意味づけられない「ナショナリズム」論 藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』(1)

藤田省三全体主義の時代経験 (著作集6)』みすず書房 (1997/10)

宮崎哲弥藤田省三への言及■
 宮崎哲弥は、「? 戦争と「善き生」…安易な国家依存に抵抗」(『朝日新聞』2003.8.13.〜21.文化欄、シリーズ《ナショナリズムを問い直す》より)という文章において、藤田省三の或る言葉を引用しています。
 宮崎はまず、「あらゆる死は無価値であり、例外なく『犬死に』と考えるべきではないか」という主張に対する小林よしのりの反論に応えようとします。小林は、「すべての死が無意味だとすれば、生のみにしか価値が認められないことになる、その価値観は安楽を貪(むさぼ)り、ひたすら生を永らえることを願うニヒリズムに帰してしまう」と反論しています。これに対して宮崎は、応えます。

 死の無意味さを直視してはじめて、何の利害得失にも拘(かかわ)らない真の「善き生」を生き得るのではないかと問うたのだ。それこそが、深化しつつあるニヒリズムを超克する唯一の方途ではないかと。

 「もし特攻隊員が死後の顕彰を期していたとすれば、彼らはなお現世的価値(利害得失)を基準にしていたことになる。仮に期したことが、将来の国の繁栄であったとしても現世的価値、すなわち生者の価値を目的としていたことに変わりない。」と鋭く応答します。そして、

 世俗的な意味や価値に還元できない「犬死に」だからこそ、あえてその道を選んだ姿が私達(たち)の心魂を打つのではないか。

と述べています。そして宮崎は、「いま日本で主流を占めつつある国への無責任と依存の性向こそが現代におけるナショナリズムの典型」だと指摘して、それへの抵抗の方法を考察します。
 そして藤田省三の言葉を引用しているのです。

 藤田はある対談(「マルクス主義のバランスシート」、『全体主義の時代経験』所収みすず書房)で、森鴎外バーナード・ショーの『悪魔の弟子』を高く評価していたことに論及している。『悪魔の弟子』では、ある男が別の反逆者に間違われるのだが、一言の抗弁もせずに捕まる。処刑される運命と知りながら従容と連行されるのだ。藤田は、男が身代わりになったのは「仁とか義とか、そういうものとは違う別の或(あ)るものなのだ」という鴎外の評釈を紹介し、いま失われている感覚は「これだな!」と思ったという。

 宮崎は続けて、ルワンダ内戦の末期に、「ジェノサイド実行者の残党が寄宿学校を襲い、十代の女子学生17人を捕らえた」際、「襲撃犯が少女たちにフツ族ツチ族に分かれるよう命じたところ、彼女らは「自分たちはただルワンダ人である」とこれを拒んだため、「無差別に射殺された」というエピソードを導入します。
 宮崎は、これらが、「「偶然にくる或る不幸」  (藤田)を事もなげに引き受けてしまえる意思が働いている」点で共通していることを見出し、

安逸に流されず、偶然の不幸、死の虚無を見据えながらも、なお善く生きることを求め続ける意思。これこそがナショナリズムに内在しつつ、ナショナリズムを超える自由の可能性ではあるまいか。

と結びます。
 長々と引用してしまいましたが、その論は、さまざまなことを考えさせる力があります。死が何者にも価値付けられないこと、そして「偶然にくる或る不幸」を事もなげに引き受けてしまえる意思が、「安楽」ばかりを求めるニヒリズムを遠ざけ、利害得失(現世的価値)に拘らない真の「善き生」を支える、という立論は、優れたものです。これによって、「従来の通説におけるナショナリズムの規格からは外れるが、いま日本で主流を占めつつある国への無責任と依存の性向」をもつ現代におけるナショナリズムを批判するのです。おおむねの主張は、絶賛したいほどです。
 しかし、今回論じたいのは、宮崎の論ではなく、あくまでも、論じられた対象である、藤田省三の主張の方です。

(続く)