エミリー・ディキンソンとラップの共通項。ヒップホップの歴史を楽しく解説する良書。 ―長谷川町蔵、大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』を読む―

 長谷川町蔵、大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』を読んだ。

 内容は、紹介文の通り、

気鋭のライターとアメリカ文学者が対談形式でお届けするヒップホップの誕生から現在まで

というもの。
 体育会系の人も楽しめる内容である。

 以下、特に面白かったところだけ。

ブロンクスとジャマイカ

 ブロンクスはジャマイカ移民が多くて (23頁)

 ネーション・オブ・イスラムの指導者、ルイス・ファラカーン、あるいは、コリン・パウエル。 二人はジャマイカ系で、ブロンクス出身である。*1 
 1960年代にブロンクス横断高速道路が出来て、白人たちは流失した。*2
 その結果、アフリカ系とヒスパニック系が流入することとなったという。

楽器が買えなかったから?

 よく「ヒップホップは楽器を買うお金がなかった人びとによって始められた」と「ストリートの政治性」に結びつける人がいますが (51頁)

 当時のインタビューを読むと、そうでもないのではないか、という。
 例えば、サンプラーは今よりもはるかに高かった。*3

 親からプレゼントしてもらった人も多かったのである。

ドクター・ドレーの革新性

 ドレーこそが究極の音響系ですよ。 (141頁)

 既存曲のサンプリングをほとんどやめてしまった。
 生のプレイヤーにジャム・セッションさせて、最小限のパーツをつまんで曲を作ったのが、ドクター・ドレーである。*4

エミリー・ディキンソンとラップ

 英詩の歴史上、不完全韻はエミリー・ディキンソンやW・B・イェイツなど19世紀から20世紀前半の詩人が詩をより口語調にするために取り入れた。 (223頁)

 完全韻とは、母音とそれに続く子音が同じもの(back track)。対して、不完全韻とは子音が同じでも母音が異なるもの(party/almighty)。*5
 ラップは、きほん、不完全韻である。

アパレルで儲ける

 ジェイZや50セントみたいな大スターですら、年収に占める割合はアパレルの方が遥かに多い (231頁)

 アパレルはもうかる。
 いや、ヒップホップは儲からない、というべきなのか。*6

 

(未完)

*1: United States Department of State.のウェブページにある、“Biographies of the Secretaries of State: Colin Luther Powell ”には、実際、

The son of two Jamaican immigrants, he was raised in the South Bronx.

と書かれている(https://history.state.gov/departmenthistory/people/powell-colin-luther )。

*2:ブロンクス横断高速道路を建設したのは、ロバート・モーゼスである。彼の都市建設はかなり強引なものだった。以下、Oliver Burkeman の”The Power Broker: Robert Moses and the Fall of New York by Robert Caro review ? a landmark study”という書評(https://www.theguardian.com/books/2015/oct/23/the-power-broker-robert-moses-and-the-fall-of-new-york-robert-caro-review )から引用する。

Then again, he so hated the idea of poor people lowering the tone at the seaside that he built bridges over his parkways with insufficient headroom for buses, so only cars could make the trip. Convinced that African Americans had a special dislike of cold water, Caro alleges, Moses kept temperatures in one Harlem pool deliberately low to keep them away. An exceptional chapter, entitled “One Mile”, charts the destruction of a close-knit community by a single, mile-long curve in Moses’s Cross Bronx Expressway ? a curve added to the route, Caro strongly suggests, to steer clear of property owned by an influential acquaintance.

*3:ブログ・『キーボーディスト、脱初心者を目指す』の記事「【Vol.154】E-mu Emulator II ~80年代中期を代表する世界的サンプラー[1984年]」(https://kblovers.jp/gakki/369-e-mu-emulator2/ )には次のようにある。

E-mu Systemsの「Emulator II」というサンプラーです。発売時期は1984年。日本での販売価格は2,980,000円でした。80年代に世界中の数多くの現場で使われたサンプリング・マシンであり、国内では坂本龍一氏、小室哲哉氏らが愛用していました。

本書では、イミュレイター(初代)のほうが、価格を含め、註に載っている。

*4:ウェブサイト・『playatuner』の記事、「ヒップホップを次の時代へと誘ったDr. Dreの2ndアルバム「2001」8つの制作秘話」には、次のようにある(https://playatuner.com/2016/11/dr-dre-2-1-17years/ )。

当時のTime紙では「2001」の作業プロセスがこう書かれていた。/「2001」に参加していた楽器隊はポケベルが渡される。そしてドレーが作業したい気分の時にそれが鳴り、全員が集まる。ドレーがドラムマシーンを叩きビートを作る。その後楽器隊が自由にプレイし、ドレーが気に入ったフレーズがあるとそのパートだけ書き出してフレーズの改善をしていく。ドレーが指揮をするバンドのようだ。

 該当する箇所は、おそらく次のところ(https://web.archive.org/web/20020209023453/https://time.com/time/musicgoesglobal/na/mdre.html )。

Every Dre track begins the same way, with Dre behind a drum machine in a room full of trusted musicians. (They carry beepers. When he wants to work, they work.) He'll program a beat, then ask the musicians to play along; when Dre hears something he likes, he isolates the player and tells him how to refine the sound. "My greatest talent," Dre says, "is knowing exactly what I want to hear."

*5:Ruth Padelの「READING POETRY TODAY(今日詩を読むということ)」には、次のようにある(南川優子ウェブページ『詩のページ』より。http://www.shimirin.net/~minadams/translation/translation.html )。

これらの韻はそれほど新しいものではない。エミリー・ディキンソンは 1850 年代に子音韻を創始した。wind/God, plan/unknown, gate/mat, despair/more, one/stone といった言葉の一致がそれである。彼女の技法は驚くほど時代を先取りしていた。

「創始」かどうかはともかく、かなり早い段階であったことは間違いなさそうである。

*6:デイモン・ダッシュによると、音楽はマーケティングにカネがかかるのだという(ジェイク・ブラウン『Jay-Z ロッカフェラ王朝を築いたヒップホップの帝王』(トランスワールドジャパン、2006年)130頁)。

多分、詩の発生は、対象へのほめ言葉。そして、ほめ言葉は、いつも常識的表現をよろこばない。 -吉野弘『現代詩入門』を読む-

 吉野弘『現代詩入門』を読んだ。

現代詩入門

現代詩入門

  • 作者:吉野 弘
  • 発売日: 2007/06/01
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

どう読むか、どう書くか、詩とは何か…。単なる作詩法・技術論を超えて、詩的感動の原点は何かを語ろうとする、現代詩入門。さまざまな詩の魅力や、自作詩の舞台裏を紹介する。

というもの。*1
 現代詩がわからない人も、せめてこの本だけは読んでおきたいところである。

 以下、特に面白かったところだけ。

ほめたいと思うことから詩がはじまる

 ほめたいと思うもの、愛するに足るものがあるという状況は、新しい表現を生み出す、格好の状況だというふうに一般化することもできるだろう。 (引用者中略) 多分、詩の発生は、対象へのほめ言葉だろうと思われる。/そして、ほめ言葉は、いつも常識的表現をよろこばない。そのことが、ポエジーが常識からずれてしまうことの原因をなす。 (75頁)

 相手(対象)に対する感情の過剰が、表現の過剰として表れる。
 歌や詩は、平静でいられないことを示す言葉である。*2

自分に敬語を使用する(?)歌人

 食す(おす)は、貴人などが食べることの敬語であり、茂吉の使い方は非難されたらしいが、自分に敬語を使って悪いことはないと言って改めなかった (149頁)

 金田一京助斎藤茂吉とで、「食す(おす)」をめぐって論争があった。
 その時の話である。*3

外国語から母語を学びなおす 

 外国語にふれることによって、母国語を見直すばかりでなく、言語そのものの活力にふれることが出来ます。 (247頁)

 吉野の作品「I was born」の話である。*4
 作者も、これについて、拘って考え、それを投げ出して、半年後に詩は浮かんだという。*5

 詩想を寝かせる大切さが語られている。 

意志と必然

 人間が何事かをなそうとするとき、そうはさせまいとする力の働くのを感じます。それを打ち破ろうとするとき、そこに露呈されてくる矛盾、その矛盾の一方の加担者となったときに、いやおうなく感得される矛盾、そういうものをさしています。 (253頁)

 著者は黒田三郎の詩を解説しながら、そのように述べる。

 自分にとって、詩は「矛盾」が本質をなしている事柄なのだという。*6

 ここでいわれる「矛盾」とは、死を含む自然的必然に対して、なおも生きようとする人間的意志が立ち向かうとき、そこに露呈されるものを指す。*7

 そして、その「矛盾」とは均衡という静的状態ではなく、破られようとする動的な状態である。

 

(未完)

*1:紹介文は、旧版の方を採用した。

*2:詩とは何かについて、著者はあるインタビューでこう答えている(工藤信彦「私にとって詩とは何か : 吉野弘氏に聞く」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009985074 )。

固定観念がずれるという風に言った方が、単純にわかるんじゃないかという気がしました。それは、シェークスピアの詩に、自分の恋人をほめるために「あなたは太陽と月と、その次くらいに美しい」と、だから、私のあなたに対するほめ歌というか、思いを察してくれないかというおもしろい詩があるんです。恋歌の一つなんですが、普通は自分の恋人をほめる場合には、「あなたは私の太陽だ」というのが通り相場なんですね。ところがシェークスピアはそうは言わないで、そういう大げさなことは自分は言わない。太陽、ちょっとそれはまだ適わない、月、それもちょっと適わない、しかしその次ぐらいにあなたは美しいと。そういう風に、つまり滑稽で、太陽だという以上に大げさで馬鹿馬鹿しいんだけれども、もしそれを言われた恋人の立場になってみると、非常に滑稽なんだけれども、そういう固定観念みたいなものをずらして自分をほめてくれる、そういう真心みたいなものを珍重するに違いない。それが詩の原型じゃないかという感じがするわけです。

著者の言う「ほめる」というのは、ありきたりではない表現であることが肝心である。著者(吉野)が例に挙げたシェイクスピアの場合、より馬鹿に正確な表現に拘泥することで、ありきたりな表現を脱している。なお、このシェイクスピアの例は、本書でも述べられている。

 で、「太陽、ちょっとそれはまだ適わない~」というシェイクスピアの言葉だが、著者は本書においてはソネットの21番を挙げている。ただ、より適切な例は、ソネットの130番ではないか。以下、URL参照。http://www.shakespeare-online.com/sonnets/130.html そして、

Sonnet 130 is clearly a parody of the conventional love sonnet, made popular by Petrarch and, in particular, made popular in England by Sidney's use of the Petrarchan form in his epic poem Astrophel and Stella.

