「普通のお客にハーモニーはわからない。彼らはメロディーが聴きたい」、まあそうなんだよね。 -岡田&ストレンジ『すごいジャズには理由(ワケ)がある』を読む-

 岡田暁生&フィリップ・ストレンジ『すごいジャズには理由(ワケ)がある』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

「ジャズがわかる」って、こういうことだったのか! 名演の構造がわかる! 分析的ジャズ入門 誰もが知る名演を題材に、ジャズの奥義を学ぶ!

というもの。

 分析的にモダン・ジャズがわかるという優れもの。

 以下、特に面白かったところだけ。

アート・テイタムのすごさ

 アート・テイタムの弾き方は、左手のスタイルがかなりビバップ以後のピアニストと違いますね。 (25頁)

 アート・テイタム*1*2の場合、左手の親指が雄弁だという。

 ビバップのピアニストは、右手がサックスで、基本左手は伴奏であることが多いのに対して、アート・テイタムはそうではない、と。

 右手小指がソプラノ、同親指がアルト、左手親指がテノール、左手小指がバスを演じ、とくにテノールを雄弁に動かしているという。

客はメロディとサウンドばかり聞きたがる

 普通のリスナーが聴きたがるのはメロディとサウンドですから (29頁)

 ハーモニーに不協和なテンション音がたくさんある時は、「スイート」な音色をたくさん使えばよい。
 そうすれば、普通のリスナーも違和感を感じなくなる。
 しかし、ビバップの場合、たいがい普通のリスナーを相手にしないので、不協和音を強調する。

 中・上級者向けである。

 レニー・トリスターノのように音色が滑らかだったり、リズムが統一されたりしていると、どれだけ無調的にフリーをやっても、聴く人は意外に許容する (127頁)

 結局のところ、大抵の人は、誰もハーモニーなど聞いてはいないのである。*3

 普通のお客にハーモニーはわからない。彼らはメロディーが聴きたい (123頁)

 確かに、オーネット・コールマンの「ロンリー・ウーマン」のテーマのメロディ重視(その分ハーモニーに縛られていない)で分かりやすいように思う。

フリージャズは何がフリーなのか

 でも何が自由かは、人によってぜんぜん違いました。 (110頁)

 ハーモニーからの自由(オーネット・コールマン)、モードからの自由、モティーフからの自由、リズムからの自由、メロディからの自由、「汚い」サックスの音色の自由(アーチ―・シェップ)。
 などなど、いろんなフリーのジャズがあるのである。
 フリージャズといっても、実は多様である。*4

コルトレーンが目指したもの

 コルトレーンはものすごく硬いリードを使っていたと思います。 (98頁)

 コルトレーンのフレーズがあまり流暢でないのはそのせいだという。
 舌と指がしばしばずれる。
 タンキングと指を動かすタイミングが微妙に違う。
 叫ぶような高音は、当時の「流麗なサックス」という基準から大きく外れていた。*5
 すべては、サックスを生身の人間の声に近づけたいという気持ちから生まれたのだろう、と。*6

ビル・エヴァンズの練習

 理詰めの練習を重ねて重ねて、完璧な形を追求した。 (209頁)

 ビル・エヴァンズ*7の話である。

 エヴァンズは、2小節のために一時間近くも練習をしたらしい。

 そして、エヴァンズは、同じ小節を無数のパターンを吟味し、アドリブの際は、瞬間的にその場に最もあうものを選んでいたようだ。

 彼の場合、頭の中で完全にアレンジはできていた。*8
 しかし、それを楽譜には書かなかった。
 ゆえに、アイデアは柔らかく、フレキシブルなまま、どんどんアドリブを発展させることができたのである。

ジャズマンの記憶力と予測力

 ジャズの真のチャレンジは、弾きながら本当に聴いていることだ (49頁)

 著者の一人・ストレンジの大学時代の師(ヴィンス・マッジョ)の言葉である。
 自分が弾いたことをきちんと覚えている記憶力こそがジャズにおいては重要というのだ。
 チャーリー・パーカーはさらに、何十小節も先まで見通しながらアドリブをやったのではないか、と述べられている。
 ジャズマンは記憶力と予測力がないと、やっていけないのだ。*9

モード奏法の意義

 ハーモニー進行を制止させることで、4度とか7度のような音程を自由に使うことができるようになります。 (104頁)

 マイルズ*10はハーモニー進行を停止して、一つのハーモニーの可能性を組みつくそうとした。

 それが、モード奏法の意義だという。

 また、コード奏法だと、3度や5度などしか使えず、音程的な自由さに欠ける。*11

 

(未完)

*1:ブログ・「デューク・アドリブ帖」によると、

ベースとドラムが参加しているのではないかと思わせるほどリズミカルな左手の動きが素晴らしく、アニタ・オデイは「You're the Top」で、素晴らしいものの一つに「Tatum's left hand」と歌詞をアドリブしていた。

とのことである(https://blog.goo.ne.jp/duke-adlib-note/e/107305d096f7764bcb5ba5d1c87a2d5b )。
 その歌詞は、http://www.kget.jp/lyric/242847/You%27re+The+Top_Anita+O%27day を参照。

*2:ところで、アニタの「You're the Top」)の中に出てくる”the Miner's Gong”が何なのか気になっているのだが、英語話者にとってもこれは見当がつかないようで、掲示板で質問している人がいた(以下、http://www.organissimo.org/forum/index.php?/topic/77149-anita-odays-youre-the-top-lyrics/ )。

 以上、この註について、2022/4/10に加筆した。

*3:以前、自身のブログにおいて、次のように書いたことがある(http://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20150823/1440284732 )。

佐藤は「音階」を中立レベルに無条件に含んだことによって、サウンドやビート、声などの(略)音楽的諸要素を軽視する結果となった (92頁)/詳細は註で挙げた論文に書いてある。小泉や佐藤などの「専門家」は、自分たちだけが聞き取れる規範譜の「音階」を特権視している。しかし、「素人」は、音階よりも別の要素を気にしているのである。それを忘れてはならない、という話である。

その際は、「音階」の話をしたが、それは「和音」においても一緒である。

*4:副島輝人は、次のように、フリージャズを例示(あるいは分類)している(以下、渡邊未帆「日本のモダンジャズ、現代音楽、フリージャズの接点」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005612552 からの孫引きに依る。出典は、副島『日本フリージャズ史』である。)。

(1) アタマ(始まり)とエンディング(終り)だけにテーマとなるメロディがあり、中の部分はフリー・フォーム。と言っても、メロディ楽器奏者はキーを意識してインプロヴィゼーションをする場合と、全くそうでない場合もある。つまり曲という器があって、中身は自由ということだ。山下洋輔トリオや沖至グループの演奏に多く聴かれる。 (2) 曲がなく、トーナル・センターとしての一音、または複数音だけを決めて演奏する。ひと頃の富樫グループが、時々この方法を用いた。 (3)完全フリー・フォームとして、任意に出した最初の一音に反応して、全く自由に演奏を重ねていく。但し、内的リズムや音列を抽象的に利用したり、それを打ち切って別の方向にもっていったりする場合もある。例えば、佐藤允彦のソロ・ピアノや、高柳昌行ニュー・ディレクションの演奏などはこれに近い。 (4)オートマティズムのように、自分の内的精神状況を音に託して表現する。阿部薫のソロなどは、こうした方法によるものと言えようが、無意識のうちに音階が出来てくると、突然よくしられたメロディとなって一瞬表に現れることがある。

