進藤榮一『敗戦の逆説』を再び読む。
米国側の守旧派と変革派の抗争は、日本に対してだけでなく、中国にもあった。
そこで、興味深い点がある。
中ソという共産主義国に対する見方である。
前者は、中ソを一枚岩と見たのに対して、後者は各々が一枚岩などではないと見ていた。
後者は、延安(中共)とクレムリン(ソ連)は既に潜在的に敵対関係に入っていたことを確認していた。
当時コミンテルンの特使だったウラジミロフは、毛沢東の側近・康生(当時特務を担当)に絶えず監視されていたのだ(66頁)。
50年代末にやっと明らかになった中ソ対立は、すでに、第二次大戦中に存在していた。
しかし、それは米国側にきちんと周知されることなく、やがて冷戦を迎える。
例の無条件降伏論争についても、次のように述べる。
国務省は、日本に対する降伏勧告の名宛人を、「日本国」でなくて「全日本軍隊」にすることを主張した。
これは、しかし、あくまでも連合国が日本の「国家や民族の全滅」を意味しないことを明らかにして、日本側の受諾への抵抗を減ずるためだったという(147頁)。
それだけでなくて、また、日本国外の中国大陸や太平洋の島々で戦い続ける日本兵の投降をも促すことが出来るためでもあったという。これをすれば、彼ら兵士たちを、ジュネーブ協定違反で処理できるためだった。
そもそも、無条件降伏において重要なのは、敗者の側が勝者に何の"条件"もつけられないことであり、ポツダム宣言の第六項以降の項目は、敗者が履行を義務付けられたものに過ぎない(165頁)。
第六項以降の項目は、"日本に対して好き勝手しません"というような項目などではなく、あくまでも、日本に対して、降伏した際に履行せよという義務項目だというわけだ。
著者は、一九四〇年体制論に対して批判的である(176−8頁)。
まず、占領軍側は経済システムを変革する気満々であった(だから戦前との連続性は薄いことになる)。
企業別組合の原型といわれる産業報国会も、実際は戦争末期には「機能麻痺」に陥っていた。
(そもそも、産業報国会は、組合員の下からの要望を吸い上げるという労組の機能をきちんと果たせていただろうか、という疑問もある。)
戦時下の農業会も、土地制度自体は改革しなかったし、食糧管理制度が創設されてもなお、四五年時点で農民は、30パーセントの供出負担を強いられていた。
橋本寿朗らの主張と考え合わせれば、確かに、一九四〇年代論は説得力に欠ける面が少なくない。