と、パロディであることも、「Paraphrase and Analysis of Sonnet 130」の解説ページに掲載されている。

*3:嶋稔は、斎藤茂吉金田一京助との論争に関して、このように書いていた(「『食ス』考」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001123268 )。

斎藤氏の御意見でほ、かりにもし「サス」の敬語説が成立しても、一方で良寛や御自身が用いられたような敬語でない「ヲス」が存在してかまわないという、歌人としての見識を示されているようであるから、これほ余人のとかくいうべき筋ではない

 実際、茂吉は、「食す(ヲス)」は音調でいうのであって、必ずしも敬語ととらえなくてもよい、云々とのべている(佐藤佐太郎『斎藤茂吉言行』(角川書店、1989年)、76頁)。なので、吉野の語るところは事実と異なるところがある。

*4:当たり前だが、中国語であれば「我出生了」になり、受動的な意味はなくなる。言語次第である。

*5:なお、著者・吉野がこの詩を作成する際に参考にした、大町文衛『日本昆虫記』によると、カゲロウが短命と言っても種類はあって、成虫として二十日くらい生きるものもあるし、幼虫の時期も合算すると長いものは3か年生きる、つまり、他の昆虫よりも長く生きるものもある(『日本昆虫記』改版。KADOKAWA、2019年。65頁)。念のため書いておく。

*6:あくまでもそれは自分の詩の中軸であって、もちろんヴァリエーションはあると著者は述べてもいるが。

*7:『運命論者ジャック』に関連して、イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』(みすず書房、1997年)で次のように述べている。すなわち、意志や自由な選択は、必然という硬い岩石に通路をあけることができるときだけ効果的であり得る、そのようにディドロは考えていたのではないか、と(当該書125頁)。意志と必然との関係について、これは、著者(吉野)がいうところの「矛盾」の問題に似たところがあるように思う。

タンゴもハワイアンもジャズも、ひとくくりに「ジャズ」だった時代。戦前日本のジャズについて -瀬川昌久、大谷能生『日本ジャズの誕生』- 

 瀬川昌久大谷能生『日本ジャズの誕生』を読んだ。

日本ジャズの誕生

日本ジャズの誕生

 

 内容は紹介文の通り、

東京大学アルバート・アイラー』でジャズ論を一大転換させた批評家=ミユージシャンが、古典ジャズ史の第一人者から、日本にジャズが生まれ、独自のダンス文化、ショウ文化を生み、日米開戦とともにピークに達するさまを詳細に聞き起こす。現在のダンス・ミュージックのルーツを探り、「ポップ」の誕生の謎に迫る、音楽革命の指南書。

というもの。
 実は戦前の日本のジャズはかなりすごかった、というのがよくわかる。
 (ただし、今回はその点についてはあまり触れない。)

 以下、特に面白かったところだけ。

アーヴィング・バーリン

 このような作者による、人種も国共も超えたファンタジーこそが、アメリカ市民に求められていた歌だった (87頁)

 アーヴィング・バーリンの話である。
 彼は、ピアノも弾けず、譜面も読めなかった。
 アシスタントに自分のメロディを繰り返し伝えて、ピアノで弾かせ、自分のイメージ通りのものになるまで修正させたという。
 ロシア育ちで、母語でない英語で歌詞を書き、最初に作ったのが、イタリア民謡調である。
 しかも、最初のヒット曲が、「アレクサンダース・ラグタイム・バンド」。
 結果的に、自分が逃げてきたロシアの皇帝の名前を使用している。*1
 しかも「ホワイト・クリスマス」も、彼はユダヤ人の家なので、クリスマスを幼年時代に祝う習慣はなかったはずなのである。*2

タンゴもハワイアンも「ジャズ」

 戦前のジャズは現在のような専門的な分野じゃなくて、ポップスをぜんぶふくんだものがジャズで、お互いに区別されないで、同じような楽しまれ方をした。 (189頁)

 タンゴもハワイアンもジャズも、ひとくくりに、広い意味での「ジャズ」として、楽しまれていた。*3

1940年、ダンスホールの閉鎖

 正式に認可されてから十年と少ししか続けられなかった、日本におけるダンスホールとその文化が、しかし大衆にしっかりと愛されていた (198頁)

 昭和十五年、ダンスホール閉鎖を利用者たちは大いに惜しんだ。*4

 昭和十年代までは、ダンス音楽は流行歌といっしょに歩んでいた(233頁)。

 だが、戦後は、それぞれ別れていった、という。

 もちろん、ドドンパなどの存在にも言及されてはいるが、基本的にはその認識で間違ってはいないと思われる。

堀内敬三の「裏切り」

 けしからんのは堀内敬三ですよ。 (208頁)

 堀内は、戦争中に音楽の大政翼賛会的なものを作り、その長として禁止令を出した。*5

 昭和19年初めの出来事である。

 彼はどうすればジャズの音楽になるかを分かっていた。
 というのも、彼は昭和三年にジャズソングをはじめてラジオで放送し、レコードを出したパイオニアである。
 手口は十分わかっていた。
 例えば、堀内はサックスのアンサンブルを禁じている。

 これが、特にスウィング・ジャズにとってどれほど致命的だったか。

ジャズは戦後にも

 日本では敗戦の昭和二十年八月十五日を経てから (引用者中略) 昭和四十年(一九六五年)頃までの二十年間が、日本の遅れてきたスイング・ダンス・エイジで (243頁)

 敗戦後も、ジャズは日本で愛された。*6
 皮肉なことに、日本は太平洋戦争に負けることで、再びジャズを楽しみ踊ることが出来るようになったのである。
 はたして、日本が勝っていたらどうなっていただろうか。

 

(未完)

*1:別にそれを狙って付けられた名前ではないだろうが。

*2:中田崇は次のように述べている(「ユダヤ系移民とティン・パン・アレーhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005854508 )。

そんな彼も実際には音楽教育を受けておらず、ピアノもすべてのキーに合わせられるように細工された特別の楽器を使っていた。アフリカ系音楽やヨーロッパのクラシック音楽の知識を持っていたとは考えられない

 「すべてのキーに合わせられるように細工された特別の楽器」とは何か。『Los Angels Times』の記事「Irving Berlin piano spotlighted at National Museum of American Jewish History」には、次のようにある(https://latimesblogs.latimes.com/culturemonster/2010/10/irving-berlin-piano-spotlighted-at-national-museum-of-american-jewish-history.html )。

It's a well-known fact that Berlin, despite his enormous talent, couldn't read or write music. The self-taught musician used a special instrument called a transposing piano that allowed him to play in multiple keys without learning the requisite musical technique. (“The key of C,” Berlin once said, “is for people who study music.”) 

transposing pianoについては、ネット動画サイトなどで、バーリンが演奏している映像を見ることができる。

*3:もちろん、狭義には区別はあり、ジャズを「純軽音楽」と呼んだり、また、「純ジャズ」という語をタンゴと比較して用いたりする例が見られる(日本放送協会編『昭和十六年 ラヂオ年鑑』(日本放送出版協会、1941年)。163頁)。

*4:野島正也は次のように書いている(「社交ダンスの社会史ノート(1) : 戦前の日本における社交ダンスの展開」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006418601 )。

1940年(昭和15)になると,ダンスホールの入口にしばしば警官が立って,入場しようとする客の身分をあらためた。そして1940年10月31日を期して,都内の全部のダンスホールに閉鎖令が出され,おってこの規制は全国におよんだ。外地の満州や上海でも日本人経営のダンスホールはまもなく内地と同様の規制を受けることになった

なお、この論文の当該箇所で参照されているのは、瀬川昌久『舶来音楽芸能史・ジャズで踊って』である。

*5:山中恒は、堀内が1942年の「大東亜戦争に処する音楽文化の針路」において、米英の音楽を締め出せと書いたことに、これがあの堀内敬三の文章かと驚いている(『ボクラ少国民と戦争応援歌』(音楽之友社、1985年)、119~121頁。)。

 そして、堀内作詞作曲の『敵塁陥落』を紹介し、やはり本気だったのではないか、と結んでいる。

*6:日本ボールルームダンス連盟「我が国におけるダンス文化の現在」には、次のようにある(https://jbdf.or.jp/profile/guideline.html )。

1946年、終戦の翌年には早くもダンスホールが復活し、抑圧から解放されたボールルームダス愛好者が集い、楽しむようになった。そして、民主化とともに生まれた新たな男女関係のあり方を背景に、ボールルームダンスは学生層の間で急速に広まり、1950~60年代に大ブームとなったのである。しかもこのブームは、非営利の自主的なダンスパーティーの開催を伴うもので、ボールルームダンスをホール中心の営みから、公開の場の営みに移すという大きな意義があった。その結果、ダンスホールは一時的に衰退するが、ボールルームダンスは健全な営みとみなされるようになり、市民社会に根ざした生活文化となる重要な契機を手にしたのである。ボールルームダンスの健全化には、その競技化も大きな意味をもっていた。

 ここでいう「一時的に衰退」とは、次のようなことであろう。以下、にっちもサッチモ「JAZZ CITY KOBE」より引用する(http://jazztownkobe.jp/history/jazz-city-kobe/ )。

第 2 次大戦後のジャズは、進駐軍放送の「センチメンタル・ジャーニー」に始まる。米軍が進駐してきて、神戸をはじめ、甲子園、伊丹、姫路にキャンプが張られた。日本のジャズバンドもかり出されたが、一般人が生の演奏を聴くには三宮をはじめ各地で復活したダンスホールやキャバレーへ行くしかなかった。全国でもダンスホールが再開・開業し、ダンス全盛時代を迎えたのである。しかし、昭和 20 年代後半になると、ダンスブームも急速に退潮し、踊るジャズから聴くジャズへと変わっていった(「兵庫県大百科事典」1983)。