テーマとなるメロディはせめて残しておくもの、中心音はせめて決めておくもの、殆どアドリブとしか言いようのないものなど、さまざまである。

*5:後藤雅洋は、次のように書いている(「ジョン・コルトレーン|ジャズの究極を追い続けた求道者【ジャズの巨人】第3巻より」https://serai.jp/hobby/22869 )。

あえてコルトレーンは高い倍音成分を含ませた音色でテナー・サックスを吹いているのです。これは目立つ。大型なのでパワー感のあるテナーから、若干無理気味に搾り出す高域に偏った音色のフレーズは、まさに〝コルトレーン印〟付きのサウンドなのです。ちなみにそうしたコルトレーンの高音好みは、やがてアルト・サックスよりも高い音域のソプラノ・サックスへの持ち替えに繋がっていきます。

*6:ファラオ・サンダースは、インタビューに次のように答えているという(渕野繁雄の手になる和訳http://home.att.ne.jp/gold/moon/music/report-menu/report3.htmlより引用。 )。

けれども、ジョンは我々よりも進んでいました。彼がそのごつごつした音を得るためにマウスピースとリードの組合わせにしたことを、私は理解しようとしました。/あらゆる種類のマウスピースでの演奏を聴きました。 バンドスタンドで聴く彼の音はサクソホン音ではないようにも思われました。 すべての音がむしろパーソナルな声のようでした。 彼の演奏は何でも内側から起るようでした。

原典は、『ダウンビートマガジン』の2005年3月号(https://shopdownbeat.com/product/march-2005/ )であるようだ。

*7:本書ではこの表記なので、これで通す。

*8:中山康樹は、エヴァンスは練習において、古い曲から新しいアイデアを得ることに大半の時間を費やしており、曲の「アレンジ」に主眼が置かれていたとする(中山『ビル・エヴァンス名盤物語』音楽出版社、2005年、169頁)。

*9:なお、彼のパートナーだったチャン・パーカーは

いま思うに、どうやって知るのかしら?そう、持ってたのね彼は、彼は写真的な記憶力を持っていたとしか言えないわ。聞いたこと全てを保持したので、どんな場にも適応できたの。

と回想している(ウェブページ「チャーリー・パーカー・コレクション」掲載のインタビューhttp://birdparkerslegacy.com/chanparkerint/chanparkerint.html より。「場所:フランス 日時:1998年5月」)。興味深い。

*10:本書では「マイルズ・デイヴィス」という表記なので、それに従う。

*11:島村健は、

モード奏法=モーダル・アプローチでは先ほどのビバップ的な「IIm-V7」の展開を敢えてしないことにより、コード進行に縛られず、1つのトニック(主音)に対して7種類の「モード・スケール (引用者中略) 」に基づき、適宜そこから選んだスケールでソロを取るという手法が中心になります。

と述べている(「モーダル・ブルースについての補足解説」https://j-flow.net/wp-content/uploads/2017/12/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E7%AC%AC3%E7%A8%BF.pdf )。

 以上、2022/4/10に、この註について表現を一部改めた。

ちゃんと日本政府に対して、憲法の「再検討」をしてよいと指示していたのに -古関彰一 『平和憲法の深層』を読む-

 古関彰一 『平和憲法の深層』を読んだ。(再読)

平和憲法の深層 (ちくま新書)

平和憲法の深層 (ちくま新書)

  • 作者:古関 彰一
  • 発売日: 2015/04/06
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

改憲・護憲の谷間で、憲法第九条の基本的な文献である議事録は、驚くべきことにこの七〇年間ほとんど紹介されてこなかった。「戦争の放棄」と「平和憲法」は、直接には関係がないし、それをつくったのは、マッカーサーでも幣原首相でもなかった。その単純でない経過を初めて解き明かす。また「憲法GHQの押し付け」と言われるが実際はどうだったか。「日本は平和国家」といつから言われてきたのか。「敗戦」を「終戦」に、「占領軍」を「進駐軍」と言い換えたのは誰が何のためだったか…などについて、日本国憲法誕生の経過を再現し、今日に至る根本的重大問題を再検討する。

という内容。
 現在の憲法を語るうえでは、やはり古関彰一を読まざるを得ない。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

皇族が「戸籍」に入っていた時

 皇族は戸籍に入っていた (46頁)

 維新後最初の戸籍、壬申戸籍の場合、皇族、華族、士族など身分で集計していた。
 その後、1898年の民法に「家」制度が導入される。
 同年、それを基本とした戸籍法に改正され、戸籍法は「家・戸主」中心にかわった。
 つまり、壬申戸籍の場合、皇族も「戸籍」の範囲内にあったのである。*2
 壬申戸籍については、以前言及したことがある。

日本国憲法と、語られなかった沖縄

 「沖縄の民」についてはなにひとつ語っていない (119頁)

 当時の憲法学者宮沢俊義政治学者の南原繁は、「国民」については多くを語った。

 しかし沖縄は、その論の「外」として存在していた。*3 *4

政府側の重大な落ち度

 政府側は研究会から少なくとも事情を聴取すべきであった (207頁)

 政府側の委員会と憲法研究会*5
 とは、改正案について協議が可能だったはずである。
 政府案より先に憲法研究会案が先に公表されてもいたのである。
 にもかかわらず、政府側は、なにもしてない。
 GHQに「押し付け」られた背景として、著者は説明している。
 政府側の重大な落ち度であろう。

再検討していいって言ったのに

 日本政府は、再検討をしたいとする (230頁)

 日本国憲法明治憲法の手続きを採用して「改正」として成立している。
 だから、手続き上は、問題は見られない。
 また、憲法施行後にマッカーサーと極東委員会は、政府に対して憲法の「再検討」をしてよいと指示していたのである。
 だがしかし、日本側は遂にそれを行わなかったのである。*6

 

(未完)

*1:ところで、幣原発案説否定論については、著者・古関もこれを採用しているが、中野昌宏のいうように、その中身はやはり根拠がいくぶん弱いように思われる(「日本国憲法の思想とその淵源 : 憲法研究会の「人権」と幣原喜重郎の「平和」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005744628、119頁)。中野は最終的に、穏当な説として「日米合作」説を採っているが、確かに、この線が妥当であるように思われる。

*2:その後、また、今現在でも、天皇及び皇族は戸籍法の適用を受けなくなり、皇統譜に記載される仕組みとなっている。
 丸山寿典は次のように述べている(「宮内公文書館について」http://www.archives.go.jp/publication/archives/no052/1750 )。

