、子供が衣にくるまれている様子を連想させるだけでなく、今の赤子と武装するいかつい僧侶との対比するイメージが衝突もして、いい句になっている。
 ナンバーワンにふさわしいので、カラースター差し上げます(違

(未完)

*1:そういえば、以前に漢詩について書いた記事でも、同じようなことを書いたのだった。http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20100101/1262356459

演歌は「日本の心」というより、素晴らしき「雑種」なんだぜ、っていう話。 -輪島裕介『創られた「日本の心」神話』-

 輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』を読んだ。
 超面白い。

 内容はタイトル通り、「演歌=日本の心」っていう図式は、「伝統の創造」じゃないの?、それって昔っからじゃなくて「最近」できたものじゃないの?、って内容である。

「ヨナ抜き」も。

 「ヨナ抜き五音音階」は、大正期にきわめて近代的な意識に基づいて生みだされた和洋折衷の産物 (63頁)

 演歌といえば「ヨナ抜き」であるが、なんと、これも和洋折衷の結果だという。
 「カチューシャの唄」の作曲者・中山晋平が、伝統的な民謡音階と西洋の長音階の折衷としてヨナ抜き長音階を生み出した。
 じっさい、邦楽由来だか唱歌にはない「ユリ」の技巧などが、「カチューシャの唄」には使用されている。

都はるみのコブシも。

 当時ポピュラー歌手として人気絶頂であった弘田三枝子の歌い方を模倣することで、あの唸りを身につけたといいます。 (略) 都はるみの極端な「唸り節」が、戦後のアメリカ音楽受容のひとつの到達点として、小林信彦をして「戦後17年は無駄ではなかった」と言わしめた弘田三枝子の歌唱技法に由来している (96頁)

 都はるみの話である。*1
 あのコブシは、源流をたどると、アメリカ音楽に到達する。*2
 「現在の『演歌』の構成要素がいかに雑多な出自を持ち、文化横断的な経路を経て現在の姿に至っているのかを、象徴的に示すエピソード」だと、著者は説明する。
 そう、本書の主題はまさにこれである。

 レコード歌謡において『ルーツを純邦楽や民謡に置いた作曲家』はほとんど見られず、昭和初期以来から一貫して『クラシックやジャズ、ハワイアンなどの軽音楽で育った』人々によって担われてきた (341頁)

ハマトラではなく、ハマクラのお仕事。

 ≪恍惚のブルース≫と≪バラが咲いた≫と≪夕陽が泣いている≫が同じ一九六六年に同じ作家によって作られていることは、『西洋風のポップス』と『日本風の演歌』という二分法を根本的に疑わせる決定的な事実 (157頁)

 言うまでも無く、作ったお方は、濱口庫之助。
 歌ったのは、順に、青江三奈マイク眞木ザ・スパイダースである。

「出世」

 「昭和初期には軽佻浮薄で退廃的なモダン文化であった彼らの『持ち歌』は、『ナツメロ』としてカテゴリー化され、彼らの謹厳な(尊大な?)たたずまいともあいまって、一種の真正な文化遺産に認定されてゆくことになります。 (159頁)

 彼らとは、東海林太郎淡谷のり子のことを指している。*3
 酷い比喩を使うと、下魚だった鮪が「出世」したのである。

 いや、二人とも実力があるのは間違いないのだが。

 あと、東海林太郎といえば、伝説の名曲「日独伊防共トリオ」である。
 こーみーんてーるーんー

旧左翼と新左翼、の類似と違い。

 竹中は『音楽は、民族性を有することによって、はじめて国際性を持ち得るのである』と述べ (略) しかし、この『日本の音律』に基づく『民族音楽の創造』とは、実は、『うたごえ運動』の理念そのものであり、『民族性を有することによって、はじめて国際性を持ち得る』とは、言うまでもなく社会主義リアリズムの金言です。 (略) 竹中が美空ひばりを称揚するロジックは、旧来の左翼的文化運動のそれをそのまま踏襲したものであり、 (210頁)

 竹中、とは、パソ中平蔵のことではなく、竹中労のことである。*4
 詳細は本書を当たってほしいが、かれこそ演歌を「日本の心」に「出世」させた人物だ、と著者はいう。

 民族性を通じての国際性というのは、確かに著者の言う通り、社会主義リアリズムそのものである。
 新左翼と旧左翼に共通する要素である。

 では、旧左翼の社会主義リアリズムと、新左翼たる竹中の違いは何か。
 共同性と孤立、ともいうべき対比がその一つなのだが、、、詳細は本書をご参照あれ。

美空ひばりと民衆・民族

 美空ひばりを『日本の民衆的・民族的音楽文化のたった一人の守護者』として称揚する議論は (略) レコード歌謡が持つ近代性と異種混交性を半ば意図的に看過し、実証不可能な『民族性』の領域にレコード歌謡と美空ひばりを押し込める危険をはらむものでもありました。 (215頁)