「市場原理による選択がまるで働かないように、バナナの生産現場は仕組まれている」 -鶴見良行『バナナと日本人』を読む-

 鶴見良行『バナナと日本人』を久々に読んだ。

 内容は紹介文の通り、

スーパーや八百屋の店頭に並ぶバナナの九割を生産するミンダナオ島。その大農園で何が起きているか。かつて王座にあった台湾、南米産に代わる比国産登場の裏で何が進行したのか。安くて甘いバナナも、ひと皮むけば、そこには多国籍企業の暗躍、農園労働者の貧苦、さらに明治以来の日本と東南アジアの歪んだ関係が鮮やかに浮かび上がる。

というもの。

 名著だが、本題以外の点について微妙なところもあるので、それもふくめて書いていきたい。

 アメリカとフィリピンの大地主との癒着

 占領軍は、日本では農地改革を行ったのに、フィリピンでは大地主を保護し、戦災補償金などを与えている。日本も台湾も米国の指導で農地改革が行われたのに、フィリピンでは行なわれなかった。 (19頁)

 日本もフィリピンも、マッカーサー将軍と戦後を歩んだ。

 戦前から米国資本がフィリピン地主層と結んでいて、農地改革が出来なかったのである。*1

 それどころかマッカーサーは「旧地主たちの援助強化に努力する」こととなった(83頁)。

問題は土地の制度

 不幸にして土地問題は、地主制そのものとしてではなく、異邦人同士の問題として扱われたために、その重要な本質が見失われた (75頁)

 フィリピン人労働者が麻農園の経営や栽培技術を自発的に磨いてゆくためには、地主制が「本質的」な所で解決されていなければならなかったのである。*2

 また、「フィリピン人の麻農園が日本人の農園ほど発展しなかったのは、労働者よりも支配階級の土地所有に関する思想に問題があった」(77頁)。

 例えばサトウキビ農園は、地主の下に管理人という中間職制があり、底辺には親方や請負人が出来高払いの請負で労働者を働かせるという過酷な労働環境であった。

 しかし、知識人や支配階級の政治家たちは、自国社会の苛酷な地主制が農民の生産意欲を削いでいる状態について、何も論じなかったのである。

  フィリピン人の地主が、フィリピン人労働者はそれほど勤勉ではないという自国民軽視の神話にとらわれていたことが、背景にある。

ミンダナオとユダヤ人移住計画

 ミンダナオの土地を利用する自営農家創出は、 (引用者中略) ヒトラーユダヤ人圧殺政策とさえ響きあった。 (80頁)

 50万人のユダヤ政治亡命者の処遇に悩んだルーズベルト大統領は、ユダヤ人2名をフィリピンに派遣し、ドイツ出身とオーストリア出身のユダヤ人1万人が入植できるよう交渉させた。*3

 使節二人が希望したのは、ミンダナオのラナオ湖周辺の土地で、ムスリムのマラナオ族の土地だったという。

 かなり問題含みの土地だったのである。

借金と契約で縛っていくやり方

 市場原理による選択がまるで働かないように、バナナの生産現場は仕組まれている。 (144頁)

 もしどこからでも金が借りられ、バナナ以外にも有利な作物があれば、バナナ契約農家の経済は、現状(当時)のようにはならなかったはずである。

 外資企業が栽培者に対して、市場原理による選択が働かないよう契約を工夫した。

 その結果なのである。

 「企業は、農民、農家を借金という『見えざる鎖』で縛り、バナナ栽培から逃がさないようにした」 (152頁)。

 借金が契約農家を会社につなぎとめる鎖となった。*4

*5

 「元の水田に戻すといっても、その米の作り方さえ忘れてしまったからな」 (164頁)

 借金もなくなり自由な身でありながら、外資契約を更新した農家がいた。

 彼らは、バナナ以外の作物を作る文化さえ奪われてしまったのである。

 モノカルチャー経済が生まれる一要因ではないか。

バターン死の行進について

 日本軍に「捕虜虐殺」の意図はなく、輸送手段がなくて仕方なかった (89頁)

 バターン死の行進について著者は述べている。

 「連合軍はこの事件を宣伝戦に利用し」と、某産経新聞あたりが喜びそうなことも書いているが、著者の言い分に問題があることは、長いので註に書いておく。*6

(未完)

*1:大岡昇平も、「フィリピンを人民の幸福のためではなく、アメリカとフィリピンの地主資本の利益になるように解放することが、マッカーサーの目的だった」と書いている(「レイテ戦記(下)」『大岡昇平全集 第10巻』(筑摩書房、1995年)、176頁)。なお、『レイテ戦記』の初版は1971年に出ている。

*2:梅原弘光「フィリピンの農業商業化と土地制度の変化」(1991年)は、ここ20年間の変化を小作地率の増減で見ると、1960年当時小作地率が高かった中心的農業地域では小作地率が低下傾向にあるが、周辺部では逆に増加傾向だとしている(https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Books/Sousho/406.html、339頁)。その後が気になる人がいるかもしれないので、やや過去の論文になってしまうが、一応紹介しておく。

*3:フィリピンのミンダナオ島ユダヤ難民を移住させる計画があったこと、その話にメリットがあると考えたフィリピン政府が乗り気だったこと、しかし実現には程遠い案だったことなどについては、丸山直起『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局、2005年)の58、59、125頁参照。

*4:その契約の実態も随分と酷いものである。詳細は本書を参照。

*5:では近年の、フィリピンにおけるバナナの生産現場はどうなっているのか。市橋秀夫は次のように報告している(「報告1.『バナナと日本人』以後のバナナと日本人を考えるために」https://altertrade.jp/archives/5718 )。

今回の予備調査から得た最も大きな疑問は、ミンダナオ島のバナナ・プランテーションは、鶴見良行氏の『バナナと日本人』が出た 30 年前とは状況が違うにもかかわらず、多くの深刻な問題を抱えたままではないだろうか、という点である。大量の農薬散布、過酷な労働条件、高地森林の破壊、山地水源域の汚染、零細弱小農民の保有農地の巧みな支配――私たち日本人は、その現状についてほとんど情報を持っていない状況にあるのである。

また、多国籍企業がバナナ貿易量の大半を支配している状況は変わっておらず、その手法については、次のように述べている。

多国籍企業は巧みである。土地の所有権が移ったことを見込んで長期契約を申し入れる。X さんの家の周辺には、キャベンディッシュの密集したバナナ・プランテーションが広がっている。X さんの農地は、単一作物化と病害防止のための農薬の大量散布によって疲弊してしまうことになるが、多国籍企業はなんの遠慮もなくプランテーションの拡大を進めている。

*6:南京事件日中戦争 小さな資料集 ゆうのページ』の、「"バターン死の行進"(Ⅵ) 「否定」する側の視点① 現場関係者の証言」という記事(http://yu77799.g1.xrea.com/worldwar2/Bataan/bataan6.html )から、引用しておく。

 (引用者前略) 2.日本軍は、「捕虜の栄養失調状態」「マラリアなど疫病の蔓延」という状況に、全くといっていいほど配慮を行わなかった。「捕虜を人道的に取扱う」という方針が明確にあったのであれば、例えば、行進速度を無理のないものにする、可能な限り食糧を運搬し供給する、という方法も考えられかもしれないが、上層部は「バターン戦」に続く「コレヒドール攻略作戦」でそれどころではなく、また現場は「計画通りの捕虜輸送」に拘るばかりで、結局捕虜にとって過酷な行進が強行された。/3.「計画通りの捕虜輸送」への拘りは過剰ともいえるもので、捕虜が渇きに耐えかねて列を離れることすら許さない例が多数あった。さらに「捕虜への蔑視感」が、現場における捕虜の取扱いを過酷なものにした。 特に脱落者に対しては過酷で、飢えと渇き、疲労マラリアなどのために列を乱す捕虜がいれば、殴打、銃剣を突く、場合によってはそのまま殺してしまう、という「残虐行為」も少なからず見られた。/4.さらに「パンティンガン川の虐殺」のような、400名規模の捕虜集団虐殺事件も発生した。/5.やっとのことで到着したオドンネル収容所は、水不足・食糧不足・衛生材料不足という捕虜にとっては最悪の環境 で、万を超える多数の死者が発生した。/※念のためですが、既に触れてきた通り、日本軍の捕虜取扱方針は事実上「現場任せ」になっていましたので、「楽な行進」を経験した捕虜も多数存在しました。しかしそのような「幸運な」捕虜の存在を強調したところで、上に触れたような「日本軍の責任」は帳消しにはなりません。/ 2-5さえなければ、状況から推してある程度の「悲劇」は免れなかったとしても、ここまで「バターン死の行進」が問題にされることはなかったでしょう。日本軍の失態、と言わざるをえません。

もっと詳しく知りたい場合は、上記のウェブページに載っている関連記事すべてを読んでみてほしい。

ブルースやジャズ、ヒップホップを、<黒人性>だけで語ることは出来ない。白と黒だけではない米国音楽史  ―大和田俊之『アメリカ音楽史』を読む・後編―

 前回の続き。

「ジャズ」の意味は広かった

 そもそもニューオーリンズのミュージシャンは自分たちの音楽を「ジャズ」とは呼んでいなかった (92頁)

 「ジャズ」という語は、あくまでも演奏法を指す用語であり、ジャンルと認識されていなかった。
 音楽ジャンルとしてのジャズという用語が定着したのは1920年代以降である。
 しかも、ニューオーリンズではなく東部や北部での出来事である。

 たとえばアーヴィング・バーリンがしばしば「ジャズの作曲家」や「ブロードウェイのキング・オブ・ジャズ」と呼ばれたように、それはラグタイムやブルース、それにティンパン・アレーとも重なる音楽用語として幅広く使用された (100頁)

 ジャズは、息もつかせぬ響き、それは消費社会を象徴する大衆のためのサウンドだった。*1
 ジャズという語は、幅広く使用されていたのである。*2

ジャズと「左派性」

 人民戦線路線の採択以降はジャズを含む黒人の演劇や文学も進歩的で民主的な文化として認めるようになった (104頁)

 かつてアメリ共産党はジャズについて否定的だった。
 退廃的なブルジョア音楽だとみなしていたのである。
 だが、1935年以前から都市労働者にはジャズは支持されていた。
 そんなわけで、アメリ共産党もやがて、方針を転換したのである。*3 *4

ジャズドラムを変えた男

 軽やかなライド・シンバルでビート感を出すことでモダン・ジャズ特有の柔軟なリズムが生まれただけでなく、バスドラムをアレンジのひとつとして用いることが可能になった (113頁)