天皇陛下や皇族方の戸籍に当たるものが皇統譜です。皇統譜には今上陛下に至るまでの歴代天皇や皇族方の御父・御母の氏名、御誕生・御成婚・御即位・崩御薨去の日時等が登録されています。皇統譜は大正15年に皇統譜令が施行された後に更新されており、更新される前の古い皇統譜皇統譜に記載されている各事項の登録に関する書類が当館に所蔵されています。

*3:そうした事実は、

沖縄では、1972 年に本土復帰を果たす以前の 1965 年に、当時の琉球立法院の全会一致による決議によって、5 月 3 日を住民の祝日とした経緯がある。その意味において、沖縄にとって憲法は、県民の総意で自ら積極的に選んだものである (「『日本国憲法の制定過程』に関する資料」(衆憲資90号 平成28年11月)http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi.htm )

といった事柄では到底拭い切れない事実であろう。

*4:これに対して、矢内原忠雄の場合は、良くも悪くも、沖縄に対して関わりが大きい。それがどのようなものであったかについては、櫻澤誠「矢内原忠雄の沖縄訪問-講演における問題構成とその受容にていて-」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_085.html を参照。

*5:しんぶん赤旗」は、

この案が新聞に発表された3日後の12月31日には参謀二部(G2)所属の翻訳通訳部の手で早くも翻訳がつくられ、翌年1月11日付でラウエル中佐が詳細な「所見」を起草、これにホイットニー民政局長も署名しています。「所見」は各条文を分析したあと、「この憲法草案中に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と高く評価し、加えるべき条項として憲法最高法規性、人身の自由規定、なかでも被告人の人権保障などをあげていました。

と、憲法研究会の「憲法草案要綱」について述べている(「現憲法の“手本”となった民間の「憲法草案要綱」とは?」https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-27/2005072712faq_0.html )。この記事では、著者・古関の『新憲法の誕生』等が参照されている。

*6:もちろん、古関自身が言うように、「極東委員会が 1946 年 10 月に決定した憲法再検討の機会をマッカーサーは積極的には日本政府に伝えなかった」。しかし、

吉田首相は憲法改正の意思を持っていない旨答弁しているので「押しつけ」の立場をとっていないといえる。


 (以上、衆議院憲法調査会事務局「日本国憲法の制定経緯等に関する参考人の発言の要点」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11343069 に依拠した。)

 実際のところ、

マッカーサーは、1947(昭和22)年1月3日付け吉田首相宛書簡で、連合国は、必要であれば憲法の改正も含め、憲法を国会と日本国民の再検討に委ねる決定をした旨通知している。これに対する吉田の返信(同月6日付)は、「手紙拝受、内容を心に留めました」というだけの短いものであった

という感じである(国立国会図書館編「新憲法の再検討をめぐる極東委員会の動き」(『日本国憲法の誕生』)https://www.ndl.go.jp/constitution/index.html )。
 また、当時の憲法再検討問題に対する新聞紙上の反応は、およそ、「現時点での憲法改正には慎重ないし反対」というものだった。この点については、梶居佳広の論文・「新憲法制定と新聞論説─近畿地方を中心に─」(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_090.html )を参照。

『ザ・タイガース』入門なら、まずこの本を読めば大丈夫そうだな。 -磯前順一『ザ・タイガース 世界は僕らを待っていた』を読む-

 磯前順一『ザ・タイガース 世界は僕らを待っていた』を読んだ*1。 

 内容は紹介文の通り、

ザ・タイガースは1960年代後半の音楽ブーム「グループ・サウンズ(GS)」を牽引したトップグループ。本書は、ジュリーこと沢田研二をはじめとしたメンバー達の上京からグループ解散までの約五年にわたる全軌跡を、膨大な資料を駆使し活写する。ザ・タイガースの想い、苦悩、そしてあの時代がよみがえる、渾身の一冊。

というもの。
 宗教学者による、異色の(?)ザ・タイガース論である。*2
 出た当時、評判が良かったように記憶している。
 『ザ・タイガース』入門として、ぜひどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

ザ・タイガースの名付け親

 京都から上京したばかりの無名の若者たちが異論を唱えることは到底無理であった。 (60頁)

 ザ・タイガースと名付けたのは、すぎやまこういちである。*3
 あの内田裕也でさえ、反論できなかった。

 当時、すぎやまは、1965年にフジを退社して、日本初のフリーディレクターとして『ザ・ヒットパレード』の番組制作を担当していた。*4

 東大出身で絶対的な権限をもつ番組プロデューサーだったのである。

演奏のグルーヴ

 メチャクチャ下手でしたね(笑) (95頁)

 橋本淳のザ・タイガースの演奏に関する評価である。
 ただ、橋本の言う上手い下手は、どんな基準か。
 それは、ブルー・コメッツのような、メンバー全員が同じテンポで狂いなくリズムを刻むことができ、他の歌手のバックバンドが務められるようなグループを上手い、とする基準である。*5
 遅れたり進んだり、各楽器のリズムにずれが生まれることでグルーブが生まれる事実を、クラシック音楽を基準とする橋本やすぎやまは、理解できなかったのだ、と著者は述べる。

演奏は誰がやった?

 タイガースは沢田のヴォーカルと、メンバーのコーラスを吹き込むだけになった。 (99頁)

 スタジオ・ミュージシャンによって演奏されるタイガースのシングルは、少なくとも、「モナリザのほほえみ」から「銀河のロマンス/花の首飾り」まで続いたという。*6

・GSイチのコーラスの音域

 僕らはサリーの低音から、かつみの高音まですごい幅があって、これは貴重なもんですよ。 (116頁)

 沢田(ジュリー)の言葉である。

 沢田はセカンドテナー、加橋はテノール、岸部(サリー)は本格的なバスを担当した。*7
 加橋と岸部は『君だけに愛を』で、輪唱して歌っている。

 この音域の広さは、スパイダースもブルー・コメッツも出来ていなかったという。

 真ん中の音をやるタローが一番難しかっただろう、と沢田はコメントしている。*8

 

(未完)

*1:厳密に言うと再読。

*2:著者はザ・タイガースの大ファンである。念のため。

*3:サリー(岸部一徳)は2018年2月のスポーツニッポン紙のコラム「我が道」で、次のように回想しているようだ。

上京してまもなく、フジテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」に出演することになった。作曲家のすぎやまこういちさんがファニーズと名乗っていた僕たちに「グループの名前は、ザ・タイガースがいいんじゃない?」と提案した。

以上は、ウェブページ・『Julie's World』の記事(http://julies.world.coocan.jp/wagamiti.html )から引用した。
 基本的なこととはいえ、念のため、引用した次第である。

*4:すぎやまは、音楽をテレビ的に見せるために、カメラマンを含むスタッフにも楽譜が読めることを要求した。歌詞やメロディーに合わせて、カット割りを決めるという演出法に対応するためであったという(橋本淳の証言に依拠)。以上、太田省一「視るものとしての歌謡曲 七〇年代歌番組という空間」(長谷正人編『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』(青弓社、2007年)、59頁)に依った。じつにプロフェッショナルである。

