御土居は、京都の内外を分ける社会的排除の象徴でもあった。(それから、「堀川ごぼう」の自生説について) -梅林秀行『京都の凸凹を歩く』を読む-

 梅林秀行『京都の凸凹を歩く』を再読。

京都の凸凹を歩く  -高低差に隠された古都の秘密

京都の凸凹を歩く -高低差に隠された古都の秘密

  • 作者:梅林 秀行
  • 発売日: 2016/04/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  内容は、

豊臣秀吉由来の「御土居」をはじめ、凸凹ポイントで見つめ直せば、京都のディープな姿が出現する。 3D凸凹地形図と、古地図・絵画などの歴史的資料で紹介する、街歩きの新しい提案。

というもの。

 すでに多くの人に知られる本ではあるが、まあ、よい本なので取り上げたい。

 以下、特に面白かったところだけ。

今より北にあった「祇園

 絵画資料を見る限り、花見小路を中心とした現代の祇園お茶屋街は、江戸時代には存在しなかった (21頁)

 江戸期には、竹藪が茂っていたらしい。
 資料は、横山華山の「花洛一覧図」である。*1
 四条通沿いや四条通より北にあったお茶屋が、四条通の南に移転したのである。
 明治近代に、花街は京都の外に、という方針となった。
 他の都市でも同じ動きがあったようだ。

堀川ごぼう聚楽第

 堀川ごぼうは別名「聚楽ごぼう」といって聚楽第の堀跡に捨てたゴミから大きく育ったごぼうに由来(50頁)

 江戸期の京都の聚楽第は、畑と空き地であった。

 堀川ゴボウの自生説については、書くと長いので、注に回す。*2 *3 *4

 採土場でもあった。
 「塵捨場」*5でもあったらしい。

御土居と「周縁」 -在日コリアン-

 御土居のすぐ隣に旧朝鮮初級学校がある風景には、歴史的な根拠がありました。 (94頁)

 近代において、在日コリアンは3K業種に従事せざるを得なかった。
 京都の場合、西陣織などの繊維産業の末端作業、鉱山や鉄道建設などの土木作業といった低賃金低待遇の業務についた。*6
 特に京都市北部は、戦前期まで在日コリアンが集まっていた地域であった。

 彼らは差別などを理由として、周縁部の「御土居」周辺に集まって住むこととなった。
 結果的に彼らは、京都の境界線に住んだことになる。

御土居と「周縁」 -被差別部落-

 御土居は境界線として、その内側の市街地に住める人とそうでない人を分けていった (95頁)

千本北大路交差点の北側にある「楽只地区」、そこは御土居のすぐ脇にある。
 江戸期は蓮台野村と呼ばれた被差別部落だった。
 江戸中期に、京都市街地近くから移転させられたのである。
 彼らは江戸期には、「小法師」、御所の清掃や牢獄の番役などを務めた。
 革細工や太鼓梁などの皮革業が盛んで、雪駄などの製造補修には牛皮が必要なため、大きな収入源となった。*7
 この御土居は、京都の内外を分ける社会的排除の象徴でもあった。

 本書の良い点は、そうした事実を隠さずに書いていることである。

 

(未完)

*1:早稲田大学図書館の古典籍総合データベース(後述のURL)で閲覧可能である。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_01169/index.html
 地図は、北を左側、南を右側としている。鴨川が、北から南へ流れ、四条の東側にある大きな目立つ建物が祇園社である。その西側の四条通沿いに、お茶屋が見える。一方、現在の祇園に当たる場所は、確かに竹藪である。
 著者も参照している、出村嘉史,川崎雅史「近世の祇園社の景観とその周囲との連接に関する研究」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130004039347 )に、わかりやすい図が載っている。
 なお、本書には横山華山という表記はない。まだ彼の名前を有名にした横山華山展(2018~2019年)をやる前だったためであろう。今だったら名前を書いていただろうと思う。

*2:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所の「京都歴史散策マップ」の項目「19.聚楽第」には、

堀川ごぼう 聚楽第を取り壊した堀跡に栽培されたことから聚楽ごぼうとも言われます。1年間手間をかけてできる高級品です

との記述が見える(https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/rekishisansaku.html)。これは自生説ではない。

*3:堀川ごぼうについては、レファ協に既に情報があり、「堀川ごぼう自生について記述した和古書は見つからなかった」、「1694年の時点では、堀川付近はまだごぼうの産地ではなかったのではないか」としている(URL:https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=%E5%A0%80%E5%B7%9D%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86&kwbt=%E5%A0%80%E5%B7%9D%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000075091 )。

 ただし、1680年代の『雍州府志』には、八幡牛蒡の話題に続けて、「今京都北野並小山堀川所々産者亦為宜」とあり、当時、堀川でも牛蒡を育てていたと記述がある。また、元禄六年刊・『西鶴置土産』には、「堀川牛蒡ふとに」と出てきており、この時点でもすでに「堀川牛蒡」という存在が出現していることがうかがえる。産地として有名でなくても、栽培されていた可能性は否定できない。

 で、近代。1915年の『京都府誌 上』によると、聚楽ゴボウや堀川ゴボウというのは、およそ300年前越前の「阪井郡」より種子を得て、京都市裏門通出水の白銀町に蒔いたのが始まりという(当該書579頁)。調べた限り、堀川牛蒡の来歴について、はじめて明確に言及されるのはこの本である。

 福井の阪井郡となると越前白茎ごぼうが想起されるが、仮にこの伝承が正しいとすると、来たのは品種的に、越前白茎牛蒡ではなく滝野川牛蒡の系統であろう。

 『京都市特産蔬菜』(京都市農会、1934年)には、堀が塵芥で埋められ、その埋立地に百姓が越年牛蒡を作ったのが始まりであって、そうしたところ偶然大きな牛蒡ができた、と伝承を紹介している(当該書39頁)。また、杉本嘉美『京都蔬菜の来歴と栽培』(育種と農芸社、1947年)には、同じような伝承を伝えつつも、元禄八年出版の『本朝食鑑』には堀川牛蒡に関する記録がなく、明治二十年ごろにはその記録が見えることを伝えている。

 はじめて堀川牛蒡と聚楽第の堀跡との話が出てくるのは、調べた限り1934年である。また、上記のどちらの本も、食べ残りの牛蒡を捨てた、ということは書いていない。最初から越年牛蒡を作るつもりで植えている。

 広江美之助『源氏物語の植物』(有明書房、1969年)では、口伝では聚楽第の埋め立て地に作られたのが起源で、「堀川辺」にゴボウを捨てたところ、正月ごろに、太い大きなゴボウになったのがはじめと伝える、という(212、213頁)。この段階でゴボウを捨てたことになっている。