 ケニー・クラークが編み出したのが、バスドラムに代わって、ライド・シンバルでリズムをキープする手法であった。*5

ジャズが「黒く」なったとき

 ビバップやその発展形としてのハード・バップの<黒人性>がふたたび強調されるのは一九五〇年代後半のことである。 (117頁)

 かつて、ビバップが評価されたのは、その黒人性を称揚した点ではなくて、エスニシティを超えた普遍的な価値を内在する音楽としてだった。
 それが1950年代後半以降に変化する。*6
 ジャズを黒人文化として占有しようとする言説は、同時代の公民権運動を反映した主張だった。

ビッグバンドからコンボに

 一九四〇年前後の小コンボ編成の流行 (略) は、こうした文脈でもとらえる必要がある。 (142頁)

 ミュージシャンの団体と、ラジオ局団体、レコード会社団体との交渉の問題である。
 ミュージシャンの団体が会社側に給与増額を、レコード会社に対する交渉で報酬の倍増を約束させた。 だが、不況下の売り上げ低下に悩んだレコード会社のプロデューサーは、バンドやオーケストラを縮小させることで対応した。*7 *8
 ビッグバンドも小コンボ編成での録音を多用するようになった。
 ビバップ革命における小コンボ編成の流行は、こうした背景もあるという。

1960年代前期の音楽界と女性たち

 アメリカのポピュラー音楽史上、一九六〇年から六四年ほど黒人女性がチャートで成功した時期はない。 (173頁)

 ブリル・ビルディング・サウンドの話である。
 シュレルズやクリスタルズなどである。
 音楽業界の裏方も、女性たちの活躍が目立った。
 キャロル・キングやエリー・グリニッチ、シンシア・ワイルなど、作曲家の多くはユダヤ系だった。*9

サーフミュージックが洗い流したもの

 サーフ・ミュージックは、南カリフォルニアの爽やかなイメージとともにロックンロールに付着する黒人と労働者のイメージをぬぐい去り、郊外に住む白人中産階級の若者にアピールすることに成功した。 (181頁)

 南カリフォルニアのイメージサウンドとしてギターを中心とするインストールメンタル・サウンドが出現する。*10
 プロの音楽家を目指すわけではない若者たちが、ギターを手にとって、友人とバンドを結成するようになったのである。
 演奏の大衆化、アマチュア化が進む。
 郊外の白人中産階級の若者にアピールする一方で、脱黒人・労働者化も進んでいく。
 結果的に、サーフ・ミュージックは、ロックンロールを洗い流す働きをした。*11

労働者階級に身をやつす

 ハーバード大学に進学した典型的なアッパー・ミドル出身の人物だが、彼は人前で演奏するときに必ず労働者の服装を着たという。 (186頁)

 ピート・シーガーの話である。*12
 彼は、民謡を愛し、レッドベリーやウディ・ガスリーの曲を演奏した。
 自作曲はほとんどレコーディングしていない。*13
 これもまた、階級を偽る「擬装」(*「偽装」は本書の大テーマ)である。
 ディランも、ニューヨークで活動を始めた時、自分の出自を偽った(出身地であったり身の上だったり)。*14
 まあ、ディランは自分の音楽スタイル自体が「偽装」みたいなもんだが。*15

ムーンウォークの系譜

 ムーンウォークは、そこに「未来」と「過去」が同居するという意味で、黒人文化の正統を受け継いでいる。 (214頁)

 月面遊歩という未来と、ミンストレル・ショウという過去の「すり足」のコンビネーションである。*16
 また、顔を白くしたマイケルが、人種的他者を「擬装」しながら疑似的宇宙空間で黒人のステレオタイプを演じるという意味においてもそうだ、と著者は書いている。*17 *18

ヒップホップの初期衝動にあったラテン

 一九八〇年代にパブリック・エナミーやブギー・ダウン・プロダクションが東海岸でブラック・ナショナリズムを唱えたことでこうしたラテンのルーツが見えにくくなり、ギャングスタ・ラップの登場はその傾向を決定づけたのだ。 (239頁)

 ギャングスタラップの台頭によって、ヒップホップの多様なルーツが隠蔽されてしまった。
 ジャンルの創成期、ブロンクスではアフリカ系のほかに、ヒスパニックが多数参加し、プエルトリコ系、ドミニカ系の若者が深くかかわっていた。*19
 たとえばクール・ハークはジャマイカ出身である。

アメリカ音楽に隠された「カリブ海

 ブルースにおけるラテン音楽の影響を考察するうえでさらに重要なのはニューオーリンズのシーンだろう。 (254頁)

 1970年代に再評価が進んだプロフェッサー・ロングヘアの演奏を聞くと、そのサウンドはルンバやマンボ、カリプソなどカリブ海のリズムに溢れている。
 また、「ブルースの父」W・C・ハンディの「セント・ルイス・ブルース」のイントロは、タンゴ調(ハバネラのリズム)だった(255頁)。*20
 1910年代当時、アメリカではタンゴブームだったのである。

(未完)

*1:戦前日本でも、「騒騒しい賑やかさのこと、又は、大都会の喧騒のこと」に、ジャズという語は充てられた。細川周平「ジャズる辞書―モダン昭和の流行語」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006599776 より。引かれているのは、『新しい時代語の字引』(実業之日本社、1928年)。

*2:なお、五十里幸太郎『音楽舞踊十五講』(聚英閣、1925年)には、ジャズの父はアーヴィング・バーリン、とある(当該書123頁)。この頃から言われていたのである。

*3:ブログ・「荒野に向かって、吼えない…」は『ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史』に対する書評において、次のようにかいている(http://satotarokarinona.blog110.fc2.com/blog-entry-998.html )。

実際、左翼とジャズが人民戦線的に手を取り合うという光景がよく見られた。「黒人への暴力を告発する<奇妙な果実>を作詞・作曲したのは、黒人リンチ事件の写真に衝撃を受けたアメリ共産党員でユダヤ系高校教師、エイベル・ミーアポルである」というのはその象徴的なエピソードであろう (引用者中略) ローズヴェルト政権によるニューディール政策のもとで、左翼はこれを支持し人民戦線による橋頭保を築こうとし、また未だ克服できずにはびこる黒人への差別、暴力と戦った。30年代において「アメリカ」の理想を肯定し、かつアメリカの現状変革を促す、その手段としてのジャズという面もあった。

なお、ソ連では、

しかし戦後、冷戦の開始によって「ジャズは公式文化から追放される身となった。ジャズは性的放逸、野蛮、ブルジョワ的退廃の象徴」となり、サックスは没収され、演奏法も制約を受けることとなる。

*4:ELIZABETH BLAIR の”The Strange Story Of The Man Behind 'Strange Fruit'”という記事(https://www.wfae.org/post/strange-story-man-behind-strange-fruit-0#stream/0 )によると、最終的にミーアポルは、教員を辞めたあと、アメリ共産党も離脱している。

Abel Meeropol left his teaching job at Dewitt Clinton and eventually he quit the Communist Party. And that brings us to the second part of his story. It begins with the pseudonym he used for his songs and poetry. Lewis Allan was a very personal choice.

なお、

Robert Meeropol says growing up they had an old Japanese maple tree in their backyard that would drop lots of seedlings every year. 

だそうな。

*5:ウェブサイト・『Udiscovermusic.jp』の記事・「史上最高のジャズ・ドラマー50人」には、つぎのようにある(https://www.udiscovermusic.jp/stories/50-greatest-jazz-drummers-of-all-time )。

彼の特徴は、スウィングのグルーヴを保つために駆り立てるようなライド・シンバルを叩き出す一方で、バス・ドラムでリズムをシンコペーション(=不規則なオフビート)で強調し始めたことで、ジャズ通たちは、ケニー・クラークを“爆弾のようだ”と絶賛した。彼の演奏法は、全てのモダン・ジャズ・ドラミングのテンプレートを描いた。 

KEVIN WHITEHEAD の ”Kenny Clarke, Inventor Of Modern Jazz Drumming, At 100”によると、

Kenny Clarke used bass drum sparingly, often tethered to his snare, for dramatic accents in odd places ? what jazz folk call "dropping bombs." He drew on his playing for stage shows, where drummers punctuate the action with split-second timing. Clarke kicked a band along.

とのことである(https://www.npr.org/2014/01/09/261051016/kenny-clarke-inventor-of-modern-jazz-drumming-at-100)。「爆弾のようだ」云々とは、このことである。

*6:ジャズ・ジャイアンツが「ジャズ大使」として世界中に派遣されることになるのが1956年である。そうした動きに対して、

公民権運動の時代に黒人ミュージシャンらがジャズ=アメリカの等式に抗い、ジャズの所有権をみずからの手に取り戻そうとしたことは知られている。人種隔離を正当化する「ジム・クロウ」法に反発した彼らは、人種問題なき「アメリカ」を映し出そうとする「ジャズ大使」の派遣に反発し、ミュージカルを通してその矛盾を告発する。そのとき、ジャズは「黒く」なった

のである(齋藤嘉臣「「ジャズ=アメリカ」という考えは、まったくの誤解だ」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51798 )。
 「体制側」がジャズとアメリカとをイコール関係にせんとする志向する時期と、ジャズの「黒人性」が称揚されはじめる時期とは、およそ重なるのである。

*7:石田依子は、この時期のビッグバンド衰退について、次のように諸々の原因を挙げている(「抵抗と解放の音楽―ジャズの中の黒人抵抗史」https://researchmap.jp/read0194944/misc/22546391(PDFあり) )。

このように繁栄を続けていたスイング時代であったが、1941年の太平洋戦争の勃発によって、終焉の道を辿るようになる。戦争はビッグバンドの若手メンバーの徴兵による退団を引き起こした。また、戦時下特別税としてダンスが課税の対象になり、多くのボールルームが閉鎖に追い込まれた結果、ビッグバンドはその職場を失うことになった。さらに、追い討ちをかけるように、ガソリンの使用が配給制になつたことにより交通機関が制約され、ビッグバンドの巡業にも影響が出たのである。このようにビッグバンドが衰退していくと同時に、ニューヨーク 52丁目では、ダンスフロアをもたない規模の小さなクラブが続々と登場し、その需要に従って小編成のバンドが誕生していった。

*8:例えば、カウント・ベイシーは、戦後、グループ(ビッグバンド)を解散させている。じっさい、1950年の短編映画に、彼はセクステットで出演している(https://www.loc.gov/item/jots.200019682 )。ビッグバンド再結成は、1951年である。

*9:『ガーディアン』の”Ellie Greenwich”という記事(https://www.theguardian.com/music/2009/aug/27/ellie-greenwich-obituary )によると、

Both her parents were of Russian ancestry, but she was brought up amid two religions, Catholic on her father's side and Jewish on her mother's.