*5:「楽器間の演奏タイミングの微少な時間差がグルーヴ(音楽に合わせて体を動かしたくなる感覚)を喚起する」という説の実証を試みた論文が日本にも存在している。
 その論文、松下戦具,野村真吾「楽器間の時間差がグルーヴを喚起する効果の心理物理学的検討」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130005481007 )によると、グルーヴは、「人が知覚できる最小の時間差」であり、「潜在・顕在の境界付近の時差で発生」するという。認識できるかできないかぎりぎりの差なのである。

*6:ファンの間でも、スタジオミュージシャンの存在は疑われていない(以下順に、ブログ・「花風林」の記事http://hanahuurin.blog62.fc2.com/blog-entry-73.html、及び、ブログ・「夢の岩」の記事http://blog.livedoor.jp/yopparaishibuya/archives/65403064.html より引用。)。

バンド演奏とは言え、こんなにきっちり正確な演奏はタイガースのメンバーが出来るはずがなく、スタジオミュージシャンの演奏ですが、良い演奏ですね。

確かにタイガースの初期シングルはスタジオミュージシャンの演奏によるものが多い。

*7:ザ・タイガースの武器の一つがコーラスの音域だった点は、すぎやまこういちも指摘している(瞳みのる(ピー)のウェブページより、読売新聞2013年10月4日付の記事「タイガース 完全復活への道」(https://www.hitomiminoru.com/img/pickup/13/131004yomiuri_01.pdf )を参照)。

*8:タローはバリトン、ということになるだろうか。

 なお、沢田のコメントの出典は、2008年のNHK FMの「今日は一日ジュリー三昧」と本書にある。

共産主義のソ連と金融資本主義のイギリスが中国の抗日をあやつっている、という矛盾した見方を、当時の軍人は抱いていた -戸部良一『日本陸軍と中国』を読む-

 戸部良一日本陸軍と中国』を読んだ。

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

  • 作者:戸部 良一
  • 発売日: 1999/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り

陸軍「支那通」──中国スペシャリストとして、戦前の対中外交をリードした男たち。革命に共感をよせ、日中提携を夢見た彼らがなぜ、泥沼の日中戦争を用意してしまったのか。代表的支那通、佐々木到一たちの思想と行動をたどり、我が国対中政策失敗の原因を探る。

というもの。

 勝手に期待して勝手に裏切られたと逆恨みしている、そんな感じの人たちが出てきます(私的まとめ)。

 以下、特に面白かったところだけ。

独り善がりの「東亜保全論」

 小澤は、中国人には事を挙げる勇気がないので日本人が先に立って実行しなければならぬ、と答えたという。 (26頁)

 革命は中国人が主体となって行うべきであって、日本人はそれを援助するのが本筋、という言葉への支那通・小澤開作*1、ではなくて、支那通・小沢豁郎の答えである。
 ここに、のちの支那通の大半に共通する独特のロマンティシズム、やや独り善がりの「東亜保全論」が表れている。*2

勝手に期待、勝手に失望

 中国人に近代国家建設の能力が欠けているという認識は、支那通軍人に共通していた。 (137頁)

 佐々木到一ら新支那通も、当初は国民党による近代的統一国家建設への期待を寄せていた。*3
 しかし、結局は国民党も国民革命の理念を忘れて堕落し、「中国の民族性」を「改変」することなどできないと結論した。
 ここにあるのは、他者に投影された、固定的な「民族性」である。
 そして、勝手に期待して勝手に失望している。

冀東政権による密貿易の黙認

 華北で発生した事態のなかで最も重大だったのは、特殊貿易と呼ばれた密貿易であったかもしれない。 (192頁)

 非戦区域が出来た頃から、満洲から渤海湾沿岸に不法の密貿易があった。
 冀東政権は、これを半ば公認し、関税を国民政府の四分の一にした。*4
 大量の日本商品が華北から長江沿岸に洪水のように流れていく。
 すると当然、中国経済には打撃となる。
 こうした事態に対して、国民政府の対日政策は抵抗へとシフトし始める。
 華北での日本軍の強引な行動が国民政府内の親日派を凋落させていった。

永津佐比重は諦めた

 支那課長の永津も、日本の政策の根本的転換を検討したという。 (196頁)

 永津佐比重の回想によれば、彼は西安事件後に、租界、居留地治外法権、軍隊駐屯権(満洲以外)等の権益を放棄することが、日本の行くべき道だと考えた。*5
 そうすれば、蒋介石満州国不問のまま日中友好に転じると考えた。
 しかし最終的に、それは無理だと結論した。
 陸海軍も、居留地も、紡績業を代表とする現地企業も、国内世論も、既得権益を放棄する政策転換を支持するとは思えなかったからである。

共産主義国家と金融資本主義国家、奇跡のコラボ

 共産主義ソ連と金融資本主義のイギリスが中国の抗日をあやつっている、という一見イデオロギー的に矛盾した見方は、支那通のみならず当時の軍人一般に共通する支那事変観であった。 (201、202頁)

 なんということでしょう。
 ワンダフル・ワールドである。*6

 

(未完)

*1:苗字を見てわかるように、息子と孫が音楽家である。
 ところで、こちらの小澤は、ロバート・ケネディに進言したエピソードで知られているが、清水亮太郎は、

同政権 (引用者注:ケネディ政権) は農村における経済・技術支援、灌漑、道路建設などの対策を採りながら充分な成果を得られなかったとされることから、小澤の提言が有用であったのかは疑問である。

としている(「満洲統治機構における宣伝・宣撫工作」https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I025573022-00 )。

*2:小沢豁郎 (天游) は、著書『碧蹄蹂躪記』の「清人愛国心」の項目で、清人愛国心が乏しい故に無気力である、と述べている。この本はデジコレで閲覧が可能である。

*3:張聖東は次のように述べている(「日本人軍事顧問の初期「満洲国軍」に対する認識と整備構想 : 佐々木到一を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006780861 )。

満洲国軍の掌握・整備に即して言えば,佐々木は,真の国軍化を追求することが不可能であることをよく理解しており.満洲国軍を掌握・整備するには.やはり,自分がかつて打破すべきだと思っていた「奇怪至極なる支那軍統制の真諦」.すなわち「権謀的ノ統帥」に頼るしかないという皮肉な結果になった。戸部が描いたややセンチメンタルな佐々木像の裏側には.冷徹で狡檜な佐々木像もあるのではないだろうか。

佐々木到一に対する見方として重要と考えたので、ここに引用した次第である。
 まあ、そこまでナイーブな人間でもなかったのは、確かであろう。

*4: 広中一成は次のように書いている(「冀東政権の財政と阿片専売制度」https://researchmap.jp/read0147469/published_papers/1764283 )。

政権発足直後から深刻な財政難に見舞われた冀東政権は,その状況を打開するため,1936 年になると,新たな税目を設けて住民らに課す一方,それまで渤海湾沿岸で横行していた密貿易を「冀東特殊貿易」(冀東密貿易)として公認し,「査験料」と称して密輸業者から輸入税を徴収した