 林義雄『京の野菜記』(ナカニシヤ出版、1975)では、豊臣政権滅亡後に堀だけが残り、堀は付近の住民がゴミ捨て場として使い、その後その埋立地に、付近の農民がごぼうを植えたところ、大きなごぼうがなった、としている(81頁)。

 京都市/編『京都の歴史 5 近世の展開』(学芸書林、1979)によると、堀跡は塵芥で埋められ、畑地となって牛蒡が植えられた(588頁)。越前坂井郡から種子を得て、今の白銀町あたりに蒔いた。そしてその堀跡から、異様に太い牛蒡が取れるようになった。ゴボウを地中で越年させて太く柔らかいものを栽培したのだという。この「越年牛蒡」は自生ではなく農民の工夫によるものと、この本は説明する。上記の説を総合したものであろう。

 そして、『京都大事典』(淡交社、1984年)は、聚楽第の堀を埋める塵芥中に巨大に生育しているのを発見して、栽培が始まった、としている。

 以上のとおりである。

 調べた範囲のことであるが、少なくとも、ゴボウは偶然捨てたり、自生したものが巨大化したのではなくて、最初から越年牛蒡として育てるべく植えたものが、その始まりであることはおよそ間違いなさそうである。また、江戸期には、すでに「堀川牛蒡」なる存在が、一応はあった(現在のものと同じ系統のものかは不明)ことも。

*4:1778年ごろの『京都名物 水の富貴寄』にも、堀川牛蒡の名前が出てくる。18世紀にも、堀川牛蒡の名前自体は確認される。以上念のための追記。2022/1/12付

*5:『京都御役所向大概覚書』(1717年ごろ成立)より。

*6:高野昭雄は、

京都の風物詩としても知られてきた。だが、この友禅流しの仕事は、蒸しの仕事とともに、戦前から主として朝鮮人労働者によって担われてきた仕事であることは一般的にはあまり知られていない。

とし、

当時の西陣で就職差別は日常的な現象であった。それでも京都市では、多くの朝鮮人が繊維産業に従事していった。

と言及している(「京都の伝統産業と在日朝鮮人http://khrri.or.jp/news/newsdetail_2017_08_30_94.html )。

*7:後藤直は、

蓮生寺の記録には「替地により宝永5年、蓮台野に移転」とあり楽只小学校の沿革史によると「本学区は旧芦山寺の北木瓜原野口に住んでいた妙玄尼が宝永5年に蓮台野に土地を求めて移転した」とある。野口を吸収した蓮台野村は1709(宝永6)年、二条城掃除役を廃止されたかわりに他の穢多村と同様に牢屋敷外番役を命ぜられ六条村組下として人足をだしていく

と、蓮台野への移転についてまとめている。また、皮革業については、

村人たちは人足として行刑役をつとめてはいるが、それだけで生活が保障されたわけではないく、皮なめしや雪駄直しで生計を立てていた。

という、生活に必要な副業というようなニュアンスで、記述を行っている(以上「蓮台野村の形成についての考察 : 被差別部落「千本」のルーツを考える」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006422906より。)。

「なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか」(by岡本太郎) そして、大商会頭の出身地から大阪経済の浮沈を思う -梅棹忠夫『民博誕生』を読む-

 梅棹忠夫『民博誕生 館長対談』を読んだ(だいぶ前に読んで久しい)。 

 内容は、梅棹とゲストたちとの対談なのだが、某密林のレビューにある通り、「本書は民博完成に関った人々との対話だが、けっこう博物館に関係ない話もしている」。

 しかし、そこが面白かったりもする。

 以下、特に面白かったところだけ。

「なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか」

 なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか (43頁)

 岡本太郎の言葉である。
 生まれつき足の長いやつが走る訓練してテープを切っても「人間的じゃない」、と岡本太郎は言う。
 それよりも、何十メートルも後ろを「短足岡本太郎」が歯をくいしばって走っている方がよほど「人間らしくてうつくしいんだ(笑)」。*1
 たしかに、こういうものの方が、よほど見ごたえはありそうである。

国際化とは何か

 ここにしかないりっぱなものができれば、世界のために意味がある (217頁)

 木田宏の言葉である。*2
 これに、梅棹も同意している。*3
 国際化とは、飛行機で往復したり、国際交流したりすることではない。
 その国の誇るべきものであることが国際的である、と。
 例として、『源氏物語』等を挙げている。
 もちろん、くだんの官製の「クールジャパン」とやらが、真に「国際化」なのかというと、もちろんそんなことはないのだろうが。*4

大阪は、大阪の外の人間が支えた。

 大阪商工会議所の会頭の出身地をみたら、大阪人はふたりしかいないですね。 (254頁)

 司馬遼太郎の言葉である。
 本が出た当時、明治期の田中市兵衛と昭和期の森平兵衛のみが、大阪出身だった。
 大阪は、よそのひとがやってきて商売をしている、と梅棹はいう。
 たしかに、五代友厚も、薩摩の士族である。
 大阪商工会議所ビル前の銅像三体は、五代、土居通夫、稲畑勝太郎、いずれも、大阪出身ではない。
 これが、往時の大阪の経済界であった。*5

 

(未完)

*1:岡本のオリンピック観の一側面として、篠原敏昭は、次のように書いている(「ベラボーな夢 岡本太郎における祭りと万博」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006616337 *注番号を削除して引用を行った。)。

彼 (引用者注:岡本太郎) はオリンピックに巨額の予算がつぎこまれることが気に入らなかったのだ。なぜ気に入らなかったのか。オリンピックが、誰もが参加できる祭りではなくて、「チャンピョン達のためだけ」のものだったからである。

なお、この箇所で参照されているのは、岡本「半身だけの現実/代用時代」である。
 篠原は、岡本のオリンピック観の別の側面についても言及している。

*2:木田は戦後、若手文部官僚として、社会科特別教科書『民主主義(上・下)』の編集にも携わっている。その件で面白いのは、第1章の「民主主義の本質」を、宮沢俊義に任せたら中身が硬すぎたので、やむなく、宮沢の先輩の尾高朝雄に執筆を引き受けてもらった、というエピソードである(谷口知司ほか「木田宏と教科書「民主主義上・下」について : オーラルヒストリー等の木田教育資料から」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004750811、21頁 )。

*3:ところで、民族学博物館ができたころ、もっとも痛烈に批判したのは、おそらく、赤松啓介であろう。赤松は、「危機における科学」で例えば次のように述べている(以下、犬塚康博「国立民族学博物館:「フォーラム」を睥睨する「神殿」 「アイヌからのメッセージ」展の吉田憲司フォーラム論批判」 より、孫引きを行っていることを、予め断っておく。http://museumscape.kustos.ac/?p=414 )。