とのこと。エリー・グリニッチの場合、彼女の母がユダヤ系であるようだ。

*10:なお、全盛期のベンチャーズのメンバーで、で、カリフォルニア出身の者はいない。ドン・ウィルソンワシントン州出身、ノーキー・エドワーズワシントン州育ち、という感じである。一応西海岸だが、北である。
 なお、本書(大和田著)には、

NWAのメンバーでイージー・Eだけが実際にギャングとして活動していたという事実は、同じ西海岸のサーフ・ミュージック・バンド、ビーチ・ボーイズでデニス・ウィルソンだけがサーフィンを嗜んだという逸話を否応なく喚起する。

という素敵な一文が存在する(236、237頁)。

*11:リンク・レイと、デュアン・エディやサーフ・ミュージックのグループ・バンドとは、ひとつ断絶があると考えるべきであろう。(リンク・レイは英語版ウィキペディアでは、サーフロックの範疇に入るようだ(https://en.wikipedia.org/wiki/Link_Wray )。)
 『ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち』(https://rumblethemovie-japan.com/ )等を見てわかるように、リンク・レイの「ランブル」が下の世代に与えた影響は大きい。こうした爽やかではない曲もまた、少なからぬ後続世代に影響を与えていたのである。もちろん、ジミー・ペイジピート・タウンゼントニール・ヤングといった、爽やかであるよりも激烈(ハード)な者たちに、影響したわけだが。

 本書(大和田著)では、「サーフ・ミュージック」というより、「ガレージ・ロック」というジャンル(の側面)に大きく寄与したのが、「ランブル」と考えるべきであろう。

*12:長谷川博一ピート・シーガーの基礎知識その2~ ピート・シーガーの苦悩」には、次のようにある(ブログ・『HIGH-HOPES』のhttps://ameblo.jp/high-hopes/entry-10012780741.html より。 )。

元はといえば、生まれは決して貧しくはない人だ。一家はニューイングランドの伝統的なカルビン主義者で、ピューリタンの中でも桁外れのクリスチャンだった。シーガー家は何と4人の召使いと、20軒は優に建てられる地所の広さを持っていたという。その点では彼に得意の12弦ギターを伝授したレッドベリー(=ルイジアナの農場に生まれ殺人犯としての過去も持つ)や、人前での歌い方を教えたウディ・ガスリー(=複雑な家庭に育ち、てぶどう摘みや木材運搬の仕事のために早々に学校をやめた)とは比較にならない。いわゆるお坊ちゃん育ちの前歴は、ピートに逆の意味でのコンプレックスを与えてもいたようだ。とはいえ歴史の正確な伝承には学究肌の人間が必ず求められる。ピート・シーガーの役割とて重要なのだ。

*13:もちろん、「花はどこへ行った」とか、「ターン・ターン・ターン」とか、曲を書いているのだが。

*14:ところで、ピート・シーガーは、エレキ・ギターを携えたボブ・ディランについて、後年次のように答えている(”An interview with Pete Seeger.”By David Kupfer (Whole Earth Spring 2001 )https://web.archive.org/web/20041206201208/http://www.wholeearthmag.com:80/ArticleBin/406.html )。

It was at Newport, 1965. I couldn't understand the words. I wanted to hear the words. It was a great song, "Maggie's Farm," and the sound was distorted. I ran over to the guy at the controls and shouted, "Fix the sound so you can hear the words." He hollered back, "This is the way they want it." I said "Damn it, if I had an axe, I'd cut the cable right now." But I was at fault. I was the MC, and I could have said to the part of the crowd that booed Bob, "you didn't boo Howlin' Wolf yesterday. He was electric!" Though I still prefer to hear Dylan acoustic, some of his electric songs are absolutely great.

興味深いのは、ボブ・ディランにブーイングした観客たちに、「お前ら昨日ハウリン・ウルフにはブーイングしなかったじゃないか。彼もエレキギターを持っていたのに。」と言い返したというところだ。たしかに、ハウリン・ウルフに商業主義だ、と罵るやつは基本いないだろうなあ。

*15:いうまでもないが、これはけなしているのではない。
 「ウィ・アー・ザ・ワールド」を録音するとき、ディランは「ディラン」らしく歌えなくて、「スティーヴィー・ワンダーがピアノを弾きながらディランふうのフレーズを歌って口移しで指示」することで、やっと歌えた人である(萩原健太ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』(Pヴァイン、2014年)、228頁) )。ディランのものまねをしたスティーヴィーのまねをすることで、ピンチを乗りきった。ボブ・ディランとはボブ・ディランの物まねをする人である。
 遡れば、原型はジャック・エリオットとかになるのだろうが。

*16:実際のところ、マイケル・ジャクソンのムーン・ウォークとは何だったのか。ブログ・『STRONGER THAN PARADISE』の記事、「ムーンウォークの起源」には次のようにある(https://strongerthanparadise.blog.fc2.com/blog-entry-36.html )。

マイケルが「Billie Jean」のステージ・パフォーマンスで必ず見せる、前へ歩行しているように見せながら、後ろへ一直線に移動するあのトリッキーな動きは何なのかと言うと、これはバックスライド Backslide と呼ぶのが正しい。

そして、系譜を、フレッド・アステアマルセル・マルソー、バック&バブルズ遡り、

ひとつはJB経由のソウル・ダンス。もうひとつはヒップホップ以降のストリート・ダンス(主にポッピング。その原型であるロボット・ダンスは'70年代半ばからやっていた)。そしてもうひとつが、今回スポットを当てている、タップをメインに据えた20世紀前半のショウダンスである。

と述べる。マイケルのダンスは人種が混合されている、というのが、より正確なところではある。

*17:実際には、マイケル・ジャクソンは、「尋常性白斑」という病であり、顔の白さは彼の意思によるところではない。顔を白くしたのではなく、病気の影響を隠すために、ファンデーションを塗るしかなかったのである。
 なお、『MOVIE WALKER PRESS』の記事・「マイケル・ジャクソン長男、マイケルと同じ疾患で治療?」(https://movie.walkerplus.com/news/article/133887/ )によると、

2009年にはプリンス・ジャクソンの叔父が、自らとプリンスが同皮膚病をり患していることを告白。2014年にプリンスの脇の下に同じ症状が出ていることが発覚した

*18:あと細かいところだが、初版だと「キング・ダビー」となっている(214頁)。本書はキング・タビーなど、そちら方面はあまり得手ではないのかもしれない。前回指摘したイギリスの件も含め、この点は、(第11章のすばらしさを考慮しつつも、)本書の手薄なところとして指摘しておきたい。

*19:ウータン・クラン」のRZAは次のように述べている(ウェブサイト・『Illegal Assembly of Music---Dark Side---』の記事・「RZA(レザ)、ヒップホップ界における白人とヒスパニック系アメリカ人の存在について語る。」http://illegal-assembly-of-music-dark.com/rza-news-3/ )。

ヒップホップは黒人の音楽だって言うけど、Rick Rubin(リック・ルービン)がいる。DJ Charlie Chase(チャーリー・チェイス)はプエルトリコ人だ。俺たちは白人やヒスパニック系アメリカ人のブラザーたちのことを忘れてはいけない。

チャーリー・チェイスの存在は、クール・ハークやグランドマスター・フラッシュに比べると、日本では知られていないかもしれない。

*20:『世界大百科事典』には次のようにある(以下のURLを参照https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%90%E3%83%8D%E3%83%A9-115946 )。

キューバでは1800年ごろにハバネラhabanera(発音はアバネーラ)が生まれ,19世紀中葉にヨーロッパにも伝えられた。ルンドゥーもハバネラも付点8分音符と16分音符を組み合わせた軽く跳ねるリズム感をもち,ポルトガルもしくはスペインの音楽にアフリカ的リズム感を加味したものと考えられるが,これがその後のラテン・アメリカの音楽の基調となったといってよく,19世紀半ばにブラジルで生まれた器楽の音楽ショーロも,19世紀末にアルゼンチンのブエノス・アイレスで生まれた踊りの音楽タンゴも,このリズムがもとになっている。

音楽ジャンル同士の分断と絡み合いを史的にたどる。ブルースとカントリー、カントリーとフォーク・・・ ―大和田俊之『アメリカ音楽史』を読む・前編―

 大和田俊之『アメリ音楽史』を再読。

 内容は紹介文の通り、

ロック、ジャズ、ブルース、ファンク、ヒップホップ…音楽シーンの中心であり続けたそれらのサウンドは、十九世紀以来の、他者を擬装するという欲望のもとに奏でられ、語られてきた。アメリカ近現代における政治・社会・文化のダイナミズムのもとその“歴史”をとらえなおし、白人/黒人という枠組みをも乗り越えようとする、真摯にして挑戦的な論考。

という内容。
 実に面白い。アメリカ音楽を愛する者は必読である(というか、みな既に読んでいるはず)。

 とりあえず、「偽装」をテーマにした「イギリス音楽・小史」も、誰かに書いてみてほしい。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

フォスターが描いた「黒人」像

 フォスターは黒人女性を「レディー」と呼び、それまでほとんど歌われることがなかった黒人奴隷の内面性を描写した。 (15頁)

 フォスターはミンストレル・ショウのような「低級な」部隊の作曲家であることに悩み続け、オペラなどへの憧れを隠そうとはしなかった。
 そして、洗練された人々の趣味にも合うよう作曲したのである。
 結果、彼の描く「黒人」はより人間的な性格を帯びるようになった。
 それが、フォスターの曲が後に多くのアフリカ系アメリカ人作曲家によって取り上げられる理由である。*2

ミンストレル・ショウとミソジニー

 ミンストレル・ショウを特徴づけるこうしたミソジニー(女性嫌悪)は、十九世紀アメリカにおけるフェミニズム台頭と深くかかわりがある。 (21頁)

 1843年にマーガレット・フラーが女性の権利に関するエッセイを執筆した時代の話である。
 女性の社会進出は少しずつ進んでいった。
 伝統的な家族像が崩れ、男性の威厳が疑問視される、そんな時代に、ミンストレル・ショウの過剰な男性性とミソジニックな表現は、そうした社会情勢への反動と女性への恐怖を映していたという。
 「ミス・ルーシー・ロング」という曲が例として挙げられている。*3 *4