 美空ひばりを「日本の民衆的・民族的音楽文化のたった一人の守護者」に規定することで、竹中は、対抗文化の文脈の中に彼女を位置付ける。
 これが竹中労の戦略だった。

 だが、それによって失われたものもある。
 それは、レコード歌謡の「近代性と異種混交性」だった。

演歌は日本のブルース、と言われた。

 レコード会社と『流し』の関係を単純な『親分子分』の関係で捉えたことで、両者の歴史的な関係があいまいにされ、レコード会社が素朴に『民衆の代弁者』と位置づけられてしまっている点は、五木の『艶歌』観のアキレス腱といえます。 (244頁)

 五木寛之の話である。
 彼もまた、「演歌」を「日本の心」に押し上げる現状を生んでしまった一人である。

 五木は、自身の小説の中で、「艶歌」(演歌)は日本のブルースであるという内容のことを書いている。
 黒人文化理論と演歌とを結びつけ、演歌を日本のブルース(魂の音楽!)に変身させたのである。

 んで、引用部は、その論の弱点の一つである。
 詳細を説明するのはめんどくさいので本書を当たってほしいが、往時のレコード会社による強力な体制(専属システム等)を考えれば、その論の危うさは分かろうというもの。*5

1970年代に出現した「演歌」。

 一九七〇年版『現代用語の基礎知識』で「アート・ロック」と「演歌(艶歌)」が同じ年の新語として収録されている (288頁)

 これが決定的な証拠である。
 276頁を読むと、1971年の『平凡』二月号に「最近のレコード界は、いわゆる、”演歌”といわれる曲が、競って発売されています。」、という記述がある。
 演歌は、伝統の継続ではなく、伝統から切断されたところから、「雑種」として誕生したのである。

(未完)

*1:このブログさんhttp://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20081224は2008年の記事だが、かなりいいセンいっている。すごい。

*2:「唸り」と言った方がいいか。

*3:ところで、東海林太郎の方は、早稲田卒のインテリであり、佐野学にマル経を学び、満鉄に入社するも左翼的と目をつけられ、音楽への夢を捨てきれないこともあって、満鉄を退社している。歌手デビューはその後である。あと、当世の「東京大衆歌謡楽団」の歌い手さんは、東海林を模している(と思う)。そして、淡谷先生といえばゲルマニウムローラーである。

*4:上記引用部について誤字を訂正した。以上、2021/4/6。 

*5:「演歌」と新左翼とのかかわりなどについては、こちらのまとめhttp://www.twitlonger.com/show/aflsgbが存在するので、そっちを当たられたい。

これは、縛られることのない、「我慢しない」生き方への実践書である。 -田中美津『かけがえのない私、大したことのない私』-

 田中美津『かけがえのない私、大したことのない私』を読んだ。
 これは、縛られることのない、「我慢しない」生き方への実践書に他ならない。(いや、違うかもしれないが。)

かけがえのない、大したことのない私

かけがえのない、大したことのない私

終わらない「疎外」のようなもの

 体制の価値観を蹴飛ばして運動をしてみたら、今度は、ウーマンリブとしてこう考えなければならないという枠組みの中で生きなきゃいけなくなるような所がある、と著者はいう。
 自立した女はそんなことはしないとか、こうすべきだとか、見えない枠組みがある。
 でも、そういう枠組みは、「生身の私」よりもいつも狭い(15頁)。

 運動をやっていると、清く正しく美しく的なものがなんとなく強制されていく。
 この「なんとなく」が「いつだって曲者」だ(16頁)。

 何らかの既成のものを倒した先に、また見えない枠組みが自分を縛りつけてしまう。
 こうした終わらない「疎外」的な何か、に、著者は正面から向き合う。

「尽くす」快楽と呪縛

 例えば連合赤軍の良しとしたような、「大義のために私を殺す」といった、何かを我慢することによって生じる喜び、それから未だに私たちは自由ではない(58頁)。
 例えば、アル中を治すには、患者の妻が「いい妻」をやめることだと言われている。
 (その夫にとって都合のよい妻、ということだ。いうまでもなく。)
 でも、それがなかなかできない。
 「尽くす妻」をやることには快楽が伴う。

 我慢とは快楽であり、また、従属もまた快楽であり、そこに、人の不幸の大半は由来する、
 ような気がする。

自立を目指す私、なれない情けない私。二つの私。

 男に「見ないでよっ」と怒り、「どうして私は男のお尻を見ないの」と、自分に疑問を突き付けて取り乱す中に、リブのパワーがあった(93頁)と著者はいう。
 二つは擦れ合い、発熱し、その熱が運動を生起させる。