民族学博物館」の対象が,殆んど昔の植民地民族,今の後進民族を主としているのは、どういうわけなのか。欧米民族学博物館,あるいはギリシャ民族博物館,フランス民族博物館等があってもいいのではないか。ところがギリシャ,フランスその他の先進諸民族の場合は,それが「美術館」なのである。私が梅棹忠夫に聞きたいのは、それがどうして「後進民族美術館」であってはいけないのか、ということだ。

 現在の民族学博物館には、ヨーロッパ展示も存在しているし、赤松に対して応答できている面はあるが、それでも、赤松の問いは現在でもなお、耳を傾けるべきところがあるように思う。

 例えば、「いかに生きるべきか、市民の問いに答え得るものでなければ『科学』とはいえない」という言葉がそれである(赤松「危機における科学」(『赤松啓介民俗学選集 第5巻』明石書店、2000年、151頁))。

*4: 今更言うまでもないことだが、黄盛彬の「クールジャパン」評が事態をおおよそ言い表しているだろう(「クール・ジャパン言説とテクノ・ナショナリズムhttps://ci.nii.ac.jp/naid/130005071332 )。

That is, after all, the cool Japan discourse along with technonationalism has been functioned as an ideology for the protection of vested interests of established industry and media conglomerates.

 「クールジャパン」の代表的存在(?)であるアニメについての話も一応書いておく。2000年までアニメの海外売り上げは順調に伸び、後半は減少、2010年代前半は低迷していたが、後半には売り上げは伸びている。背景には中国市場の存在があり、その浮沈が、日本アニメ産業における海外売り上げを、左右しているようだ(以上、一般社団法人日本動画協会「アニメ産業レポート2019 サマリー(日本語版)」https://aja.gr.jp/jigyou/chousa/sangyo_toukeiの2頁に依拠した。) 。「クールジャパン」の沙汰も中国市場次第、である。

*5:その後、大阪出身者として、佐治敬三サントリー)、大西正文(大阪ガス)、野村明雄(大阪ガス)らが、大阪商工会議所の会頭になってはいる。本書刊行後、2020年時点で、7名が就任しているが、うち3名が大阪出身ということになる。
 さらに、現会頭の尾崎裕は、宝塚出身で大阪府立北野高等学校卒なのだから、広義には大阪出身と言えないこともない(まあ、無理な言い方ではあるが)。
 こうした変化が、80年代以降の大阪の経済的気運を反映したものなのかどうかは、今後検討することにしたい(たぶんやらない)。
 そして、それ以上に注目すべきは、本書刊行後、会頭を務めるのが、サントリーと銀行 (大和銀行(当時)) を除いて、大阪ガスと鉄道会社出身者ばかり、というところであろうが。
 なお、公益企業ばかりが関西経済界のトップである事に対する批判は、既に行われている(以下のURLを参照http://www.elneos.co.jp/0508sf2.html )。 

香港映画にはまる土星人、ダンボを愛する土星人、そして、音楽の懐が深い土星人 -湯浅学『てなもんやSUN RA伝』を読む-

 湯浅学『てなもんやSUN RA伝』を読んだ。 

てなもんやSUN RA伝 音盤でたどるジャズ偉人の歩み (ele-king books)

てなもんやSUN RA伝 音盤でたどるジャズ偉人の歩み (ele-king books)

  • 作者:湯浅学
  • 発売日: 2014/10/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は、紹介文のとおり、

土星に還った男、サン・ラーの足跡を追う惑星間音楽批評!

というもの。

 知らない人は、なんのこっちゃと思うだろうが。
 まあ、サン・ラー*1で、本が書けるのは、日本ではこの人くらいかもしれない。*2

 以下、特に面白かったところだけ。*3

土星人のルーツ

 実はサン・ラーとアーケストラの演奏は1930~40年代のジャズ楽団の伝統的様式を踏襲続けていた (214頁)

 サン・ラ―は、実はけっこうオーソドックスな存在でもある。*4
 一方、サン・ラーとアーケストラの特徴となるのは、儀礼的な信仰の中で集団即興を展開するところだ。
 これは、アーケストラ各自の自発的鍛錬を重視した結果であるらしい。

土星人、香港映画にはまる。

 サン・ラーはたちまちそのトリコとなり、続々上映される香港映画をすべて見たらしい。 (87頁)

 サン・ラーは、1961年、ニューヨークにいた。
 かれは、一度に3、4本の映画をみて、はしごしたりした。
 そんな彼は、香港映画にはまる。
 香港映画がアメリカに初上陸したのも1961年だ。*5 *6

土星人、ラゴスで怒る

 故郷だと? お前たちは私の仲間を売ったんじゃないか。ここはもはや私の故郷などではない! (225頁)

 サンラはラゴス(ナイジェリアの都市)で怒った。
 フェスに呼ばれたが、扱いに腹を立てたのである。
 空港に迎えに来たナイジェリア人が、「おかえりなさい、ようこそ故郷へ」と言ったものだから、お前たちは私の仲間を売ったんじゃないか、と答えた。*7

土星人、音楽の懐が深い

 しかし諸君、このインチキが、どこかの誰かにとっては希望であり夢の素なのだ。 (242頁)

 サン・ラーがディスコ向けのレコードを持ってきて、アーケストラの面々に聞かせた。
 何人かは露骨に嫌悪感を示した。
 サン・ラ―は言った。
 頭ごなしに決めつけてはならないと。
 サン・ラ―はそのようにして、ディスコに対しても、柔軟に対応することとなった。*8

 

 また、サン・ラ―はパンクロック以前からパンクで、スロッピング・グリッスルより以前から力強いノイズを発生させていた人物である。
 結果、サンラの音楽はパンクやニューウェイヴの支持者の一部にも、「発見」されることになった。

土星人、ダンボとディズニー映画にはまる

 サン・ラーはダンボに大いに共感した。 (312頁)

 ディズニー映画に傾倒したサン・ラー。
 サン・ラーは、仕事の都合上、『ダンボ』のヴィデオを見た。
 そして、ダンボが悲しく夜空を見上げる姿、その心優しキャラクターを大変気に入った。
 しかもこの作品には中近東的メロディを持った曲も盛り込まれていたため、サンラを大いに刺激した。
 そんなこともあって、他のディズニー映画の楽曲も、アーケストラのレパートリーに加わっていったのだった。*9

 

(未完)

*1:本稿では、サン・ラ―で、表記を統一する。

*2:著者は、2004年に出たジョン・F.スウェッド『サン・ラー伝』邦訳の監訳も行っている。

*3:『Jazz Tokyo』に掲載された、インタビューで、マーシャル・アレンは次のように述べている(https://jazztokyo.org/interviews/post-3710/ )。