ミンストレル・ショウとアイルランド

 初期ミンストレル・ショウのステージに多くのアイルランド系移民が出演していた (22頁)

 そして、20世紀になるとユダヤ系が出演するようになる。
 なお、彼らの演じたミンストレル・ショウの「黒人音楽」は、実際にはアイルランドのメロディに黒人英語の歌詞を載せたものである。*5 *6

ブルースのイメージとその転換

 一九一〇年ごろまでに南部のほとんどの黒人コミュニティにヴォードヴィル劇場が存在し、そうしたステージでブルースは頻繁に歌われた (40頁)

 ブルースは、初期から商業主義にじゅうぶん漬かっていた音楽だった。
 レコード各社がレイスレコード部門を立ち上げる前は、ブルースも、他のポピュラー音楽と同じくリリースされた。
 分類されてから、サッチモやD・エリントンなどを除いて白人たちには届かなくなったのである。
 レイス・レコードという分類自体が、そうした事態を生じさせたのだという。
 それまでブルースとともにヒルビリーを歌っていたアフリカ系アメリカ人ミュージシャンは、一九二〇~一九四〇年代にかけて殆ど後者をレコーディングすることはなかったという。

 ファッショナブルな女性シンガーがバンドを従えて流行の音楽をヴォードヴィルのステージで披露する ―― 当時の一般的な「ブルース」のイメージはこのようなものである。 (41頁)

 こうしたイメージ *7 が徐々に変わっていった。
 今我々が想像するようなタイプのブルースのイメージへと。

マーケティングと人種文壇

 レイス・ミュージックは、結果的に<人種>による音楽ジャンルの分断を促進した。 (56頁)

 レコード会社によるマーケット戦略によって音楽が分類され、南部音楽の歴史的な人種混交性が隠された。*8 *9
 こうして、ブルースの「黒人性」、カントリーの「白人性」が強調されるようになったのである。
 それは、アメリカ社会に浸透していた「ジム・クロウ法」(黒人の一般施設利用を制限した一連の法律)によって、法的にも人種的にも分断されたアメリカ社会の反映だった(57頁)。

ブルー・ヨーデラー

 カントリー・ミュージック史上、最初のスターといえるロジャースは「ブルー・ヨーデラー」として知られており、数多くの「ブルース」録音も残している。 (56頁)

 ジミー・ロジャースの話である。
 ブルースとカントリーの垣根は実はあいまいだったのである。*10 *11

『白鯨』再評価と第一次大戦後の米国

 生前はほとんど評価されなかった『白鯨』(一八五一)が突然「アメリカ文学史上の大傑作」として持ち上げられ (60頁)

 第一次大戦後、アメリカは世界における政治的地位が上がった。
 そして、アメリカは大国として、ヨーロッパとは異なる独自文化を探求していくようになる。*12
 その結果、『白鯨』が発見されたのである。
 ブルースやヒルビリーアーカイブ化されたのも、そうした文脈においてである。
 著者は他に、一九三五年の共産党の人民戦線路線への転換によって、土着的民衆音楽やフォークソングが左翼にとって重要な文化と認識され、ラディカルな白人知識人にも支持されるようになった事を挙げている。

フォークとカントリーが別れたとき

 ジョセフ・マッカーシー上院議員は「フォーク」という用語を共産主義と結びつけて攻撃した (62頁)

 マッカーシズムでおなじみのマッカーシーである。
 そうした結果メディアは一斉に「フォーク」という語を避け、「カントリー」を使うようになって、定着した。*13
 こうして、もとは同じカテゴリーを指していた「フォーク」と「カントリー」が政治的に離反した。

ミュージカルとティンパン・アレー

 クラシック音楽声楽家は通常二オクターヴ程度の音域をコントロールするが、そうではない歌手の声域は比較的限られている。そのため、メロディはより狭く、より低い音域で組み立てられるようになる。 (78頁)

 世紀末転換期、それまでクラシック音楽の訓練を受けた歌手に代わって、別の歌唱法を用いるシンガーが現れる。
 子音をはっきり発音し、歌詞の聞き取りやすさの方を重視する「バラッドシンガー」である。(アル・ジョルソンなど)
 オペラ調の舞台だと起伏の激しいドラマチックなメロディが好まれたが、ミュージカルだと聞き取りやすさが優先されて簡潔な楽曲が好まれる。
 ティンパン・アレーの楽曲構造は、ミュージカルの変容によっても説明が可能である。*14

ウクレレとハワイアン音楽

 ウクレレとスティール・ギターという二つの楽器を本土にもたらした (83頁)

 ハワイアン音楽の功績である。
 ハワイアンは、1910年代に流行した。
 ハワイアンブームの結果、ミンストレルショウで、黒人役がウクレレをもってフラダンスを踊ることもあったという。
 ウクレレは元々、マデイラ諸島由来で、1870年代に移民とともにハワイに持ちこまれたという。*15

アコギのイメージが求められ

 ライトニング・ホプキンスとジョン・リー・フッカーは一九五〇年代のフォーク・リヴァイヴァルによって「再発見」されるが、その時点で彼らはすでにエレクトリック・ギターを中心に演奏していた (44頁)

 ところが、それが聴衆は、フォークミュージックのファンはブルースに商業化されていない素朴な音楽を求めていた。
 結果、二人はアコギに持ち替えたという。*16

 

(未完)

*1:本書はアメリ音楽史に特化しているために(当たり前だが)、アメリカとイギリスの音楽の絡み合いを描き切れていないところに、弱いところがあるので、ぜひ補強できる本も読んでみたい。ただし、著者・大和田と長谷川町蔵『文化系のためのヒップホップ入門 2』の86頁などを見るかぎり、大和田はあまりイギリス音楽にさほどよい印象を抱いていない(米国的いなたさが英国に入ると漂白殺菌されてしまう傾向がある、と。)ようなので、他の人に書いてもらいたいところ。

 また、「偽装」や後半に頻出の「空間性」をテーマに歴史を読解するあまり、議論にやや性急なところがみられることも否めない。もちろん、そういうところを考慮してもなお、本書はすごい良書なのだが。

*2:

多人種と多分野の研究者及び演奏家とのインタビューには,フォスターが人種や身分によってアメリカを分断したのではなく,むしろ統一しようと努力したことが具現化されている。フォスターは,奴隷制をめぐる論議真只中でアフリカ系アメリカ人の苦悩を微妙な歌詞で描いたのである。「ネリィはレディ」や「オールド・ブラック・ジョー」などの歌は大衆のアメリカ黒人像に威厳を添えた。アフリカ系アメリカ人指導者フレデリック・ダグラスは,フォスターの「ケンタッキーの我が家」が奴隷制度への同情を喚起し,反奴隷主義を拡張したと指摘している

以上は、ドキュメンタリー・「スティーブン・フォスター」の紹介文からのもの。宮下和子「スティーブン・フォスター再発見」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006023568 )からの二次的な引用による。
 なお、実際のところフォスターは、

フォスターはというと,1856 年の大統領選ではモリソンに協力し,ブキャナン・グリークラブ音楽監督としてキャンペーン・ソングを書く一方,南北戦争中には,「父なるアブラハム,我々も続きます」(We Are Coming, Father Abraam)(1862)など,共和党支持の歌を書いた

という感じだったようだ(宮下前掲「スティーブン・フォスター再発見」)。兄のために奴隷制を擁護する側に協力をする一方で、こうした唄もまた作っていたのである。

*3:ブログ・”Digital Humanities”の "MISS LUCY LONG" 1842 の項目(https://motoole.omeka.net/exhibits/show/u-s--mexico-war-songs-and-musi/-miss-lucy-long--1842 )には、

This song not only narrates white male-black female slave sexual fantasies, but celebrates the blatant misogyny and perverted sexual dominance found in minstrel versions of “Lucy Long/Neal

とある。

*4:楠原(斎藤) 偕子は次のように述べている(「19世紀アメリカのポピュラー・シアター--生成期のミンストレル・ショウ--演劇的仕掛けとアイデンティティ形成」https://ci.nii.ac.jp/naid/110006676005 )。

ミンストレル・ショウにおいては、演者も当初の観客もほとんど男性によって占められ(男優が女性役も演じた)、性について触れられることもあり、ジェンダーの観点から問題視もされてきた

*5:楠原(斎藤) 偕子は次のように述べている(前掲「19世紀アメリカのポピュラー・シアター」)。

黒人自身の歌にアイルランドスコットランドなどの民謡の旋律が入っていたとも指摘されている。 (引用者中略) ある点では、ミンストレル・ショウがアフリカ系の文化のみでなく、さまざまの人種背景の文化がミックスされた上に形成されているということを如実に示していた

*6:「黒塗り」の話もしたのだから、「白塗り」の話もしておくべきだろう。以下、Marvin McAllister の”Whiting Up : Whiteface Minstrels & Stage Europeans in African American Performance”という書物に対する書評である(外岡尚美筆。https://ci.nii.ac.jp/naid/130005457799 )。

あえて逆ミンストレルとでも呼ぶべき白塗りと白人ぶりの行為「ホワイティング・アップ」を伝統として抽出し、そこに「アクティング・ホワイト」批判に集約されるような〈猿真似〉ではない、主流文化との同一化と抵抗というアイデンティティの複雑な交渉戦略を歴史的に読み取った

*7:濱田廣也は次のように書いている(「【特集:伝えておきたいブルースのこと】⑦溝の中のスミスさん」https://bsrmag.com/special/talking_about_the_blues_07/ )。

たまたまスミス姓が揃ったのだが、ブルースのレコーディング史の最初期を彩った忘れられないシンガーたちだ。彼女たちの音楽スタイルは「クラシック・ブルース」あるいは「ヴォードヴィル・ブルース」と呼ばれてきた。 (引用者中略) 雨後の筍のごとく、各レコード会社がメイミーと同じようにミンストレル・ショーやヴォードヴィル(歌や踊りなど多彩な演芸を見せた一座の見せ物)で活躍していた女性シンガーを録音し始める。その中で最大のスターとなったのが、「ブルースの女帝」ことベッシー・スミス(1894年生)だ。

*8:ウェブサイト・udiscovermusic.jpの記事「「誰が最初にブルース・ソングを書いたのか?」:ブルースと誕生とレコード会社の変遷」https://www.udiscovermusic.jp/features/history-of-recorded-blues )には、レイス。ミュージック(レコード)という名称に関して、次のようにある。

1941年2月、Billboard誌は初のブラック・ミュージック専門チャートを導入し、‘ハーレム・ヒット・パレード’と名づけた。その後、同チャートは‘ジューク・ボックス・レース・レコード・チャート’に改名され、1949年には‘リズム&ブルース・チャート’となった。

最初は‘ハーレム・ヒット・パレード’という名前だったのである。それが「レイス」という名前になってしまっていた。

*9:Guthrie P. Ramsey, Jr. の”Race Music”の中の記述によると、

But the word at one time represented a kind of positive self-identification among African Americans. The black press routinely used "the Race," for example, as a generic term for African Americans during the first half of the twentieth century. Furthermore, calling oneself or being referred to as a race man or race woman became a way to display pride in being an African American and in having efficacy in the affairs of one's immediate community. I use the word race in these senses, not to embrace a naive position of racial essentialism, but as an attempt to convey the worldviews of cultural actors from a specific historical moment.