 毅然とした女、自立した女を目指しながら、でも、実際にはそこから程遠い情けない私だけども、その私を「良し」と認める所から始められる運動は楽だ。
 そのような「ここにいる私」から始められる女性解放だったことも、リブのパワーになったと著者はいう。

 二つの間の摩擦を自覚することが重要。
 でないと、運動は消沈する。
 あらゆる運動に言える、とは思う。
 「リブ」から、まだ学ばれていないことの一つだろう。

聖母なんかじゃない

 慰安婦だった人々、その人たちが自分たちにとって、聖なる存在であってほしいと人々は思う。
 でもこの人たちは聖母マリアじゃない。
 この人たちはお金もほしいし、さびしくてたまらないニンゲンだ(107頁)。
 もし生まれ変わるとしたら、男に尽くして良妻賢母として生きたい人かもしれない。

 私たちは、それをありのままに全て見て、心を痛めなければならない、とビョン・ヨンジュ(『ナヌムの家』の監督)は述べる。*1
 生身の人間としての彼女たちに、向き合えている人はそう多くはないだろう。

この人を見よ

 著者はもっとはっきりという。
 ハルモニたちに限って言えば、あの年で日本から来た若い者をコマす気力があるからこそ、あの年でカムアウトもできたんじゃないの、と。*2
 猫と日向ぼこっこしてるだけの好々婆じゃ、今日まで怒りを持続するなんてことも、出来なかっただろう。
 したたかさも大事なパワーだと(235頁)。

 聖母ではなく、この人を見よ、と。*3
 

ファンデーションで化粧をするか、マルクスで化粧をするか

 「化粧が媚びなら、素顔も媚びだ」と著者はいう。
 知的な女たちも、男たちに自分の知性を評価されたいという気持ちがある以上、媚びなわけで、結局ファンデーションで化粧をするか、マルクスで化粧をするかの違いでしかない(283頁)。

 「わかってもらおうと思うは乞食の心」と力強く書きつけた著者の言葉は、やはり深い。

おまけ

 とある議員、「東大出身で美貌で財務官僚というピカピカ女」について、なにがダメかって、あの髪型、男に媚びるのはいい、でも、そのために手段を選ばないって最低よ、と著者はいう。

 んtんとどkzとどkz尾rまたはい異kk。

 (未完)

*1:この映画や監督については、こちらのブログ記事http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20071101/1193933237やこちらのブログ記事http://notarin.exblog.jp/22142208/もご参照あれ。

*2:ここら辺のエピソードは本書を確認されたい。

*3:慰安婦問題については、いろいろ書きたいことがあるが、とりあえず、川田文子『イアンフとよばれた戦場の少女』http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/ee2d55e24d96b4325eddc2e2939a4256についてのリンクを貼っておく。

「同化」と「近代化」のはざま、あるいは、知里真志保について貴方がまだ知らないこと -藤本英夫『知里真志保の生涯』を読みながら-

 知里真志保について書きたいと思う。

二つの「アイヌ

 知里『アイヌ民潭集』の後記(昭和10年2月18日)に次のようにある。

アイヌ民譚集―えぞおばけ列伝・付 (岩波文庫 赤 81-1)

アイヌ民譚集―えぞおばけ列伝・付 (岩波文庫 赤 81-1)

 普通にいわゆる「アイヌ」という概念は、厳密にこれをいうならばよろしく「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」とに区別せられるべきである。人種学的には両者はもちろん同一であるにもせよ。各々を支配する文化の内容は全然異る。前者が悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化を背負って立ったに対し、後者は侮蔑と屈辱の附きまとう伝統の殻を破って、日本文化を直接に受継いでいる。 (略) 当然に区別さるべき二概念が、「アイヌ」なる一語によって漫然と代表せられていることに起因する。 (167頁) 

 知里は、二つの「アイヌ」を対比させ、二つを混同するマジョリティたちを批判している(168頁)。

 だが、注意しなければならない。
 「悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化」という言葉にある極端な本質主義的匂いと、そして、「日本文化を直接に受継いでいる」という強すぎる言葉に。

「近代」と「日本」

 新しいジェネレーションは古びた伝統の衣を脱ぎ捨てて、着々と新しい文化の摂取に努めつつあるのである。 (168頁)

 「新しい文化」という。
 だが、これは「日本文化」と言ってしまって本当に良いものなのだろうか。

 僅かに残っている数人の老媼たちですら、今では全く日本化してしまって、その或者は七十歳を過ぎて十呂盤を弾き、帳面を附け、或者はモダン姿の綽名で呼ばれるほどにモダン化し、或婆さんは英語すらも読み書くほどの物凄さである。毎日欠かさず新聞を読んで婦人参政権を論ずる婆さんさえいるのである。内地人の想像さえ許さぬ同化振りではないか。 (169頁)

 これが知里のいう「新しい文化」である。
 これは「日本化」だろうか?
 「同化」だろうか?