基本的にサン・ラの音楽にはすべてにメロディーがある。どの曲にも明確なメロディーがあるから、自由にリズムやカウンターメロディーを付けられる。こんな簡単なことはない。何度考えても、音楽を創造するのに、これ以上いい方法はないと思う。

サン・ラーの音楽における重要な事項として、あえて引用した次第である。

*4:青木和富は、

アーケストラは、普段フリー・ジャズに分類されるが、サン・ラが古典ジャズの鬼才フレッチャー・ヘンダーソンから影響を受けたように、このオーケストラの土台にはスイング・ジャズがある。

と述べている(「サン・ラ・アーケストラ不思議なグルーヴ感が充満」https://style.nikkei.com/article/DGXDZO74181290S4A710C1BE0P01?channel=DF130120166055&style=1 )。

*5:鑑賞したのは、キン・フー「大酔侠」(1966年)、チャン・チェ監督「片腕必殺剣」(1967年)、「死角」(1969年)、などである。どれも、1961年以降の作品だ。サン・ラーは、こういった香港映画の有名作品も、見ようとしたのだという。以上、 John F. Szwed の Space Is the Place: The Lives and Times of Sun Ra を参照した。邦訳もあり、監訳は本書の著者・湯浅である。

*6:大和田俊之は

カンフー映画への関心が1970年代に公開された一連のブルース・リー映画に端を発することはいうまでもないが、それがベトナム戦争を背景に白人社会への抵抗という点で黒人とアジア人の連帯を表していたことは強調すべきだろう。

と述べている(「ヒップホップにおけるアフロ=アジア」http://www.webchikuma.jp/articles/-/731?page=3)。サン・ラーはそれよりもずっと早く、香港映画に着目していたことになる。
 なお、上記の大和田の議論は大変面白いので是非ご一読を。

*7:ナショナル・ジオグラフィック』の「沈没船が明らかにする奴隷貿易の変遷」という記事には、

ヨーロッパの奴隷貿易戦略は、冷酷なものだった。商人はまず、一部のアフリカ人を味方につけ、銃と火薬を与えて部族闘争を強化させる。その間にアフリカ人仲介人を敵国に送り込み、奴隷を捕らえさせる。捕らえられた奴隷は沿岸まで連行され、ヨーロッパの奴隷商人に売りさばかれるという仕組みだ。

とある(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/b/060900010/ )。よく知られていることではあるが、念のため。

*8:サン・ラ―がアルバム・『Disco 3000』を出したのが、1978年。その年ヒットしたのが、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』である。

*9:ブログ・「人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary」には、

1989年のサン・ラ・アーケストラは「Disney Odyssey Arkestra」と名乗ってライヴ活動を始めました。前年のオムニバス盤『Stay Awake』はディズニーのアニメ曲のジャズ・カヴァー集で、アーケストラは『ダンボ』からの「Pink Elephant」を割り当てられましたが、サン・ラは初めてディズニー・アニメを観て深く感動してバンドのレパートリーにディズニー・アニメ曲を多く取り入れ、1989年初夏のヨーロッパのツアーは序盤と締めに定番曲を演奏し、大半はディズニー・アニメ曲を披露するステージになりました。

とある(https://hawkrose.hatenablog.com/entry/15919018 )。

シェイクスピアと囲い込みの話から、『ハムレット』は「哲学」的という話まで -河合祥一郎『シェイクスピア 人生劇場の達人』を読む-

 河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』を読んだ。 

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

 

 内容は紹介文のとおり、

本書は、彼が生きた動乱の時代を踏まえ、その人生や作風、そして作品の奥底に流れる思想を読み解く。「万の心を持つ」と称された彼の作品は、喜怒哀楽を通して人間を映し出す。

というもの。
 紹介文だけだと少しわかりにくいが、シェイクスピアの生涯と作品を紹介する、優れた入門書であると思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

囲い込みに反対しなかったシェイクスピア

 だが、シェイクスピアはそうしなかった (94頁)

 シェイクスピアの故郷で、面倒な土地問題が起こった。
 シェイクスピアが懇意にしていた男の、その息子(ウィリアム・クーム)が、自分らの土地を囲い込み、羊を放牧しようとしたのである。
 すると、穀物の値が上がり雇用が減る、として、反対運動が街で起こった。
 囲い込みは実行され、それが殴り合いのけんかに発展する。
 それに対して、シェイクスピアは、囲い込みを辞めるよう説得することはなかった。
 シェイクスピアは当時、十分の一税徴収権を持っていたのだが、もし損失が出た場合はその代償をする、という囲い込み一派の説得を受けて、引き下がったのである。*1

「女性」としての少年役者

 これらの少年たちは、舞台上で完全に女性に見えたのだろう (155頁)

 1610年に、シェイクスピアの劇団・国王一座上演の『オセロー』を観劇したヘンリー・ジャクソン。
 彼は、デズデモーナ役者を「彼女は~」という風に記している。
 同じく、サミュエル・ピープスも、フレッチャー『忠臣』を観て、少年役者を「女性」扱いして記述している。*2
 彼らは、女性役の少年たちを女性として鑑賞していたのである。*3

ハムレット』は「哲学」

 しかし、この悲劇を単純な仇討ち物語のレベルで考えてはなるまい。 (163頁)

 ハムレットは、ただ復讐するかしないかウジウジ悩んでいるのではない。
 ハムレットはあくまで、キリスト教徒として、人間として何をすべきかを考えている。
 その思索の延長線上に「人間とは何か」という哲学的思考が出てくる。*4
 人間の身(神ならざる存在)でありながら、復讐をもくろむという矛盾。*5
 そして、これに悩むハムレットは、道化師ヨリックの頭蓋骨から、人間のはかなさを教えられることとなる。

 『ハムレット』、結構哲学的である。

オセローの「正義」

 オセローはこれから行おうとしていることを復讐ではなく、なさなければならない正義とみなしていると説明している (167頁)

 第二アーデン版編者の、M・R・リドリーの説である。
 デズデモーナを殺害するオセロー側の理屈はこうである。
 つまり、オセローは、神に代わって正義を行おうとしているのである。
 「死なねばならぬ。でないとさらに男を騙す」というセリフがそれを物語る。
 まあ、ミソジニー感があるような気もするが。*6

 

(未完)

*1: 「シェイクスピア・バースプレイス・トラスト」のウェブサイトには次のようにある(以下のURL:
https://www.shakespeare.org.uk/explore-shakespeare/blogs/shakespeares-friends-burbage-combe-and-sadler/ )。

Thomas and William fought the council who objected to this appropriation of public lands. Shakespeare’s tithes which he had invested in included some of this contested property, but the Combes’ agent assured Shakespeare’s agent, Thomas Greene, that they would compensate Shakespeare for any loss to his tithes.