とのことである(https://web.archive.org/web/20061110061839/http://www.ucpress.edu/books/pages/9758/9758.ch01.html )。
 「レイス」を、肯定的にアフリカ系アメリカ人たち自身が日常あるいはメディア上で使用していた時代があったようである。

*10:ブログ・「ブルブル ブルース (Blues)」は、 次のように書いている(http://blog.livedoor.jp/ogitetsu/archives/51265349.html )。

実は彼の歌は、同じミシシッピ州出身のブルースマン達(ハウリング・ウルフ、マディ・ウォーターズ、ビック・ビル・ブルンジー)等にも、好まれて聞かれたようです。ある雑誌の取材でウルフが「黒人の音楽しか聞かないのか?」と聞かれて、こう答えています。/<白人の中でも何人かのミュージシャンは好きだよ。例えば、ジミー・ロジャースの歌はラジオでかかると良く耳を傾けたものさ。白人の旦那の中にも、ブルースが歌える人がいるってことじゃないか>

*11:ハウリン・ウルフは、ジミー・ロジャーズとの思い出について次のように語っている(「HOWLIN’ WOLF INTERVIEW」『The Arhoolie Foundation』https://arhoolie.org/howlin-wolf-interview-2/)。

I didn’t play no shows. He just come down through the prairies, you know. He had different friends down through there, you know? On some of those plantations, you know, he had some friend. While he’d been down there, he just taken up with me. It seemed like I had good sound sense. I was a good boy. So when I’d sit down, he’d be out there on the porch playing to the white people. When he get through playing to the white people, he said, “You seem like you’re innocent.” “Yes,” I’d say. “I am.” So he’d sit down and yodel to me. (引用者中略) Yeah. He’d sit down and yodel to me and then I’d get out in the field and I’d yodel. I wouldn’t yodel just like him. I brought mine down more different. You know.

*12:ただし、西谷拓哉は次のように述べている(「1920年代のメルヴィルリバイバル再考 」https://researchmap.jp/read0014907/published_papers )。

メルヴィルリバイバルの中心はイギリスであった。 (引用者中略) 『白鯨』に用いられている手法には、伝統的な首尾一貫した語りの破壊、断片的で非直線的な語り、口語と文語の混在、内的意識の表現、多様な語り手の混在による複数の視点の導入など、モダニズムと相通じるものが多く見られる。そのような小説手法の現代性が、モダニズム期にメルヴィルが再評価された理由の一つであろう。

まずはイギリスで「再発見」されるというのは、ブルースマンとか、そんな感じに似てなくはない。

*13:著者は別の記事で次のように書いている(「音楽メディアとランキング・システム」http://www.webchikuma.jp/articles/-/1021 )。

カントリー・ミュージックのチャートについて特筆すべきことは、そのジャンル名の変遷である。しばらく「フォーク・レコード」という名称で掲載されたランキングは1949年6月25日号から「フォーク(カントリー&ウェスタン)」と括弧が添えられるようになり、52年11月15日号には「カントリー&ウェスタン」へと移行する。 (引用者中略) カントリー・ミュージックというジャンル名そのものが第二次世界大戦後に成立したものだが、それはフォークという左翼的な響きを持つ言葉からの離反が大きな理由のひとつであった。戦後の保守的な雰囲気に後押しされるように非米活動委員会が活発化し、赤狩りの恐怖がアメリカ社会を覆うなか、「フォーク」はあまりにも政治的にラディカルなニュアンスを持ち過ぎてしまったのだ。

 なお、ウェブサイト・『洋楽データベース』の記事・「ビルボード・カントリー・チャート=12-10 ディスク・ジョッキー開始」には次のようにある(https://yougaku-data.com/res/today-what-res.php?SY=1949&M=12&D=10&TWID=TW000807 )。

3番目のカントリーチャートとして、ラジオ音楽番組での放送回数を集計する「Most Played By Folk Disk Jockeys」がスタート。カントリー部門は1944年にジュークボックスの演奏回数を集計する「Most Played Juke Boxes Folk Records」、1948年にレコードの売上を集計する「Best Selling Folk Retail Records」がスタート。同チャートを加えて3チャート時代に移行します。

やはりカントリーは、「フォーク」と呼ばれていたのである。

*14:勝鬨美樹は次のように書いている(「ジャンゴ・ラインハルト#05/大量生産の嵐」https://note.com/mikebear555jp/n/nf7f2213016bf )。

アメリカ製音楽には、特筆すべき特徴があった。/それは「分業化」「量産化」されていることである。「製造」は殆どマンハッタンの20丁目ブロードウェイ沿い「ティンパンアレー通り」でされた。多くの音楽出版会社がこの地域に集まっていたのだ。彼らは「音楽製造」を、作曲家/作詞家/編曲者に分業した。時には作曲家さへ主旋律を書く者と形式を整える者を分業化した。/そのために原則的なデファクト・スタンダードがあり、その類型が守られた。すなわち楽曲は原則的にAABA形式であること。主旋律は長くとも8小節であること。テンポは一定で、踊れる速さであること。3拍子か4拍子を最後まで守り、変拍子を含まないこと。メロディはコードネームを背景に紡がれること。コード進行は原則的にⅡ-Ⅴ-Ⅰであること・・である。こうした形式は以降のポピュラー音楽の方向性を完全に決めた。

聞きとりやすい歌と聞きやすい曲構造の組み合わせである。

*15:よしみ Nui だいすけ「ウクレレの歴史1」によると、ウクレレの歴史は以下のとおりである(https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/203 )。

1879年8月の暑い土曜日、イギリスのリバプールからやってきた船がホノルル・ハーバーに着きます。乗っていたのは、東大西洋のポルトガルマデイラ諸島からの移民の一行、427人。/4ヶ月の航海を経てたどり着いたホノルル港の船のデッキで、喜びの歌を歌い始めた男がいました。ポルトガルの小型楽器Machete(マシェティ。カヴァキーニョ、ブラガ、ブラギーニョという説もあるが、すべて同類の小型弦楽器)をかき鳴らしながら歌ったのは25歳の青年ジョアン・フェルナンデス。この時ハワイの人々が目にしたのが、後にハワイの代名詞のような楽器となるウクレレの原型だという説です。

*16:ライトニンの方は、有名な1959年のアルバム・『ライトニン・ホプキンス』のことだろう。以下、P-VINEの紹介文(http://p-vine.jp/music/pcd-93669 )から。

1959年、ヒューストンを訪れたブルース研究家/プロデューサーのサム・チャーターズがライトニンを“再発見”し、56年以来録音から離れていた彼にアコースティック・ギターを持たせて録音した記念碑的スミソニアン・フォークウェイズ盤だ

裏付け的に大丈夫か、と思うところも、もちろんなくはないのだが、読んでて面白いのは確か。 ―大森洋平『考証要集』を読む―

 大森洋平『考証要集』を読んだ。

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料 (文春文庫)

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料 (文春文庫)

  • 作者:大森 洋平
  • 発売日: 2013/12/04
  • メディア: 文庫
 

 内容は紹介文の通り、

NHKのドラマ、ドキュメンタリー番組で時代考証を担当する大森洋平氏(NHK職員)が書きためた「考証メモ」の集大成。番組での誤用例やエピソードをひきながら、間違いだらけの歴史の常識を丹念に覆してゆく。あいうえお順に約500項目が並ぶ。NHKの制作現場へ向けて作られた資料だが、著者のサービス精神とあいまって一般読者のニーズに応える作りとなっている。事典としても使うこともできるし、読み物としても面白い。

というもの。
 何よりもどこから読んでも面白いのがこの本の魅力と言ってよい。
 実証的に大丈夫か、と思うところも、もちろんなくはないのだが。

(もっと他の資料(史料)で補強してほしい所は割とある。*1

 以下、特に面白かったところだけ。 

江戸の刺青といえば、火消や駕籠かき

 昔の博打うちは、現代のやくざほど刺青をしなかった (44頁)

 日本人が彫り物を始めるのは江戸期からである。
 林美一によると、『水滸伝』絵入本の流行以降だという。

 刺青を自慢するのは火消や駕籠かきで、ばくち打ちはむしろ白い無垢の肌を誇ったと、下母澤寛『続ふところ手帖』を参照して著者は述べている。*2

「お疲れさま」と「ご苦労さま」

 いまでこそ立派に市民権を得ている『おつかれさま』だが、その時分はもっぱら芸界や水商売の世界で用いられていて、少なくとも山の手の生活圏には無かった (61頁)

 矢野誠一『舞台人走馬燈』で、少年時代(1946年)に隣近所だった長谷川一夫の言葉として、描かれている。*3

江戸の人は泳げなかった?

 江戸時代に水練は武術であり、船頭や漁師以外の一般町人は泳ぎを知らなかった (63頁)

 一般の人が泳げるようになるのは、近代以降ということになる。*4

「御意」と「了解しました」

 「了解」の意味にしたいなら「御意のままに!」である。 (88頁)

 御意というのは、貴方のお考えの通りです、という意味(YES)であって、「了解しました」の意味(OK)ではないという。*5

手裏剣は忍者の専売特許ではない

 手裏剣は忍者の専用ではなく、普通の武芸だった (127頁)

 時代考証家・名和弓雄に聞いた話だという。*6 *7
 なお、時代物で使うなら、棒手裏剣がお勧めだそうだ。

座布団は比較的最近のもの?