 少なくとも「近代化」とはいえる。
 だが、「日本化」と言ってしまってよいのだろうか?
 「十呂盤」は日本起源ではないはずであるし、「モダン姿」は「日本化」とは言えないし、「英語」の読み書きはいうまでもない。
 「新聞」も「婦人参政権」も同様である。
 「日本化」よりも「近代化」というべきものばかりである。*1
 
 「近代化」と言えばよい場面で、知里は、「日本化」と言ってしまっている。
 彼の中で、「日本化」と「近代化」(「新しい文化」)とが混同されているのである。

マイノリティの「同化」と「近代化」

 古い伝統を忘れ去って、一日も早く新らしい文化に同化してしまうことが、今ではアイヌの生くべき唯一の道なのである (略) それとともに、捨てて置けば当然に跡形もなく朽果ててしまったはずの古い生活の断片を、僅かながらも私自身の手に掻き集めて後世に残すことを得た愉快さを私はしみじみと感ずるのである。 (170、171頁)

 やはり、「新らしい文化に同化」と「日本」とが、混同されている。
 知里は、同時代のアイヌは「新らしい文化に同化」すべきであり、その上で、「捨てて置けば当然に跡形もなく朽果ててしまったはずの古い生活の断片を、僅かながらも私自身の手に掻き集めて後世に残す」ことを望んだ。

 まるで、近代化を受け入れつつも、消されていく民俗の記録と記憶を残そうとした、日本の民俗学者たちのようである。
 違うのは、知里にとって、「新しい文化」を取り入れることは、日本に「同化」することと不即不離だったということだ。
 日本の民俗学者なら、近代文化を取り入れることと「日本化」を取り違えることはしない。
 だが、知里の場合、二つは密着したものとしてあった。

 彼の立場がそうさせた。
 被支配マイノリティの知識人としての苦しみが、おそらくそこにある。

母語アイヌ語ではなく

 次に、知里の生涯についてみてみる。
 藤本英夫『知里真志保の生涯』(草風館)を読む。

知里真志保の生涯―アイヌ学復権の闘い

知里真志保の生涯―アイヌ学復権の闘い

 父母がアイヌ語を使ふのを殆ど聴いたことがなかつた。(略)亡姉幸恵は別として、私達兄弟は少年時代を終へる迄殆ど母語を知らずに通した。 (26頁)

 これは、『アイヌ民譚集』の「後記」に書いてある。

 彼にとって、母語アイヌ語ではなかった。
 彼の一家が、比較的日本に「同化」したアイヌ一家であったためである。 *2

 「意識的にアイヌ語を学び始めたのは、実に一高に入ってから」(57頁)である。

いじめ

 級長のとき、(略)あるとき、「右向けッ、右」と号令したところ、クラス全員が、いっせいに左を向いてしまった。旧友はみんな和人の少年たちだった。 (53頁)

 体育の時間、成績が優秀だったゆえにクラスの級長をやっていた彼が受けた仕打ちである。
 不登校になるレベルである。

 そこで彼は、自分で成績をさげる努力をし、級長になるのを避けた。その手かげんを、苦痛の時間をサボることによってしていたらしい、と彼をしる人たちは当時をふりかえる (53頁)

 彼はわざと自分の成績を下げた。

話術

 話術の巧みな真志保の、得意な艶っぽい話を折りこんだ文学談が、女たちに人気があった (123頁)

 知里は頭がいいだけではなく、話も面白かった。
 そのため、後述のように、戦中期に樺太で学校の先生をしていた時の彼の授業は、厳しいながらも面白いという評価を受けた。

傲慢な(?)天才

 しかし、「ありがとう、とはいわなかった」と、ミサオはくやしがる。 (133頁)

 知里は、自分に献身的な妹にも、感謝の言葉を言わなかった。
 原稿を失い、妹がしまっておいた「かきちらし」で難局を逃れた知里が見せた態度である。

 天才ゆえの傲慢なのだろうか。
 学問にプライドを持っていた知里の一面でもある。

樺太時代

 こんなしつけのせいか、菊組は、全校の模範といわれたが、「私たちは身動きができなかった」と、いう。 (150頁)

 授業は厳しかった。
 先述した、樺太の女学校の先生をやっていた時代の話である。

 引き揚げ後のクラス会で、いつもあの先生だけを呼びたくなったのは、言葉にはいえない魅力があったからかもしれない (155頁)