参照されているのは、島田俊彦の論文・「華北工作と国交調整(一九三三年~一九三七年)」である。
 この貿易の存在は既に当時知られており、福良俊之は、「時事新報」に、

十一月に成立した冀東政府は此の点に着眼して本年三月蜜貿易取締の為め (引用者中略) 十五日には輸入税率を国民政府の一律四分一と改訂 (引用者中略) 運送料を設定し揚陸の便宜を与えると共に密輸の取締りを厳重にした、茲に於いて従来行われていた密輸は冀東区域を通過する限りに於いては国民政府の四分一の税を納付することにより合法化された、所謂特殊貿易之れである

と書いている(「南北経済線を行く」http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10001881&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 )。

*5:橋本龍伍の回想によると、

「陸軍の代表課員は秀才と言われた某中佐だつたが,「自分は永津大佐の下に参謀本部支那課員だつたが,昭和十一年の秋頃から支那と戦わざるべからずという意見を固めた.翌十二年の春,対支関係に関する会議の席上,必戦論を主張したら,永津大佐はそういう考えは国を危くすると飽くまで反対で,お前のような考えの者が自分の部下にいるのはなさけないと言つて泣いた」ということを,永津氏に対する軽蔑の表情をもつて得意そうに語つた」

ということである。また、 

軍服を脱いだ永津中将は,京都の魚市場で,魚の箱を修理して一箱五十銭の工賃で黙黙と働いていた

ということだそうだ。以上、「数学史研究者(木村洋)」氏のツイートに依拠した(https://twitter.com/redqueenbee1/status/1132998750731767809 )。出典は、「橋本龍伍:敗戦を予言した軍人,日本週報.,383,(1956.10),pp.31‐33」とのことである。

*6:戸部は、講演で次のように述べている(「日本人は日中戦争をどのように見ていたのか」https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000146806.pdf )。

後に満州建国大学の教授になる中山優は、 (引用者中略) 中国のナショナリズムや統一の動きに肯定的だった人ですけれども、そのナショナリズムがイギリス資本を基盤とし、コミンテルンに踊らされているという点を批判することになります。/イギリス資本主義と、コミンテルンソ連共産主義が中国のナショナリズムや抗日政策を支えている、あるいはそれを促しているという見方が中山の議論には含まれていますが、こうした議論もその後、何度も多くの人によって繰り返されます。つまり、日中戦争の初期の段階で論調のかなりの部分は出尽くしていると言っても言い過ぎではないと思います

中山の議論は1937年のものである。軍人だけではなかったのである。
 さらに、玉井清は次のように書いている(「日中戦争下の反英論 天津租界封鎖問題と新聞論調」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000333873 )。

神川は、我国を取り巻く極束情勢をして、第一に日本を推進力とする東亜新秩序建設、第二にこれに対立する旧秩序勢力、その中には英仏を中心とする国際連盟秩序と米を中心とするワシントン体制、第三にソ連コミンテルンを中心とする共産戦線があり、その三つ巴である。わが国は第二第三勢力と対抗し第一の使命を具体化しているが、老檜英の巧妙な外交技術により本質的には相容れないはずの第二と第三の勢力が提携する情勢が生まれてきている、としていた。

当時を代表するであろう国際政治学者・神川彦松の説明(1939年時点)がこれである。なんということでしょう。

外国人に、素朴な丸太小屋風の藁で覆われた小屋みたいに言われていた伊勢神宮。 -井上章一『伊勢神宮』を読む-

 井上章一伊勢神宮』を読んだ。

伊勢神宮 魅惑の日本建築

伊勢神宮 魅惑の日本建築

  • 作者:井上 章一
  • 発売日: 2009/05/15
  • メディア: 単行本
 

 内容は、紹介文の通り、

神宮はいかにして日本美の象徴となったのか 明治初年、「茅葺きの納屋」とされた伊勢は、20世紀に入り「日本のパルテノン」として世界的評価を受ける。民族意識モダニズム、建築進化論の交錯を読解する

というもの。
 伊勢神宮の言説史を追う上では、読まれるべき内容。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

外国人にがっかりされていた神宮

 これについてはたいていの外国人が、おとしめてきた。 (151頁)

 戦前において、タウトは外国人の中で比較的珍しく神宮を褒めた人物である。
 というのも、当時、たいていの外国人に、素朴な丸太小屋風の藁で覆われた小屋みたいに言われていたのだから。

 アーネスト・サトウも、がっかりしたという。 (154頁)

 明治初年に日本へ来た欧米人は神宮の粗末な作りにあきれていた。
 サトウは、その様はあまりにも簡素で弱々しい、と書いている。*2

美化された神宮

 日本のモダンデザインじたいに、せまい民族主義があったというしかない (201頁)

 伊勢神宮の好奇な意匠をモダンデザインと重ね合わせた、太田博太郎の話である。
 彼の議論は「狭い」民族主義的議論に陥ったが、当人に自覚はなかっただろう、と著者はいう。*3
 彼自身はむしろ進歩的なことを書いている、と思っていただろう、と。
 なお、そんな太田でさえも、きれいな茅を選別して一本一本並べている様を、工芸品のようだと批判し、こうした上等の材料を用いたのは明治以降にすぎず、これは「明治全体主義政権の一つの具体的表現」(368頁)だと述べている。

 今日の神宮は、たいへん高級な檜材をつかっている。 (206頁)

 節目の無い四方柾の檜である。
 しかも建て替えには当代一流の名匠が関わる。
 現代の神宮は手の込んだ工芸品のようになっている。
 だが、江戸期にはそこまでの仕事はされていなかった。
 使われる木材も節目のあるもの。
 ずっと安上がりに、しあげられていたはずだという。

「モダン」な感じに「修正」。

 そこではモダンデザインへよりそった加工が、ほどこされた。 (366頁)

 20世紀の話である。
 角南隆は、神宮の創建当初は金具などなかったが、それが天武天皇以降多くなった、と主張した。*4
 そこで、金具を、福山敏男らに同意を得て、二、三割減らしたのである。
 こうして、「シナ」風の装飾や東照宮に向こうを張ったという装飾は、削られた。
 神宮の荘厳さを増すためにである。
 その処置を谷口吉郎堀口捨己らは喜んでいる。
 前のものをそのまま作り直すと伊勢神宮についてよくいわれるが、実際は、かならずしもそうはなっていない。
 それを示す一例である。*5

神宮に法隆寺の影

 福山敏男は、神宮に法隆寺の影を読みとっている。 (307頁)

 神宮の妻飾りに、法隆寺金堂のそれがとりいれられていることを、福山は突き止めた。
 神宮には、大陸的な仏教建築の感化が、及んでいたのだという。*6

そんなにきれいな訳もない

 伊藤延男がためらいをしめしている。 (367頁)

 今の神宮は鉋できれいに仕上げている。
 しかし、古くは槍鉋を用いていたから、表面はもっと凸凹していたはずである。*7
 伊藤は、伊勢神宮のきれいな仕上げを、無条件に古代と結び付ければ誤る、というのである。

時代遅れのものをあえて選んだ?