ただ、後段の文章によると、どうやら、事はクームやシェイクスピアたちの思うようにはいかなかったことが書かれてはいるが。

*2:サミュエル・ピープスの日記(1660年8月18日付)によると、

“The Loyall Subject,” where one Kinaston, a boy, acted the Duke’s sister, but made the loveliest lady that ever I saw in my life, only her voice not very good

とあり、もちろん少年と認識はしていたが、「レディ」と形容している。以下のURLを参照https://www.pepysdiary.com/diary/1660/08/18/ 

*3:木村明日香は、

多くの研究者が少年俳優と女性の近似性を指摘してきたのは驚きではない。女性が父や夫の所有物として社会的・経済的・性的自由を奪われていたのと同じように、少年俳優も自らの身体と労働への権利を持たず、こうした被支配者としての立場が、彼らが女性を演じ男性の性的対象になりえたことの背景にあると考えられたのである

という風に、先行研究について言及している(「『モルフィ公爵夫人』における少年俳優の舞台上の効果」https://ci.nii.ac.jp/naid/130007593500 )。もちろん木村の主張は、その先にあるわけなのだが。
 一応、押さえておくべき点かと思うので、ここで言及しておく。

*4:著者・河合が出演した番組の解説文には、

「生きるべきか、死ぬべきか」。近代人としての悩みを真正面から引き受けて悩み続けたハムレットは、第五幕でついに最後の決断を行う。その決断の裏には、自力のみを頼ってあれかこれかと悩むのではなく、「もう一つ高い次元で、神の導きのまま自力の全てを出し切って最善の生き方をしようという悟り」があると河合教授は指摘する。ハムレットは、最終的には、なすべきことを全てやりきった後は、全て運命にまかせようという悟りの境地に至ったのだ。

とある(「名著39 「ハムレット」:100分 de 名著」https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/39_hamuretto/index.html )。

*5:本多まりえは、

エリザベス朝当時、私的復讐は神と法によって禁じられていたため、ヒエロニモ(Hieronimo)やタイタスなど、復讐悲劇の主人公は、どのような事情であれ、復讐を果たした途端に「悪党」の熔印を押された

と述べている(「ハムレットと独白」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000785642/ )。参照されているのは、 Fredson Bowers, Elizabethan Revenge Tragedy 1587-1642 である。

*6:鍛治佳穂は、先行研究を次のようにまとめている(「『オセロー』は人種の悲劇か――オセローの悲劇にみる男性性喪失への恐れ」http://www.elsj.org/kanto/proceedings_fall2018.html )。

オセローがなぜあれほど容易くイアーゴの罠にはまってしまうのかという問いはこれまで多くの先行研究で提示されてきたが、近年では、デズデモーナとオセローとの間の年齢や階級の差、そして人種の違いを指摘することによってオセローのコンプレックスを刺激するイアーゴの手法や、イアーゴとオセローが女性全体に対する不信という父権制的なミソジニーを共有していることなどをその理由とみなすのが主流となっている。

すでに、ミソジニーについては、研究上で言及されている。

「やさしい日本語」とはいうものの、使いこなすのは全然たやすくないわけで。 -庵功雄『やさしい日本語』を読む-

 庵功雄『やさしい日本語』を読んだ。

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

  • 作者:庵 功雄
  • 発売日: 2016/08/20
  • メディア: 新書
 

  内容は紹介文の通り、

人口減少を背景に、移民受け入れの議論が盛んになっている。受け入れるとしたときに解決しなければならないのがことばの問題。地域社会で共通言語になりうるのは英語でも普通の日本語でもなく〈やさしい日本語〉だけ。移民とその子どもにとどまらず、障害をもつ人、日本語を母語とする人にとって〈やさしい日本語〉がもつ意義とは

という内容。
 「やさしい日本語」とは何かを知るには、まずはこの一冊、と言ってよいくらいの内容。

 以下、特に面白かったところだけ。

英語じゃ力不足。

 英語を理解できるのは地球上の人口の半分にも満たない (31頁)

 定住外国人にとって、英語は、得意とする言語なわけではない。
 国立国語研究所の調査では、定住外国人にとっては、英語より日本語の方がわかる言語に該当するようである。
 これが、定住外国人と、旅行者や留学生などの短期滞在者との大きな違いである。
 そもそも英語を理解できるのは地球上の全人口の半分にも満たない。*1

 また、日本語母語話者にとっても、英語は必ずしも扱いやすい言語ではない。
 例として、著者は「アイドリングストップ」の例を挙げている。*2

ことばの壁

 漢字は、外国人以外の言語的マイノリティにとっても障壁になっています。 (122頁)

 また、ディスクレシアの人にとっては、ルビが元の漢字と一体化してしまい、よけいに文字認識が困難になるという例がある。*3

「多文化共生社会」の条件

留学生は、外国語が堪能という目で見てもらえるのに、私たち定住者は”日本語の能力に不安はないか?”といった、ネガティブな印象で見られています (124頁)

 朝日新聞での宮城さんという人の言葉である。*4
 外国にルーツを持つ子供たちが、二つの文化を知っている国際人として評価される社会を作ることが「多文化共生社会」の重要な条件となる。
 そして、「やさしい日本語」も、その社会を構築するための最重要課題である。*5

「やさしい日本語」は、言語能力を鍛える

 <やさしい日本語>は、日本語母語話者によって「日本語表現の鏡」としての役割を果たす (186頁)

 外国人に伝わるように自分の日本語を調整するという行為。
 それは、「自分の言いたいことを相手に聞いてもらい説得する」という母語話者にとって最も重要な言語能力の格好の訓練の場になるのだと著者はいう。*6
 実際、「やさしい日本語」で書こうとすると、修辞的なごまかしがきかなくなり、また相手本位をこころがけた表現にする必要があるので、言葉の力が鍛えられるのは、事実である。
 「コミュニケーション能力」というものを鍛えるには、確かに良い。

 

(未完)

*1:八田洋子は「ディヴィド・グラッドル( David Graddol )によれば、現在世界で英語を母国語としているのは約3億7500万人で、第二言語として使っている人がほぼ同数おり」、と述べている(「世界における英語の位置」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000505534 )。参照されているのは、グラッドル『英語の未来』(邦訳)である。
 ところで話は変わるが、「やさしい日本語」があるなら、「やさしい英語」もあるべきではないか、と考える向きもあろう。だが周知のように、古くはオグデンがベーシック・イングリッシュを提唱しているし、森有礼は「簡易英語」という、動詞変化等を規則正しくしたシンプルな英語を、既に提唱している。