 その女学校、樺太庁立豊原高等女学校二六期菊組の教え子たちの話。
 実際、知里の国文法などの授業は面白かったらしい。
 彼は、学生たちに好かれていた。

他民族を「土人」呼ばわりする知里。

 知里さんは、ギリヤークやウィルタに関心がなかったわけではないが、強い関心を示さず、オタスにも二回ほどしかいかなかった。そしてギリヤークやウィルタ土人だ。アイヌより低い。アイヌには文学がある。アイヌにはものによっては日本人より高い、と荒い口調でいっていた (192頁)

 親しかった研究者・山本利雄の証言である。
 彼はウィルタやギリヤークを下に見ていた。
 そうしてまで、アイヌの凄さを示したがった。
 
 「アイヌに比較する対象を求めて、ふだん差別されている感情の息抜きにしていたのではなかったか」と山本はいう。
 「アイヌにはものによっては日本人より高い、と荒い口調でいっていた」という言葉から見える悲しみ。
 差別感情が連鎖するのを見た時、いつも、いたたまれなくなる。

知里とアイヌ独立論

 武田泰淳も、真志保から、「アイヌの土地はアイヌに返せ」という独立論を聞いている (198頁)

 戦後の一時期、知里は、少なからずそうした考えを持っていたことは、間違いない。
 もし知里真志保が単純な日本への同化論者だと考えるなら、それは誤りである。

孤独の人

 氏はおそらく、日本人の学者たちの間で孤独であったばかりでなく、”選ばれたるもの”であったがために、同族の間でも孤独であったのだ (200頁) 

 これは、武田泰淳「知里さんの死をいたむ」の一文である。

 知里が『アイヌ語入門』で同業者を激烈に批判したことはよく知られている。
 また、彼はアイヌの中でもエリートに属し、一般の貧しいアイヌとはまた立場は異なった。
 かれは、日本の学者たちの中でも、また、一般的な「アイヌ」からも、距離のある人物だった。

民族としての「アイヌ

アイヌは)明治以来の同化政策の効果もあって、急速に同化の一途をたどり、いまやその固有の文化を失って、物心ともに一般の日本人と少しも変わらない生活を営むまでにいたっている。したがって、民族としてのアイヌはすでに滅びたといってよく、厳密にいうならば、彼らは、もはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである。 (259頁)

 平凡社『世界大百科事典』の「アイヌ」項、知里の執筆である。
 この論法が正しければ、日本のマジョリティ(シャモ)は、例えば江戸系日本人のように、呼ばれるべきということになる。

 この話題は、すでに論じたとおりだ。

 ここら辺の議論については、こちらのブログ記事や、こちらの記事このツイートもぜひ参照あれ。*3

そして、モテた(爆発s(ry

 彼の葬儀では、その三人の女性が、生花に埋まった棺の前で嗚咽していた。 (262頁)

 知里が結婚した女性三人を指している(三度の結婚、二度の離婚)。
 知里は二度、己が原因で離婚している。
 敬愛していた叔母にも、それで冷たい目を向けられたほどである。

最後に

 ちなみに、藤本『知里真志保の生涯』には、「I」という名前で出てくる人間がいる。
 これは、今井栄文である。*4
 旧制一高でこの今井が、知里真志保をいじめていた。
 事の詳細についてはこのページを参照あれ。

 あと、旭川アイヌ給与地紛争事件で知られる天川恵三郎*5や、知里の盟友・山田秀三*6とのエピソードも出て来るし、風巻景次郎*7の名前も出てくるのだが、これらの話題は省略する。

 アイヌの問題は、とうぜん、北方領土問題(先住民としてのアイヌたちの存在)にもかかわるのだが、それについても省略する。

(未完)

*1:おそらく、日本語とひらがなカタカナくらいである。

*2:少数民族の成員資格の問題については、http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20100327/1269679158等をご参照あれ。

*3:http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20100311/1268289777の米欄によると、知里真志保の認識は「1960年代の民族概念」の「ナロードノスチやナーツィア」に似た把握であり、「ILO条約」も「1960年代は同化を善として把握し」ていたとのことだから、知里の考えは特異なものではなく、同時代的なものだったといえる。

*4:新東京国際空港公団総裁だった人物である。

*5:例えば、http://www.koubunken.co.jp/0375/0362.htmlなどを参照。

*6:山田は、Wikipediaの記述で分かるように、「戦前はエリート官僚として東條英機首相とも交友があり、戦後はアイヌ語地名研究家として」活動した異色の人物であり、藤本著の中でも、現地調査(アイヌ語の地名解釈)では知里を超える能力を持っていた、的なことが書いてある。

*7:北海道大学で教授をやっていた時期がある

敵の物理的なプレッシャーがかかっても、練習通りのことを淡々とこなすのが本物の技術 -千田善『オシムの戦術』を読む-

 千田善

オシムの戦術

オシムの戦術

』を読んだ。
 著者の親戚の関係である吉田戦車が、表紙を書いている。
 ジャケ買いしちゃうぜ(マテヤコラ

 以下、面白かったところを。

驚異の記憶力

 オシムのそうした努力がまわりから分からりにくいのは、自分でメモを取ろうとしないことにも原因がある。試合中もそうだし、何かのメモを持って練習に現れたところも見たことがない。つまり、すべてが頭の中に仕舞い込まれているのである。  (66頁)