 棟持柱のある高床という形式は、その古さが買われて、えらばれた。 (441頁)

 古臭いからこそ、当時の日本の国に気に入られたのではないかと著者はいう。*8
 7世紀末あたりかどうかは不明だが、9世紀にはこの時代遅れの形式で神宮が建てられたのだろう、と。
 あえて、古いものを選択的に選んだとして、当時の日本側の意志を見るのである。

 

(未完)

*1:ところで、近年の中で、読んで面白かった伊勢神宮関連の論文は、数元彬東大寺僧徒が見た中世の伊勢神宮」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005972268 )かと思う。本論とは直接関連はしないが、ぜひご一読を。

*2:鈴木英明は、アーネスト・サトウ神道観について、次のように述べている(「日本の国際化を考える : 江戸から東京へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006304542 )。

1874(明治7)年2 月、日本アジア協会(72 年7 月設立、英米系の日本研究団体)で外交官サトウが「伊勢神宮」と題して発表した。 (引用者中略) サトウは、「神道には道徳律がないというヘップバーン(ヘボン)氏の意見に同感である。……」。 (引用者中略) 彼ら欧米人の神道理解は、チェンバレンの解説と変わりはなく、神道は宗教でないというものであった。

当時の神道の扱われ方が、そもそもこのような感じである。

*3:太田博太郎は、『法隆寺建築』(1949年)で、法隆寺の中にもモダニズム風の簡素美を読み取っている。そしてそれらは「日本的意匠」であり、「日本人の感覚」であって、「支那」的でも、ギリシアやインドからの伝播という仮説に対しても消極的である。(以上、著者井上の「法隆寺の「発見」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000901638(179頁)を参照・引用した。)

*4:もちろん、根拠は薄弱である。

*5:稲賀繁美は、次のように述べている(「古寂びを帯びる《束の間》フランスから見る伊勢神宮(その2):『日本の美学:時の働き――痕跡と断片』ミュリエル・ラディックの著書をめぐる公開円卓会議より」https://inagashigemi.jpn.org/achivements/serials/aida/ )。

近世に至るまで、造替にはきちんとした図面などなく、禰宜と宮大工との口頭の協議で、細部の意匠、装飾品の選択、建造物の配置が変更されることもあった様子である。

参照されているのは、福山敏男『神社建築の研究』である。
 これは、あくまでも近世以前の話であり、井上著でも言及されている事柄である。「改変」は近代だけでなかったことを示すため、一応引用しておく次第である。

*6:伊藤行は、「神宮正殿の妻の形式が,法隆寺金堂の当初のそれに大体に於いて一致することは注意すべきである」と述べている(「伊勢神宮の研究1」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002835396 )。参照されているのは、福山の論文「神宮正殿の成立の問題」である。こうした福山の見解に対しては、後の時代においても比較的肯定的に受け止められている(例えば田村圓澄『伊勢神宮の成立』(吉川弘文館、2009年)213頁)。

*7:槍鉋を使用した場合の削り跡は、こちらのページhttps://www.konarahouse.jp/blog/archives/2689 を参照。

*8:著者井上自身も次のように述べている(鼎談(井上章一安藤礼二青井哲人)「伊勢神宮を語ること、その可能性と不可能性──式年遷宮を機に」http://10plus1.jp/monthly/2014/03/issue01.php )。

こんなに古いものをなぜ伊勢神宮は引きずって再編したのかということが問われるべきですね。8世紀は中国からの文物が届き、中国風の建物が並び出している頃ですが、わざわざ伊勢の奥の方にこういった古めかしいものをこしらえたということです。

長髪ルックは、ウッドストックでもまだ15パーセント程度しか普及していなかった -サエキけんぞう『ロックとメディア社会』を読む-

 サエキけんぞう『ロックとメディア社会』を読んだ(本当は再読)。 

ロックとメディア社会

ロックとメディア社会

 

 内容は、紹介文の通り、

エルヴィス・プレスリーの衝撃的なメジャーデビューから半世紀、ロックはテレビ、ヴィデオ、ネットといったメディアの進展とともに世界中の若者に浸透し、かつメディアの拡大を支えてきた。/深くつながるロックとメディアの進化! そこに「社会」を読む。

というもの。
 音楽家である著者の手になる本書だが、音楽論というより、音楽を通じた社会学っぽい感じである。
 以下、特に面白かったところだけ。

長髪ルックが少数派だったウッドストック

 長髪ルックは、ウッドストックでもまだ一五パーセント程度しか普及していない (80頁)

 映画『ウッドストックがやってくる!』の映画パンフに依拠している。*1
 記録映画『ウッドストック』は、長髪男性をマークして映し込んだらしい。
 実際のウッドストックの会場では、八五パーセントの男性が、頭髪が短く目立たない服装の普通の人だったようだ。
 その後、一九七三年のワトキンズ・グレン・サマー・ジャムなどの映像では、間違いなく長髪だらけの人ばかりとなっている。
 この時点では、既に実態的に、長髪の男性が多く駆け付けていたのだろう。

ライブハウスの歴史と「総立ち」

 このマナーが定着したのも、パンク・ムーブメントがもたらした (128頁)

 客が「総立ち」で客が熱狂する光景について。
 ロックのライブで総立ちが常態化するのは、ライブハウスの登場が原因だという。*2 *3

ディスコと階級

 こうしたヒエラルキーの存在がディスコの特徴 (164頁)

 ディスコは階級別に存在していた。

 著者は、ニューヨークにあったディスコ・「スタジオ54」(およびそれをモデルにした映画『54 フィフティ★フォー』)を念頭に、そのように述べている。

 どのディスコにも特別席であるVIPルームがあったのが、その象徴だという。
 これが、ディスコののちに発展する、「クラブ」(ハウスやテクノ)との違いだとしている。*4

 もちろん、こうした見方に対して、反論は可能であろうが。*5

バンドブームの「遺産」

 バンド・ブームも急激な衰退ではあっても、さすがにGSとは違って跡形もなくかき消されるというほどではなかった。 (242頁)

 バンド・ブーム(1980年代後半期)の功績とは何だったのか。
 それは、全国にライブハウスと楽器屋の数を増やし*6、中学や高校にバンドを公認化させ、ライブの総立ちを当たり前にしたことである。

 音楽のインフラ作りに貢献したのである。

 

(未完)

*1:ウッドストックの熱狂と精神を今に伝え、変わりゆく人々を描く一大プロジェクトの始まり」という題の、映画『ウッドストックがやってくる!』の紹介記事には次のようにある(http://intro.ne.jp/contents/2010/12/18_1939.html )。

シェイマスが打ち明ける。「ウッドストックに向かった人たち全員が、長髪に揉みあげでマリファナを吸っているヒッピーだったわけではないんだ。一般的にはそういう写真が一番多く出回っているけどね」。そう考えたスタッフはさらなる数値化を試み、各地のイベントを渡り歩くヒッピーたちが一番最初に会場にたどり着き、ロングヘアを含む大学生がそれに続いて、そして残りの85%は高校生など髪も短く目立たない服装のごく“普通”の人々だったという結果を割り出した。