 なお小林敏宏は、「森の「日本の言語」改革構想の源になっていたものが,1860年代半葉の英国で「国語」改革を巡って繰り広げられていた Moon-Alford 論争であったという(仮説実証的)結論を導き出」している(「森有禮の「簡易英語採用論」言説(1872-73)に与えた1860年代英国における「国語(英語)」論争の影響について」https://cir.nii.ac.jp/ja/crid/1050282677580820224 。

 以上、この註について、2021/12/6に追記を行った。)。

*2:ブルース・L・バートンは、次のように書いている「和製英語http://www.brucebatten.com/ja/tv.html )。

アイドリングという言葉自体が、エンジンを空転するとか、つけっぱなしにするという意味なので、アイドリング・ストップとはきっとエンジンを付けたまま停車するという意味だろうと私は思いました。 (引用者中略) なぜ勘違いをしたかというと、英語で「何々をやめよう」という場合には「ストップ」という言葉を最後ではなく最初に付けないと意味が通じないからです。

*3:「サイエンス・アクセシビリティ・ネット」によると、

一般にディスレクシアの人達は漢字の読みに困難がある人達が多く、そのため、全ての漢字にルビを振る支援がよく行われています。しかし、上記のように漢字とルビが1文字になって見える人にとっては、ルビが意味をなさなくなってしまいます。そのためベースの文字とルビの色を変えて欲しいというニーズもあります。

とのことである(以下、https://saccessnet.com/dyslexia/ )。なかなか難しい。

*4:この記事については、ブログ・「発声練習」が引用して紹介している。以下、http://next49.hatenadiary.jp/entry/20150923/p1 

*5:やさしい日本語は、外国人ではなく、日本語母語話者の子供にも有益である。佐藤和之は次のように述べている(「在住外国人300万人・訪日外国人4000万人時代の
安全を支える「やさしい日本語」」https://www.isad.or.jp/information_provision/no137/ )。

「やさしい日本語」は外国人だけでなく、日本人の子どもにとってもわかりやすい表現になっていた。的確な判断を求められる災害下で、「やさしい日本語」は外国人にも日本人にも速やかに伝わる表現であり、誘導する日本人にとっても、誤訳の心配がない安心して使える表現である。

大切なことなので、あえて引用した次第である。
 なお、佐藤の研究と本書著者・庵の研究との問題意識の違い等については、後者の手になる、「「やさしい日本語」研究の「これまで」と「これから」」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005830543 )等を参照。

*6: ウェブサイト・「伝えるウェブ」にて、「やさしい日本語」への翻訳を試すことができる(URL:https://tsutaeru.cloud/translation/try.html )。
 「やさしい日本語」に苦手意識がある人は、まずこのウェブサイトを使って見るといいかもしれない。
 ただ、これをつかっても、まだ「やさしい日本語」にするには、まだまだ調整が必要になりそうである。

「異学の禁」が素読に与えた影響から、幕末明治の漢詩ブームの背景まで -齋藤希史『漢文脈の近代』を読む。-

 齋藤希史『漢文脈の近代』を読んだ。(三読目くらいか。) 

 内容は、紹介文のとおり、

本書は漢文の文体にのみ着目した従来の議論を退け、思考様式や感覚を含めた知的世界の全体像を描き出す。学問と治世を志向する漢文特有の思考の型は、幕末の志士や近代知識人の自意識を育んだ。一方、文明開花の実用主義により漢文は機能的な訓読文に姿を変え、「政治=公」から切り離された「文学=私」を形成する。近代にドラスティックに再編された漢文脈を辿る意欲作。

という内容。
 すでに紹介文で、本書の内容はおよそ要約されているように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

異学の禁と、素読のスタンダード化

 極端な言い方ですが、異学の禁があればこそ、素読の声は全国津々浦々に響くことになった (23頁)

 漢文の読み書きは、18世紀末から全国の武士階級に広まる。
 日本で漢籍も出版された。
 だが、解釈の標準が定まらないと訓読もまちまちである。
 そこで、訓読の統一が必要になり、前提として、解釈の統一が必要になる。
 その解釈の統一が「異学の禁」によって成ったのである。*1
 解釈の統一は、カリキュラムとして、素読の普及と一体だった。

閉じられた朱子学

 道徳の外部はあらかじめ封鎖されているのです。完全なシステムを目指したことの裏返し (46頁)

 朱子学は、理気二元論で構成された体系で、外部がない。*2
 しかも秩序は自発的である。
 よって、理想の秩序はすべて当然に実現される。
 自発性はすべて当然の自発性として、選択肢がない。
 実は強制的になってしまっているのである。

 (もちろん、上記のような主張はかなり図式化した物言いであり、そのことは、著者が断りを入れていることであることは、いちおう記しておく。)

本場で認められた頼山陽日本外史

 和習という非難は、むしろ『日本外史』の文章が読みやすかったことに向けられているとしたほうがよさそう (62頁)

 『日本外史』は、1875年に広東でも出版されている。
 その序文では、この本は『左伝』や『史記』に範を取っている、と褒められているのである。*3

漢文脈からの離脱

訓読文体という型は、漢字漢語の高い機能を保持しつつ、漢文の精神世界から離脱するための方舟となった (95頁)

 近代以前は普遍とみなされた漢文も、近代以降は、東アジアローカルのものになった。
 その文体を支える精神は不要とみなされた。
 こうして近世後期から徐々に確立された訓読文体は、漢文(漢文脈)の精神世界から離脱していく。

 漢文脈における「感傷」と忍月の主張する「恋愛」には、大きな違いがあります。 (157頁)

 漢文脈の場合、「功名」を犠牲にはしない。
 「功名」の成立が実現が前提であった。
 女性におぼれることはアウトだったのである。
 じっさい、「舞姫」の大田豊太郎もそれを恐れた。
 著者いわく、「舞姫」は、恋愛小説ではなく感傷小説なのである。
 だが、石橋忍月は、「功名」より「恋愛」をとるべきだといった。*4
 ここに、漢文の精神世界からの離脱が見られるのである。

禅のラディカルさ

 禅ないし仏教は、士大夫の世界としての漢文脈にとって、それを外部へ開く契機になっていると同時に、その秩序を破壊しかねない危険因子 (218頁)

 朱子学はとんでもない物を抱え込んだ。
 朱子学は禅の影響を受けているのであるが、その影響は儒学の精緻化をもたらすと同時に、困ったものを内蔵させた。
 文明社会への対抗原理として、禅が見いだされるようになった、というのが、著者の見解である。*5

漢詩ブームの理由

 幕末明治期の少年たちが漢詩を作ることに熱中したのは (220頁)