 オシムは凄い記憶力のある人なのである。

 ところで、新入社員は、よほど記憶力に自信がない限りは、メモを取る(取る振りをする)方がいいぞ!w

飽きさせないために

 意識して、トレーニングのメニューを毎日変えていた。この日本中で一番サッカーがうまいと思っている人間たちに、どうやったら真剣にトレーニングに取り組んでもらえるのか、知恵をしぼっていたのである。 (72頁)

 オシムのトレーニングにおいて、考案されるアイデアの豊富さの裏側には、これがある。
 実際、練習を「飽きさせない」ために、2チーム同士でなく、3チーム同士でゲームをさせたことさえある(97頁)。

体で覚える

 あるときの紅白戦でオシムは、「同じ色のビブスの選手にパスを出してはならない」という条件を決めた。 (86頁)

 工夫の一つ。
 意図は、FWやMFへの横パスを禁ずることで、縦パスへの意識を自然に身につけさせることである。
 肝心なのは、その練習の中で、選手に自然と意識付けをさせる、という点だ。
 だが、

オシムはあまり縦パスを意識した練習はくり返さなかった。縦パスばかりを意識すると、日本人選手の場合、攻め急いで不十分な態勢からでもシュートして満足することが多かったからだ。 (87頁)

 あくまでも、ゲームの中で学ばせる理由はこれである。
 言葉ではなく、ノンバーバルに、ゲームの中で体験させて体で覚えさせることを、何よりも大切にした。
 言葉はよく、意識を過剰に縛ってしまう。

ゲームのルールとその意図

 一人では何もできないのだ。だから、味方が近寄ってやる必要がある。パスを出した後、近寄ってサポート。そういう習慣が自然に身につく。選手は自然と「走らされる」ことになる。 (93頁)

 ワンタッチゲームの場合、こうした意図で行った。
 つまり、フォローの習慣づけである。
 一方、

 少なくとも二人がサポートに行かねばならなくなる。パス交換も三人いなければ成り立たないからだ (93頁)

 これが、リターンパス(パスをくれた相手への戻しのパス)禁止の場合の意図である。
 つくづく、よく考えられているなあ、と思う。

ツータッチの場合

 そうすると、ボールをもらってからパスを出すまでに、相手のプレッシャーがかかるのだ。(略)それを意識しながらうまくトラップしてパスするという、ボールコントロールのトレーニングにもなる。 (94頁)

 今度は、ツータッチゲームの場合。
 つまり、絶対2回タッチをすることを義務付け、ワンタッチでのパスを禁止した場合である。
 トラップ時に周りを見る意識付けができる。

ボールに触りたい

 ボールなしのランニング(素走り)は嫌がるくせに、ボールを追いかけながら、ゲームの中で有利なポジションをとるためなら、喜んで走る。 (93頁)

 こうしたサッカー選手の特性を生かしたのが、オシムである。
 まあ、素人でもそんな感じではあると思うけれども。
 みんなボール触りたいもの。

言葉は人を引きずる

 ヒントだけ与えたのは、選手に気づかせる、考えさせるための工夫、知恵の使い方だったのだろう。 (97頁)

 ゲームの中で考えさせた。
 言葉ではなく体で。
 なぜか。

いま冒していいリスクなのか、どこまで「深追い」していいリスクなのか、知恵を使えということなのだ。 (129頁)

 試合において、最終判断は選手が行う。
 でもその判断基準自体は、教え切ることはできない。
 言葉をかけて誘導させることはできる。
 でもその言葉で意識が誘導されてしまって、判断が引きずられてしまうこともある。
 だからこそ、練習の中で、身につけさせた。

パワハラ度皆無

 口が裂けてもメディアの前で選手の批判をすることはなかった。批判をする必要があると感じたら、直接その選手に言う。しかも、ミーティングで名指ししないでナゾをかけたり、食堂で偶然(を装って?)すれ違った時にポツリとぼやく、など相手(いずれもプライドの固まりだ)や問題の性質に応じて伝え方や表現にも気をつかっていた。(略) そもそも、オシムが口にする批判めいた発言のほとんどは、助言に近いものだった。 (132頁)

 実に見事な指導である。
 彼は選手に対してとにかく鋭く、しかし繊細に、応対したのである。

 どこぞのブラック企業のトップとはえらい違いやで。

 なお、

 コーチや選手たちを叱った。どちらも、ほんの一分か二分ほどの「説教」だった。 (147頁)