ここでいう、シェイマスとは、ジェームズ・シェイマスのことで、映画『ウッドストックがやってくる!』のプロデューサー兼脚本家である。

*2:兵庫慎司によると、ライブハウスにおけるテーブルとイスの有無の関係は、次のようになる(「ライブハウスには昔、テーブルとイスが当たり前にあったーー兵庫慎司が振り返るバンドと客の30年」https://realsound.jp/2015/06/post-3397.html 
。以下、引用と参照は、この記事に依る。)。

 まず、ライブハウスでテーブルとイスが出ているところは、地方を中心に(そして現在も)ある。一方、東京だと、「狭いからテーブルとイスなんか置いてたら採算が合わない」こともあってか、基本オールスタンディングである。

 関西(の都市圏)だと、「テーブルとイス」「イス」「スタンディング」の3パターンがあり、「普段はテーブルとイス、人気あるバンドの時はイスだけ、もっと人気ある時はオールスタンディング」である。また、パンク系でも、「大阪の西成にあったエッグプラント」は「作りつけみたいなイス席」がある。これが、筆者(兵庫)が関西圏に引っ越した1987年以降に目撃した情報である。
 そして、兵庫は、「なぜそれまではなるべくテーブルとイスを置きたがったのか」という方向で考え」て、

オールスタンディング=危険、と思われていたからです。たとえば観客が将棋倒しになって3人が亡くなったラフィン・ノーズ日比谷野外音楽堂(1987年)。野音だったからイス席だったのに、一部の観客が自席を離れてステージ前に押し寄せたから起きた事故だったのだが、実はパンク系などのバンドのライブの場合、これに近いことが各地で起きていたのだと思う

と述べる。

 なるほどと思う。じっさい、1980年代以前から、スタンディングは、危険視されていた。ある時期までの日本では、コンサートでは客席から立ってはいけない、立つと混乱を呼び起こすから、と規制されていたという三宅伸一の証言がある(三好「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ 日本公演の表と裏」『文芸別冊 ボブ・マーリー』(河出書房新社、2012年)、160頁)。三好が言及しているのは、1979年のウェイラーズ来日公演に関連してである。

*3:1979年に「新宿ロフト」のライブ「ドライブ・トゥー80's」で、定員以上の客が来たので、総立ちに切り替えたのが、総立ちがスタンダードとして確立したはじめである。と、このように著者は「一説」として紹介している。このライブイベントについては、以下の記事が詳しい。http://www.eater.co.jp/siryou/dt80.htm

*4:著者は本書で、ディスコとクラブの違いについて、ハウスやテクノは後者に属するものとして定義している。すなわち、「スタジオ54」がディスコ、「パラダイス・ガレージ」がクラブ、という分類をしている。

*5:ウェブサイト・『HEAPS』の記事 「誰をも歓迎した「たった2年間のパラダイス」 NY・70年代ディスコ・シーン、狂乱と享楽のダンスフロアにあった真実とは」 には、次のような記述が存在する(https://heapsmag.com/interview-with-photographer-bill-bernstein-nyc-70s-disco-scene-two-years-inclusive-paradise-welcoming-all-races-genders-democracy-on-dancefloor )。

スタジオ54とパラダイス・ガラージの性質は対照的ではあるものの、人種や性別、職業など多様性をフロアに招きいれる「インクルーシブネス」という点では、何一つ違いはなかったというビル。ドアを開ければ、誰もが入り乱れることのできた空間だった。/そんなディスコの一歩外は、人権運動に揺れていた。世界規模で広がっていたフェミニズム運動「ウーマン・リブ」や黒人公民権運動、ゲイ解放運動の幕開けとして有名な1969年の「ストーンウォールの反乱」。まるで平等の祝杯を上げたいかのごとく、生い立ちのまったく異なる人々が一堂に介し交差した場こそが、ディスコだった。ビルの言葉を借りれば「民主運動のダンスフロア」だったのだ。

理想化されている感もなくはないだろうが、一応の事実、事実の一側面ではあるはずである。

*6:ただし、ライブハウスについては、経営者が変わる、場所の移転、などの見えない部分での変化は激しかったという( 宮入恭平『ライブハウス文化論』(青弓社、2008年)52、53頁)。また、ライブハウス増加にともなって、あまり評判のよろしくないノルマ課金も登場してくるわけだが。前掲宮入著は、1980年代後半以降、ノルマ課金が確立されたとしている(29頁)。

悪臭都市だった平安京から、汲みとり式便所と京野菜の話まで(あと、その他諸々の話題) -高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』を読む-

 高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』を読んだ。

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

  • 作者:高橋 昌明
  • 発売日: 2014/09/20
  • メディア: 新書
 

 内容は、紹介文の通り、

平安の都、日本の〈千年の都〉として、今も愛される京都。しかし今の京都には、実は平安当時の建物は一つも残っていない。この都はいかにして生まれ、どのような変遷をたどり、そして「古都」として定着するに至ったのか? 平安京誕生から江戸期の終わりまでその歴史をたどり、「花の都」の実像を明らかにする。

というもの。
 結果的に、「臭い」話ばかり取り上げるが、もちろん、それ以外の話題も、読みどころありである。

 以下、特に面白かったところだけ。

悪臭都市・平安京

 平安京も相当な悪臭都市だった (54頁)

 平安京の溝渠には、人間の排泄物も流されていた。
 ただでさえドブ化しやすいのに、そのうえ、溝沿いの家からは、汚水が垂れ流しとなっていた。
 これが初期平安京の姿であった。*1

糞便と死体だらけ

 餌としての糞便や死体が豊富だったからである (56頁)

 京の都にはなぜ、野犬が多かったのかといえば、そうした野犬の餌が豊富だったからである。
 人口密集地でのこうした環境は、疫病をはやらせる原因となった。
 京都は神泉苑ですら、「不浄の汚穢」が行けの中に充満していたようだ。*2
 また、『玉葉』にも京都の不浄の様子が、記録されている。*3
 もちろん、一九世紀半ば過ぎまで、パリでもロンドンでも、世界の都市は人畜の糞尿、汚水まみれではあったが。

汲みとり式便所が生んだもの

 京都に汲みとり式便所が普及し、並行して街頭排便の習慣が過去のものとなってゆく (194頁)

 やがて、近郊型農業への対応として、汲みとり式便所が本格的に成立するようになる。*4
 フロイスも、日本では人糞が肥溜で腐熟されて、畑に投入されることを、記している。
 公衆便所で排泄された屎尿は、近郊農民に売却されて、町の運営経費に充てられた、と考えられる。 京野菜、たとえば、九条ネギ、堀川ゴボウ、鹿ケ谷カボチャなどの前史には、こうした汲み取り式便所の普及があったのである。

YOUは何故に上皇に?