 漢詩は平仄あわせをする必要がある。
 それには、熟語を暗記する必要がある。
 幕末期には大量の漢詩文参考書(例文集や熟語集)が出ている。*6
 これを参考にして、漢詩を作れば聡明さを誇ることが出来た。
 幕末から明治期にかけて教育を受けた世代は、漢詩文の出来が自分の知性を示す指標として受け取られたのである。
 ゲーム要素があって、それで名声が高まるなら、まあ流行るよね。

ギスギスで夜露死苦

 音韻的にも全部仄音で、とてもぎすぎす (222頁)

 ただし、漢語が多用されても「漢文脈」とは限らない。
 士大夫的精神というフレームを背景に持つかどうかが重要である。
 それがなければ、ただの漢字や漢語の遊びになる。
 ちなみに、「夜露死苦」という言葉は、全部仄音である。*7
 なめらかな四字熟語にするには、二文字目と四文字目の平仄を交代させるのが効果的だという。*8

 

(未完)

*1:佐藤進は、

学問所では、「寛政異学の禁」を強化する目的で「素読吟味」という試験を課すようになるが、そこで使われたのが「林家正本」と銘打った芝山点(後藤点ともいう)の四書五経であって、芝山点が以後広く普及したのはそのためだという。芝山点には、音読化・上代語法の不使用・過剰な読み添えの削除・不読をなくする、などの特徴があるという

と述べている(「藤原惺窩の経解とその継承--『詩経』「言」「薄言」の訓読をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006383563 )。
 なお、この論文で参照されているのは、鈴木直治『中国語と漢文』である。

*2:藤居岳人は、

システム論として整った朱子学を教学の中心に据えることで、江戸幕府は社会の秩序化の道筋を示すことができた。それが可能だったのはそもそも朱子学が学問と政治とを関連させる性格を有していたからであり、その関連を決定づける中心的概念が理だった。

と、著者・齋藤の見解のうち、朱子学=システム論については、基本的に肯定している。ただし、朱子学=システム論の「強制性」の面については是非を論じてはいない。以上、「尾藤二洲の朱子学懐徳堂朱子学と」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006407073 )に依った。

*3:加藤徹は、次のように書いている(「『日本外史』の漢文への中国人の評価」https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/singaku-33.html )。

清末の文人・譚献(1832~1901、初名は廷献、字は仲修、号は復堂)も頼山陽の漢文を激賞した。ざっくり言うと、

・日本人である頼山陽は「左伝」や「史記」の漢文の文体をよくまねており、その漢文の巧みさは、明の復古派の文人たちよりもレベルが上である。

・江戸時代の日本は、中国の古典古代と同様に良い意味での世襲制封建制があったおかげで、近世の中国人よりむしろ古典漢文を学ぶのに有利だったのだろう。

・漢文の文体は完璧だが、ちっぽけな島国なのに「天下」とか「天王」など大げさな用語を使う点は、笑ってしまう。

といった感じである。

*4:畑実は、「舞姫」論争後の忍月と鴎外のやり取りについて、「忍月と鴎外」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007002596 )で書いているのだが、なかなか面白い。鴎外が攻めている感じでなのである。詳細は、当該論文で。

*5: 後藤延子は、朱子が禅を大いに非難した理由を、禅では一切の儒教倫理が存立基盤を失って、仏教者の反社会倫理的行為が是認されてしまうからだ、としている(「朱子学の成立と仏教」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002771769、17頁 )。

 また、後藤は、朱子が「禅」における「空」を「無」と、(浅薄にも)誤解しているところがあることを、指摘している(同頁)。

*6:この手の本は、様々な呼び方をされるようである。正確に言えば、およそ同じものを、論者ごとに別の呼び方をしているということなのだが。岡島昭浩「漢語資料としての詩学書--『詩語砕金』を例として」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120000984957 )は、次のように書いている。

ここで「詩学書」と呼んでいるのは、中野三敏先生( 一九八一)の呼び方に従っているのだが(中野先生は江戸期の呼び方によっている)、これは、樋口元巳氏(一九八〇)が「漢詩作法書」と呼び、村上雅孝氏(一九九六)が「作詩参考書」と呼び、山田忠雄氏(一九五九・一九八一)が「詩語砕金の如き作詩書の類」と呼んでいるものとほぼ重なると思われる。

*7:こちらのサイトhttps://jigen.net/kansi/ でチェックできるので是非どうぞ。

*8:二四不同というやつである。

阪神タイガース、あるいは、「野次も、関西弁なので何となく迫力がない」と書かれた時代 -井上章一『阪神タイガースの正体』を読む-

 井上章一阪神タイガースの正体』を再読。(読んだのは2001年の太田出版のもの。*1 ) 

阪神タイガースの正体 (朝日文庫)

阪神タイガースの正体 (朝日文庫)

 

  内容は紹介文のとおり

阪神への幻想はいつどのようにしてつくられてきたのか。気鋭の批評家であり熱烈な阪神ファンでもある著者が、その正体を歴史的につきとめようとし、独自の視点から浮かびあがらせた愛すべき関西球団の知られざる真実と伝説。知的興奮にみちた野球文化史の好著。

というもの。
 
 以下、特に面白かったところだけ。

戦前の後楽園球場

 「あの後楽園が札止めになる」なんて、信じられない (221頁)

 戦前の後楽園は、プロ野球は不人気で、閑古鳥が鳴いていた。*2 *3
 千人か二千人の観客だったと。
 ところが戦後、カード次第では満員になる可能性が出てきた。
 1948年のある雑誌記事によると、「気狂い沙汰」だと。

GHQが後押しした戦後のプロ野球

 戦後のメディア状況は、プロ野球へ有利に作用した。 (232頁)

 1949年からは、本格的にプロ野球放送が増え、人気も上昇する。
 また、ラジオは空白をなくすことが占領軍から要請されてもいた。
 プロ野球はその穴を埋めるのにぴったりだった。
 こういうメディア的背景も存在するのである。*4

「虎ブル」の起源

 阪神がはじめからそういう球団だったのかというと、そうでもない。 (283頁)

 1956年以後、阪神はスキャンダルメーカーとなる(1956年に、藤村監督排斥事件が起きている。*5 )。
 それ以前はそうではない。
 しかし、スポーツ新聞はそれを助長して煽っていくようになったのである。

 関西人に反中央意識がたくされる球団も、南海から阪神へうつっていく。 (277頁)

 1959年、南海は巨人を下す(日本シリーズ)。
 同じ年に、阪神は巨人に天覧試合で敗北する。
 転機は、1959年年だったのではないか、と著者はいう。

六甲おろし」が知られるようになったのは

 「なんですか、それ」 (324頁)