 短いっ(こなみかん。
 ちなみに、著者によると、本気の雷を落としたのは、代表監督在任中で、二回しかなかったという。

「叱られないためのプレー」と「日本社会」

 彼ら(日本人選手)は、何か、叱られないためのプレーをしているように見える。『こうしなさい』と言われるのを待っている選手も多い (147頁)

 なぜこうなってしまうのか。
 叱られてばかりだと、叱られるのを避けるためにリスクあるプレーを避けるようになる。
 すると、こうしろという監督の指示を仰ぐことで、叱られるリスクを減らそうとする。
 これは、日本人の特性云々ではなく、叱りすぎる日本社会が生み出した結果なのだろう。

「負荷なき練習」の罪

 単純にボールを止める、しかも相応のスピードで走りながらそれをやることのほうがずっと大切だし、難しい。(略)果たして日本人はどうだろう?(略)実際のゲームではメンタルなプレッシャーに加えて、敵の物理的なプレッシャーもかかってくる。そうした状況下でも、練習通りのことを淡々とこなすのが、本物の技術なのだと、オシムは強調していた。 (152頁)

 小手先のテクニックではなく、あくまで実践で使える技術であることを求めた。
 常に相手のプレッシャーのかかる状況での練習をさせる理由が、これである。

 無負荷の状態の技術など、試合ではほとんど役に立たない。
 日本のサッカーの練習では、結構忘れられている(みんな分かっていてもなかなか改善できてない)ことだ。

 (未完)

共感だけじゃダメなのよ、あるいは、「聴く」とは何か、というお話。 -六車由美『驚きの介護民俗学』、向谷地生良『技法以前』-

 六車由美『驚きの介護民俗学』を読んだ。
 確かに驚く。
 ふつう、介護と民俗学は結び付かないから。

 本書は、サントリー学芸賞を受賞するほどの学者さんが、静岡の老人ホーム(のデイサービスセンター)で介護職員として勤めるようになり、その現場で高齢者たちから聞いた話が「民俗学」に凄く裨益するものだったこともあり、やがて「介護民俗学」を提唱するに至った、という凄い内容。(大学をやめられた経緯については、こちらの記事を参照あれ。)

 気に入ったところだけ少し書いていく。

驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)

驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)

「共感」だけでいいのか

 著者は、民俗学では、言葉の裏にある見えない「気持」を「察する」のではなく、相手の言葉そのものを聞き逃さずに、書きとめることに徹するという(99頁)。
 それ自体は普通のことに思えるかもしれない。

 だが、これまで介護の現場では、認知症の利用者の「心」や「気持ち」を察しようとはしていた(「回想法」のこと)が、語られる言葉を聞こうとはしてこなかったのだろうか、と著者はいう。
 認知省の利用者の言葉というのは、一見すると脈絡もなく、意味のないものとみなされてしまいがちだ。
 しかし民俗学における聞き書きのように、それにつきあう根気強さと偶然の展開を楽しむゆとりをもって、語られる言葉にしっかり向き合えば、自然とその人なりの文脈が見えてくる(110頁)。

 時間と余裕のない介護の現場ではどうしても、利用者の言葉を聞くことはできず、とにかく最小限の「心」や「気持ち」を察して、処理しようとする。
 だが、それによって、その言葉が持つ利用者の「その人なりの文脈」、つまり、その人が一定の思考能力と言語能力を持つ、尊厳ある主体であること、そういう意味での「人間」であることは、忘れられがちになる。
 そうした陥穽を、民俗学の根本が照らし出す。
 「共感」だけじゃ、十分聴いたことにはならないのではないか。(介護の現場での「回想法」の限界については、先の記事でも触れられている。)

 実は民俗学と介護、結構相性がよさそうなのである。

ガダルカナルへの従軍

 そんな「聴いた」成果を一つ。

 大正8年生まれで、ガダルカナルへ従軍した男性のある話。

 ジャングルの中で何人もの仲間が死んでいった。大きなヤシの木にもたれかかって痛いよ痛いよと叫んでいる兵士」を見ると「その兵士の口にはたくさんのウジ虫がわいていて唇の肉を食べていた。ウジ虫は唇とか鼻の穴とか皮膚の弱いところから入り込む。 (172頁)

 介護の現場で、まさかガダルカナルへの従軍者の貴重な話がきけるとは。
 人生、何があるかわからん。

 ちなみに、大正一桁生まれで、農家に生まれ育った女性たちは、立ちションの経験者である(74頁)という面白い話も出てくる。

 是非一読願いたい。

確かに、取扱注意な感じだけど

 本当なら、ここで終えてもいいのだが、もう一冊だけ書いておこう。

 向谷地生良『技法以前』について。 (ちなみに、この人の息子さんがツイッターをやっている。)
 