 全国に普及するのは明治以降 (136頁)

 座蒲団の話である。
 幕末ごろに、京阪より西の商家などで使用されるようになったが、江戸ではほぼ使われなかったという。*8
 また、プライベートなものであって人前では使わなかったとも。

 林美一『時代風俗考証事典』が参照されている。

直箸が行われるまで

 皆で鍋を囲んでつつきあう食べ方は、江戸では下衆の極み (237頁) 

 三田村鳶魚情報(『江戸生活事典』)である。
 いったん各自の椀に取り分けてから、食ったという。*9
 そもそも、江戸の料理屋に鍋料理は無かった。
 牛鍋でさえ、一人前ずつの小鍋が基本である。
 鍋料理は地方出身者が急増した明治後半以降に、江戸に登場したとする。

虹は凶兆? 瑞祥?

 古代中国とその影響を受けた昔の日本では、虹は凶兆とされていた。 (241頁)

 虫偏である事に注意しなければならない。*10
 じっさい、海音寺潮五郎も、小説『海と風と虹と』で、虹を不吉な兆候として扱っている。

万歳三唱は近代のもの

 明治二二年二月一一年の憲法発布式典で帝国大学の教授、学生らが行ったのが最初。 (258頁)

 万歳三唱の話である。*11

 英語の歓呼「ヒップ・ヒップ・フレー!」三唱を基に考案されたという。

バゲットは比較的最近の生まれ

 「バゲット」が発明されるのは一八八〇年代以降 (270頁)

 それ以前のフランス人は丸いパン・ド・カンパーニュみたいなパンを食べていたという。*12

槍はいつ頃生まれたか

 槍の発明は南北朝時代 (312頁)

 史料上、そのように見てよさそうである。*13

 

(未完)

*1:あと、 え、この人の本を参照するの? みたいのもある。

*2:山本芳美は次のように書いている(「文身禁止令」の成立と終焉-イレズミからみた日本近代史-」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005258980。なお、註番号は削除して引用を行った。)。

延宝,元和のころ(1673 - 1683)に,勇み肌や侠客に,腕に「南無阿弥陀仏」などの文字を彫ることが流行し出す。そして明和3(1766)年前後には龍,般若の面,眉間尺の首,倶利伽羅不動,獄門(生首),ろくろ首などの文様を腕や背中などに彫る,侠客が多くなってきたと伝えられる。こうした文様のイレズミをすることで男伊達を気取ったり,威勢をかったのである。 (引用者中略) 江戸時代末期になるまで,背中や腕をキャンバスに見立てて絵画的なイレズミを彫り入れることはなかった。明和のイレズミは小模様を身体の様々な箇所に彫る,雑然としたものであった。現在主流のイレズミは,歌川国芳が「通俗水濡傳豪傑百八人之一個」を文政10(1827)年に描き,中国の小説『水濡伝』の英雄の全身にイレズミを配したことが一つのきっかけとなり,総身彫りが流行り出したことに端を発する。以後イレズミの文様は,燗熟期にあった浮世絵の影響を受け絵画的要素を深めていく。

山本の説明だと、江戸期の侠客も刺青を入れているようである。

*3: 戦前も「お疲れさま」は、小説内で使用されることはあった。
 初出1925年の小川未明「白い門のある家」には、

「こんばんは、お疲れさま。」と、うしろから呼びかけました。

と出てくる。小川は新潟出身である。同じく初出1925年の北原白秋「フレップ・トリップ」にも、

何でも鉄道局との打ち合せも済んでいたものと思われたし、東京の旅客課のK君も附いていることなり、や、お疲れさま、どうぞとあったので、そこで一同が安心して鞄を投げ出し、埃っぽい編上げの紐も解いたのである。

と出てくる。北原白秋は熊本出身である。

 要は、地方出身の作家は、普通に「お疲れさま」を使用しているのである。
 一方、牛込出身の夏目漱石は、『こころ』で、

先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。

と「ご苦労さま」を使用している。ただし、「先生は全く方角違いの新潟県人であった」とあるように、この人物(「先生」)は新潟の人なのだが。

 やはり、山の手出身者は、使わなかったのだろうと思われる。

 以上、手間を省くために、青空文庫を参照したことをお断りしておく。

*4:そもそも、泳ぎは訓練しないと身につくことはない。鈴木暁子「ベトナム人は泳げないってホント!?」という記事(https://globe.asahi.com/article/11714935 )によると、以下のとおりである。

ベトナムネット(電子版)が保健省のデータとして報じた内容によれば、ベトナムでは海や川、湖などで溺れて命を落とす19歳以下の子どもが年間約3500人いる。「泳ぎ方を知っている子どもは全体の3割」(保健省官僚)で、水の事故の件数は東南アジアの国の中でもきわめて高いという。

*5:『精選版 日本国語大辞典』には、

③ (「御意のとおり」の意から) 目上の人の意見や質問などにたいして、同意を示したり肯定したりするのに用いる。転じて、感動詞的にも用いる。ごもっとも。そのとおり。/※咄本・無事志有意(1798)年の市「『証拠はあるか』『御意(ギョイ)でござります』」

とある。

*6:山田雄司は次のように述べている(「忍者の聖地 伊賀 第17回 手裏剣」https://www.igaportal.co.jp/?page_id=1897 )。

忍者が実際に手裏剣を使ったという史料はこれまで見つかっていない。だが、手裏剣が存在しなかったわけではない。元和4年(1618)成立の小笠原昨雲『軍法侍用集』「投げ松明の事」では、 (引用者中略) 「しりけん(手裏剣)」について記されている。ここでは松明を「手裏剣」にするのがよいと書かれているが、この記述からは、何でも手に持って投げるものを「手裏剣」と呼んでいることがわかる。

また、

こうしたことからすると、新陰流で重要視されていた「手裏見」「種利剣」といった考え方が、新陰流で用いられていた打物の名前として使われるようになり、そして「手裏剣」が成立したのかもしれない。

元々考え方の名前だったものが、やがて、打物の名前「手裏剣」となっていた可能性を指摘している。

*7:成瀬関次「手裏剣の硏究」は、十五代将軍・徳川慶喜が手裏剣術に熟達していた話を、公爵家古澤家令から聞いた話として、書いている(雄山閣編輯局編『武具甲冑之研究』(雄山閣、1941年))。そして、孫の徳川慶光蔵のより、手裏剣の画像を掲載して解説している。

 ここでいう古澤家令とは、古澤秀彌(慶喜家4代家令)を指すものと思われる。

*8:原島陽一「座布団史考」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005680744 )には、「例えば江戸城大奥の女中も座布団を用いている。但し,それは各自の部屋でくつろいでいる時に使用するのであって,同輩の客であっても,座布団を出さず,自分もこれを用いない定めであった」、「江戸の料理屋・茶屋でも同様であって, (引用者中略) 客に座布団を供することを明記するようになるのは明治以後である。」といった記述が見いだせる。

*9:廣瀬直哉は次のように述べている(「食事動作から食事マナーを考える : 「嫌い箸」を例として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006778994 )。

「直箸」は、取り箸を使わずに自分の箸で大皿の料理を取ることであり、適切な道具を選択しない逸脱と考えられる。取り箸がない場合は箸を逆にしてはさむこともあるが、これも逆さ箸と呼ばれマナー違反とされることがある。直箸は文化による差があり、通常取り箸を使わない中国や韓国においてはマナー違反ではないとされる。

同じ東アジアでも、国で随分と違うようである。

*10:田村専之助は次のように述べている(「奈良朝人の自然観と季節,気象観」https://ci.nii.ac.jp/naid/40002510291 (PDFあり))。

雄略紀・3年4月には,/にわかにして,皇女あやしき鏡をもちて,五十鈴河上にいでまして,人のあるかぬところを伺いて,鏡を埋めてわなぎぬ.天皇皇女のいまさざるを疑い,つねにやみの夜に,とさまこうさまに,もとめしめたまう.乃ち河上において虹の見ゆること,オロチの如くて四五丈の者あり.虹の起つ処を掘りて神鏡をえたり.(書紀・雄略紀)/と,あるが,これは虹のたった処には宝物がある,とする俗信と関係のある話に違いない.

著者の述べるところに反して、じっさいには、古代においても、虹はただ単に凶兆というだけではなかったようである。

*11:向後恵里子は万歳三唱の起源に関して、次のように書いている(「万歳をすること/させること 統治の身ぶり」https://www.jc.meisei-u.ac.jp/action/course/097.html )。

日本国語大辞典』であれば、その解説として、石井研堂の『明治事物起原』がひかれています。/近年万歳を高唱することは、明治二十二年二月十一日に始る。この日帝憲法発布の盛典あり、主上観兵の式を行はせらる、時に大学生、鹵簿を拝して『万歳』を歓呼せしに始る

ちなみに本書(大森著)も、石井研堂明治事物起原』を参照している。

*12:ウォール・ストリート・ジャーナルの記事・「半焼けバゲットが好まれるようなったフランス―嘆く職人も」(https://web.archive.org/web/20151122203014/https://jp.wsj.com/news/articles/sb10001424127887323480904579027372498622640 )は、次のように伝えている。

現在のようなバゲットが作られるようになったのは1920年代。パン職人が午後10時から午前4時まで働くことを禁じた、当時の保護的な労働法の副産物と言える。この時間帯に仕事ができないと、それまで一般的だった丸型のパンを朝食時までに焼き上げることは不可能だ。そこで新たに考案したのが、製造時間を短縮できる細長いパンだった。フランス語で小さな棒を意味するバゲットは朝食に不可欠なものとして、フランス全土に急速に浸透していった。

こちらは、1920年代だとしている。

*13:近藤好和によると、1334年、「矢木弥二郎」が胸を突かれたという「矢利」が、槍の初見であるという(『騎兵と歩兵の中世史』(吉川弘文館、2005年)99頁。)。
 もうこの頃には、槍と呼ばれるものは、登場していたと考えてよさそうである。もちろん、それ以前から、槍の形状をした武器が存在していたのかもしれないが。
 じっさい、ColBaseの「槍 銘 来国次」のページ(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/F-19969?locale=ja )よると、

平安から鎌倉時代に槍が使用された記録はないが、元亨三年(1323)の奥書にある『拾遺古徳伝絵』(茨木・常福寺蔵)には片刃の槍が描かれており、南北朝の史料からも槍の記述がみられるようになる。この来国次の槍は在銘では最古の作品である。(旧題箋)

とのことである。