 「六甲おろし」について聞かれた、元阪神ファン(~1972年)の水島慎二先生のコメントである。
 つまり、「六甲おろし」が知れ渡るのは、1970年代の出来事である。*6

「野次も、関西弁なので何となく迫力がない」

 「野次も、関西弁なので何となく迫力がない」 (342頁)

 甲子園が騒々しくなったのも、1970年代である。
 上記引用は、「週刊平凡」の1959年9月9日号である。*7
 甲子園は他の球場より大人しいのだ、と他のチームの応援団と比べられて、そう述べられた。*8
 隔世の感あり。

大洋ホエールズと川崎

 市民の半数以上から、反対署名をもらえるまでに、ファンを拡大していた (353頁)

 大洋ホエールズの話である。
 下関、大阪、川崎と転々とし、最終的に横浜に行ってしまった。
 川崎市にも根付いていたが、出て行ってしまったのである。(その後ヴェルディ川崎にも逃げられた。) *9
 実は、1970年代に、セリーグプロ野球球団は地域へ溶け込みだしていたのだという。

 

(未完)

*1:そのため、以下の頁番号も太田出版に依拠している。

*2:ただし、村上万純によると、

すでに 1939(昭和 14)年には後楽園球場がはじめて満員を記録していたが、「戦前観衆が一番多かったのは昭和十五年(1940 年)」

だという(「プロ野球女性ファン文化の変遷 -「ミーハー」ファンから「オタク」ファンの時代- 」http://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2012_2/5011A075.pdf )。
 必ずしも戦前に満員がなかったというのではないようだ。

*3:井上の『「あと一球っ!」の精神史』(太田出版、2003年)によると、1962年の優勝の決まる10月30日に甲子園球場(対戦相手は広島)はガラガラで、満員5万以上の球場において入ったのは2万人程度、外野席はガラガラだったという。「優勝決定戦でさえ球場に客を呼べないチームだった」(39頁)。ただ、読売戦だけは5万入る時代だったという。

 戦後の阪神も、ある時期まではそんな感じである。以上念のため。

*4:山口=内田雅克は、次のようにまとめている(「ジェンダー史研究 ー第二次世界大戦後の「野球」と日本人男性の「男性性」一」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006649406 。以下、引用の注番号を削除して引用していることを、あらかじめ断っておく。)。

1945年の11月6日には日本野球連盟復活宣言、18日にはオール早慶戦、23日にはプロ野球東西対抗戦野球と、次々と復活は具体化されていった。占領下、この復活を後押ししたのはGHQであった。スクリーン・セックス・スポーツという3S政策があり、そして自身が陸軍士官学校時代にはベースボールに興じていたマッカーサーアメリカ生まれのスポーツを民主化の象徴とした。チーム全員が協力し、精神主義ではなく、技術や駆け引きによって勝利を得るというプラグマティックな思考への教育が野球を通してなされるとされた。こうして野球と民主主義を結びつける言説が登場する。そしてGHQは敗戦後の民主安定政策として、プロを含めた野球を奨励し、接収下にあった後楽園をはじめとする野球場を開放し、ラジオ中継も許可する

*5:当事者の一人である吉田義男も、『牛若丸の履歴書』(日本経済新聞出版社、2009年)で、藤村排斥事件によって、阪神はもめごとの多い球団という烙印を押されたと述べている(当該書123頁)。

*6:和田省一(朝日放送 代表取締役副社長(2014年当時)。)によると、

中村(引用者注:中村鋭一のこと。)さんがあるときから「阪神タイガースの歌」があるはずだと、当時レコード室を探したら、若山彰さんが歌っている「阪神タイガースの歌」というのがありまして、コロンビアから出ていて廃盤になっていたんですが、古関裕而さんの作曲でした。これをかける。そのうち巨人戦に勝ったら生で歌う。巨人戦に勝つと3コーラス歌うと、段々、エスカレートしていくわけです。それで曲名も、正式タイトルは「阪神タイガースの歌」なんですが、歌いだしの文句が「六甲おろし」なので、中村さんは「六甲おろし」と言う。

中村鋭一が「六甲おろし」を流行らせたことを語っている(「メディアウオッチング例会(8月)」『関西民放クラブ』http://kansai-minpo.com/2014/10/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E4%BE%8B%E4%BC%9A%EF%BC%88%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%89/ )。本書(井上著)も、中村鋭一が「六甲おろし」を流行らせた説を述べている。

*7:1959年に初演され、翌年映画化された『がめつい奴』について、著者(井上)は、次のように述べている(https://www.sankei.com/west/news/180422/wst1804220006-n1.html のち、『大阪的』(幻冬舎、2018年)に収録。)。

もちろん、セリフはみな釜ケ崎あたりの大阪弁になっている。銭ゲバと言っていい登場人物が、大阪弁でやりとりをする芝居である。その興行的な成功も、「がめつい」を大阪人の属性とすることに、一役買ったろう。/一九五〇年代以後、より大きな富をもとめた経済人たちは、東京へ進出していった。計算高い彼らの大阪口調も、「がめつい」という大阪像を、首都で補強したかもしれない。やはり、あいつらは「がめつい」、と。

この頃が、関西弁イメージの一つの転機となるのだろう。

*8:永井良和によると、

これはテレビができた頃だと思うので、1950年代中盤だと思います。要するに、みなさん大人しい、仕事帰りの普通の恰好してるということがわかっていただければと思います。 (引用者中略) こういうプロ野球の状況に大きな変化を与えたのは、アマチュア野球の流れでした。特に、東京六大学の早稲田のコンバットマーチ早稲田実業が甲子園(高校野球)に持ち込み、全国中継されたことで、野球の応援スタイルが大きく変わっていきます。社会人野球でこの頃、チアリーディングが始まり、また社会人野球ではアンプを入れてもよかったので、大音響で音楽を流す応援のスタイルが広がりました。このようにアマチュア野球の変化がプロにも影響を与えたのです。

とのことである(「応援の風俗」(『ポピュラーカルチャー研究』Vol.1 No.3 http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/?post_type=report&p=140 )) 。そもそも、野次以前に、プロ野球における球場は静かだったのである。
 なお、同誌(*同号)には、「野球場はやや鳴り物があったと思いますが、僕が甲子園球場を知ってる範囲で申し上げると、あんなふうになったのは70年代半ばぐらいからですね。それ以前はごくごく静かな球場だったと思います。」という井上章一自身のコメントも掲載されている。

*9:ウェブサイト・『はまれぽ』の「川崎球場時代からのファンも!? オールドファン&熱狂的なファンに突撃!」という記事には、大洋ホエールズ川崎球場を本拠地にしていたころからのファンも登場している(https://hamarepo.com/story.php?story_id=6304&form=topPage54 )。