 上皇ならそれから解放され、自由にふるまうことができたからである。 (72頁)

 なぜ、上皇法皇になって、政治を行ったのか、その理由である。*5
 上皇になるは、御堂流(摂関家)に埋没していた天皇一家を、「王家」という自立した存在として立ち上げることを意味していた。
 天皇だと政治や祭祀や儀礼の面で、行動を制約されることが多かった。*6

大徳寺が五山を離れた理由

 大徳寺室町時代中期の永享三年(一四三一)、五山から離れ、在野の立場に立つ禅寺(林下)の道を選ぶ。 (152頁)

 なぜ、五山から離れたのか。
 幕府によって五山第一の寺格を大幅に下げられたことなどが原因である。
 在野となって、権力に密着して世俗化し、漢詩文や学問の世界に向かった五山の禅を厳しく批判した。*7
 坐禅に徹して、独自の立場に立った。
 その大覚寺を代表するのが、一休宗純である。*8
 反骨の大徳寺禅を、堺の豪商に広め、彼らの援助で、灰燼に帰した方丈や仏殿兼法堂の再建をなした。

 

(未完)

*1:稲場紀久雄は、日本古代の歴代の首都について、次のように述べている(「三大環境危機と下水道 」http://www.jca.apc.org/jade/demae20index.html )。

悪臭は、皇居にも遠慮なく侵入した。歴史学者は、「穢れた悪臭とは死人の臭いか」と書いている。「死者の臭い」が絶対なかったと断言しないが、当時の都市は大量の糞便から立ち上る悪臭でむせ返るようだった。 (引用者中略) 藤原京平城京平安京も、道路という道路には水路が設けられていた。この水路系統は、水が都市全域をなるべく均一に流れ下るように体系的に整備されていた。これを下水道と称すれば、わが国の当時の首都は世界でも屈指の下水道完備都市だった。ところが、用排兼用の水路だった。人々は悪疫でばたばた倒れ、恐怖に慄いて、首都は放棄された。

*2:小右記』によると、

長和五年六月条/十二日甲申、巳の剋ばかり、束帯して摂政殿に参じ、則ち以て謁し奉る。(中略)余申して云く、『神泉苑竜王の住所なり。(中略)先日蜜々件の苑を見るところ、四面の垣悉く破壊し、不浄の汚穢池中に盈ち満つ。 (引用者中略) 』と。

とある(ウェブサイト「忠臣蔵」より。http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/0151_0200/0170.htm )。本書でも、『小右記』の当該箇所が引用されている。

*3:荒木敏夫によると、

玉葉』建久二年(一一九一)年五月十三日条が記す以下のような状況が生まれてくるのは、充分に考えられることであろう。/又神泉苑、死骸充満、糞尿汚穢、不可勝計云々、仍慥明日明後日之内、可洒掃之由、仰別当能保卿。/ひとつの行き着いたところ、それはかつての禁苑であった神泉苑の地は、「死骸充満、糞尿汚穢」に満ちた場に化している。もはやそれは、王権の独占的利用の場であり、王権の遊宴の地でもあった過去の姿を思い起こすのが難しくなっている姿である。 

とある(「神泉苑と御霊会 : 禁苑の変質とその契機」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793521 )。

*4:山崎達雄は、次のように講演で述べている(「京都の屎尿事情」http://sinyoken.sakura.ne.jp/sinyou/si020.htm )。

肥料として屎尿を活用するには、運ぶ道具、つまり桶が必要です。小泉和子さんらの「桶と樽の研究会」によれば、桶は12世紀から13世紀頃に大陸、中国から伝わり、15、6世紀には関東に伝わりました。京都では14世紀頃です。桶が広く使用され始めたのは南北朝、鎌倉期あたりで、この頃になると、屎尿は桶で運ばれ、肥料として使われたと推測しています。 (引用者中略) 近世になると、屎尿は広く肥料として使われたことは確かであります。

ただし、やはり屎尿を運ぶのは大変であったようで、

近世は、今以上に不便ですので、京都に屎尿を汲み取りに行くのは大変であったことは容易に想像できます。このため、農村に屎尿を手配するため、京都に屎問屋が生まれいます。この屎問屋は、交通の要所、当時は、船運が盛んでありましたので、高瀬川沿いや伏見に生まれています。

*5:厳密にいえば、上皇法皇のなかでも、天皇家(「王家」)の家長たる「治天の君」が政治をするのだが。

*6:ある書評によると、岡野友彦は、次のようなことを書いているという(以下、ブログ・『雑記帳』の岡野友彦『院政とは何だったか』に対する書評から引用している。https://sicambre.at.webry.info/201402/article_7.html )。

建前上、ともかく前近代において律令制度は有効でしたから、国土・国民はすべて天皇のものとされている以上、その一部を改めて天皇の私有地とすることはあり得ませんでした。/そこで、天皇家が建立した寺院や内親王荘園領主としたり(女院領・御願寺領)、天皇譲位後の財産としての「後院領」という形式をとったりせざるを得ず、天皇家の家長がそうした荘園を確実に領有するためには、早く譲位し、上皇という自由な立場に就く必要がありました。

実に明快な説だと思われるが、岡野説がどの程度、他の研究者に支持されるのかは、正直分からない。
 また、岡野自身によれば、この説自体の原型は、石母田正『古代末期政治史序説』までさかのぼるという(岡野著・28頁)。

*7:ただし、斎藤夏来は室町期の大徳寺の実情について、次のように述べている(「五山十刹制度末期の大徳寺 : 紫衣事件の歴史的前提」https://ci.nii.ac.jp/naid/110002362353 、以下、註番号等を省いて引用を行っている。)。

大徳寺は、室町幕府の管理下にある五山叢林(官寺)とは一線を画するいわゆる林下(在野)の禅院になったともいわれ、 あるいは天皇・ 朝廷に住持職が帰属する「公家の寺」になったともいわれる。 しかし注意しなければならないのは、同寺に拠る大灯派門徒南禅寺という五山最高の禅院の権威をいかに自らのものとするかという問題にあくまでも腐心し、 その目的のためには朝廷を利用することも、その権威を蹂躙することも顧みず、一方室町幕府は、同寺をあくまでも十刹格の禅院として扱おうとしていたという事実である。 (引用者中略) 大徳寺は住持補任という点で幕府から自由であったが、南禅寺をいわば国家最高の禅院とみる観念からは自由ではなく、 したがって南禅寺を管理・ 掌握する幕府からも完全に自由ではありえなかった。

そう簡単に室町幕府の権力から自由には、なれなかったのである。

*8:上田純一によると、一休らの大徳寺による堺布教は、横岳派の当時の動向に即応したものであるという。

 横岳派は、大宰府崇福寺を拠点とし、そのネットワークは博多、兵庫、京都、堺などに広がっていた臨済宗の一派である。当時、横岳派と大徳寺派は、交流があった。

 堺商人は、大徳寺の反五山派や庶民的禅風を慕っただけでなく、博多を拠点とする横岳派のネットワークに参入して、対外(大陸)貿易のつてを得るという経済的利益を目論んだ可能性があるという。

 以上、上田『九州中世禅宗史の研究』(文献出版、2000年)、103~106頁に依った。