 本書は、江戸しぐさとか、無農薬リンゴとか、いろいろヤバめのものも肯定されていたりするが(とくに後者)、しかしそれでもなお、読むべきところを含んでいる。(実際、「べてる」から学べるものは多い。)
 
 以下に、その面白かったところだけ、書いていく。

おい、「研究」しようぜ

 研究という言葉には不思議な響きがある。
 「研究する」と口にすると、現実の困難を一時的に棚上げして眺め渡すような気分になってくる。
 さらに無為の毎日の中に「研究する」という仕事が生み出される。
 本人を「精神的な失業状態」から脱却させる力がある。(77頁)

 著者はそんな風にいう。
 確かに、研究とやると、自分や現実の苦しみを無理なく客観視できるし、しかも、研究という名前が付くことで、なにか達成感(やってる感)も出てくる。
 一石二鳥以上ある。
 
 「べてる」で当事者研究をやっているのは、こうした効能ゆえである。
 (その中でも特にすごいのが恋愛研究であるが、詳細は、以前書いた。)

患者のままでいたい

 私にとっては、病気じゃなくなるということは人とつながる手立てを失うことで、その恐怖感がありました (94頁)

 病気であることの「メリット」、それは、病気であることで得られた人的な関係である。
 でももし、病気が治ってしまったらその関係は切れてしまう。

 人とつながりたいがゆえに、病気のままで居続けたいと思ってしまう。
 そして、その意図が、ますます「患者」のままでいさせてしまう。

 同じように、

 A子さんの本当のつらさは、他人に自分のプライバシーを覗かれ、暴かれることではなくて、『自分が誰にも知られない』つらさだった (166頁)

 これも、関係を渇望してしまうことの悪循環である。この女性の場合は、「他人になりすまし、自分のプライバシーを暴露するという非常手段をとらざるを得なかった」。
 この女性は、ネット上で他人に成りすまして、自分のプライバシー(悪い部分)を暴露することをしていたのだが、彼女もまた、つながりたいがゆえに、ずっと「患者」のポジションから抜け出せない。

「開かれた」聴き方を目指して

 上のようなつながりたいという意思が病を招いてしまうからこそ、「べてる」の存在意義はある。
 そこで、当事者研究があり、その研究を取り上げるメンバーとの会議がある。

 そうした空間において、注意されていることは何か。
 それは、聴き方である。

 聴き方には、「閉じた」ものと「開かれた」ものがある(108頁)。
 「閉じた」方は、当事者とスタッフの両方で、自己完結する聞き方である。
 「閉じた」方は、当事者自身につかの間の充足感が得られるだけで、更なる不安や孤立感をもたらす。
 対して、「開かれた」方は、新しい人とのつながりや出会いの可能性に開かれた聴き方である。

 臨床における陥穽が「閉じた」ほうに現れている。
 つまり、結局新しい出会いの可能性に開かれておらず、結局自閉してしまう。
 ずっと病気でいたいと思ってしまうのは、こうした共依存的な「閉じた」聴き方を脱し切れていないからだ。

 また、ネットに自分の情報を漏出させる人もまた、おなじく「閉じ」ているのではないか。
 特に、「ネット上で他人に成りすまして、自分のプライバシー(悪い部分)を暴露」する方法では、新しいつながりも、出会いの可能性も開かれていないからだ。
 
 では、当事者研究の場合は?
 おそらく、「閉じ」てはいないと思う。
 なんせ当事者研究の場合、「幻聴さん」にさえ開かれているのだから。
 (「幻聴さん」の詳細については、Wikipediaの「べてるの家」の項目も、参照されたし。)

「共感」だけじゃ、ダメ。

 『聴いてほしい』という中には、自分の感情を何とかしてほしい、という気持ちに関わる動機と、問題を解決したい、という具体的な現実的な対処を知りたい動機とがある。
 多くの場合、気持ちに関わる部分はたくさん聞いてくれる。でも、現実的な対処について一緒に考えてくれる人は少ない(113頁)。
 
 著者はそのように述べる。
 感情は処理してくれるが、結局何の解決にもなっていない。
 そういうことが臨床の現場では多い。
 
 当事者の「気持」だけしか見ない、というのは、先の「介護民俗学」が批判した点に通じる。
 その背後にある、介助者側の多忙、というのも重要だろう。
 ともあれ、 「共感」だけじゃダメなのである。(あるいは、物足りない、というべきか。)

 べてるの場合、病気が重くなったりしても、それが普通であり、あるがままで良いととらえるような、施設全体の「レリゴー」な精神によって、それを乗り越えているように思う。(本書には、「べてる」に関わっている とある雇用主さんが、雇っている或る当事者のミスに対して、敏感にならずに受けとめてしまっている自分にふと気が付いてしまう、という挿話がある。)

 (未完)