東京大学 -ボクと言語と、時々、大森荘蔵- (憲法学から少し離れて) 長谷部恭男『憲法のimagination』を読む(前編)

 長谷部恭男『憲法のimagination』を読む。

 著者のユーモア(芸?)も混じえつつ、著者の憲法観が早分かりできる(?)好著だ。
 著者の学問的(及び非学問的)興味は広く面白く、そこも見所。
 「配偶者」さん(も学者。)とのやり取りも面白い。



 憲法は、公務員や裁判官等の法の解釈・執行に関わる人々の多くが、それを憲法として認め、行動するようになって、初めて憲法として成立するという(17頁)。
 (まあ、ぶっちゃけいうと究極的には、最高裁内閣法制局の解釈次第ってことなんだろうけど。)

 で、著者はその持論に続けて述べる。
 憲法というのは、上記のような追認を経たあと、そこから遡って、「このときが憲法の制定だ」という起源も成立する。
 だから、憲法制定権力が何かとか、誰が保持してるとか、俺にはどーでもいいし、憲法の正当性を論ずる上で意味ないよ
、と。
 
 カール・シュミット、涙目(!?)www
 著者のほうが正論かも。



 著者は、ハートの影響を強く受けた憲法学者
 法の解釈に当たる裁判官集団の実践の中で、法律っていうのは形成され維持されるのであって、無論、憲法典であっても、その文面の有効性は、裁判官集団の実践するルールに依存するよ、と(37頁)。
 ぶっちゃけいうと、素人が憲法をどう解釈しようが意味があんまりないのであって、結局、最高裁内閣法制局がその解釈を決めるんでヨロシク、ってことだ。

 まあ、素人にくだらない解釈でかき回されるよりはマシ、なのかも。



 憲法9条の場合、著者は自衛隊の存在を認めている。
 というのも、内閣法制局最高裁が、現状、その存在を認めているからだw
 まあ理屈としては、憲法25条の生存権や29条の財産権に抵触するからで、そのことを考えれば、まあ自衛隊も合憲だろう、と。
 これはその通りではある。
 著者は、「絶対平和主義は、それを志向しない他の国民にも、それをおしつけている」として、この主義が、著者の抱く「立憲主義」(これの内容については説明を省略)に反している、と論じる。

 確かに憲法9条の文言は、文字通り読めば、あらゆる実力装備の保有を禁じているように読める。
 でも、「一切の表現の自由」を掲げる憲法21条があるけど、わいせつ文書は取り締まられるし、私学は「公の支配に属さない」という憲法89条もあるけど、それに反する可能性のある「私学への国庫助成」は為されている。
 文字通り読む=だから正しい、ってワケじゃないのだ。



 大森荘蔵についても書いてる。
 他我問題の場合、大森の言う「立ち現れ」では、上手く他我の存在を説明できない、という。
 「立ち現れ」一元論の場合、自分以外にも他にそれを行える存在はいるはずだけど、これはどう説明すんのよ、ってことだ。
 これ自体は野矢先生の主張を引いて述べているだけだが、問題はその先だ。

 なぜ、自分はずっと大森の哲学書から離れていたのか、と著者は自問する。
 そしてそれは、大森が他我問題を解決することもなく、晩年の「過去」に対する哲学的説明(「過去」の言語実践によって作られるという内容)を、社会的制度(言語実践など)を持ちだして解決しようとしていた(ように見える)ことにあるのではないか、という(68頁)。
 つまり、他我問題を解決することなく社会的制度を持ってきていいの?、ということだ。
 
 他我問題については、論ずる術を持たないが、永井均『なぜ意識は実在しないのか』とともに、この問題は理解されるべきなのだろう、とは思う。

 「言語」とは、私に特権的なものを構造的に消去していく働きをもっているのだが、実にそのような消去的な働きをもった言語を媒介することではじめて、私は、私に特権的なものがあるということを明瞭に自覚できるようになっている 

わけだから(こちらより引用)。
 言語実践というのは、「社会的制度」である以前に、「自我と他我」という境界線自体(つまり他我問題そのもの)を作成する本源的なものだ、という理解こそ正しいんじゃないか、ってミサカはミサカは真面目に考えてみたり。



 著者はスピノザについても書いている。
 曰く、スピノザの考えというのは、"全ての行動は因果的な生理学的な説明でも出来るし、理由に基づく思考過程としての説明も出来る。これは一つの状況を二つの異なる観点から説明しているのであって、一方が他方に影響を起こしてるわけじゃないのよ"ということだ(134頁)。
 分かりやすくいうと、今キーボードを叩いている時、脳を含めた体内の数多くの生理学的変化が生じている、と記述することが出来る。
 一方、この記事を早く書かなきゃいけないので、急いで記事を書いている、というふうに思考過程を記述することも出来る。
 二つはともに並列する、異なる描き方であり、どちらが適切も不適切もない。
 つまるところ、「脳内の状態の変化のせいで、彼はいたたまれない気分になった」とかいう、「トンデモ脳科学本」にある説明は、二つを混同しているわけだ。

 このスピノザの解釈ってどこかで見たことがあると思ったら、大森荘臓の「重ね描き」そのまんまだったw(著者はそのことについて言及してないけど)。
 まさか、ここでも大森と言語(記述・描写)の話が出てくるとは。
 スピノザと大森の解釈って、似てるなあ。