現実空間で仲間とつるむ場がないからネットに向かっている、という「若者」の現実。 -ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる』を読む-

 ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる』を読んだ(再読)。

 内容は紹介文の通り、

本書は、若者メディア研究の第一人者ダナ・ボイドが、若者、親、教育関係者を含む、166人のインタビューからソーシャルメディア利用の実態を読み解くもの。若者たちを観察してみると、ネットにはまっているわけでも、ヘンなことばかりしてるわけでもなく、親や教師が顔をしかめる“ネットの問題”は、大人の窮屈な監視をかわすための処世術だったり、現実空間で仲間とつるむ場がないからネットに向かっていたり……、ネットでつながる事情はなかなか複雑です。そんな、つながりっぱなしの若者たちの実情に深く迫ることで、じつは、わたしたちのネットとの付き合い方も透けて見えてきます。

という内容。
 デジタル技術がどんなに進歩してもなお、読む価値が本書にはある。
 なお、著者は姓名の頭文字を小文字で表記しているが、これはベル・フックスの影響だと訳者(野中モモ)は述べている。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

テクノロジーのせいにされ

 ミシンが導入されたとき、女性が脚を上下させることが何か性的な影響を及ぼすのではないかと恐れた人々がいた。ソニーウォークマンは、人々がお互いにコミュニケーションを取ることを不可能にし、別世界へ消え去ることを奨励する邪悪な機械として見られていた。 (29頁)

 テクノロジーというのは大体、悪いことの原因にされがちである。*2
 あるある。

友達と直接会う代替として

 ティーンの多くは自分で車を運転できるようになるまで家に閉じ込められている。 (引用者中略) かつてショッピングモールは郊外のティーンにとって主要な拠点だったが、以前に比べてずいぶんと行きづらい場所になっている。私有空間であるショッピングモールでは、経営者が望むままに気に入らない客の利用を拒否することができ、その多くが10代のグループの立ち入りを禁じている。 (37頁)

 10代が互いに集える公共空間が、減っている。
 そうした空間に入ることのできる機会も減っている。
 だからSNSが流行ったと著者は述べる。*3
 日本もおそらく、10代の居場所は似たことがいえるように思う。

忙しさゆえに

 直接に会うほうがずっといいけれど、日々の生活の過密スケジュールと肉体的移動の自由の欠如と親たちの恐れによって、そうした直接の交流を持つことがどんどん不可能になっている (38頁)

 現代人は忙しい。
 とうぜん子供も忙しい。*4
 それもまた、SNSに頼る理由である。
 彼らは、友達などと連絡を取るのを、SNSを使用する主目的にしている。*5

テクノロジーに通暁してるとは限らない

 ティーンがソーシャルメディアを楽々使っているからといって、彼らがテクノロジーによく通じているとは限らない。 (38頁)

 実際その通りであろう。*6

森を作る

 有名人の多くは、無制限にシェアしている見せかけによって、効果的にプライバシーが守られると考えている。 (120頁)

 見たところ露出癖とされかねない行いが、いかに彼女の人生のより親密な部分へ注目を向けさせないための余裕を与えているか  (121頁)
 自分から率先して情報公開してしまう。
 そうすることで、自分のプライバシーを守っている。
 「プライバシーは (引用者中略) 人々が印象や情報の流れや文脈を管理することにより社会的状況をコントロールしようとするのに用いられるプロセスなのだ。」(122頁)。*7
 木を隠すなら森を作るのである。

「介入」が悪化させる例

 大人たちは危機管理の手法として恐怖と孤立主義に飛びつくことによって、大人の提供する情報に対するティーンの信頼を損ない、自分らの信用を台無しにしている。 (203頁)

 強硬にただ排除する、と言うだけでは、効果はない。

 学校と親の介入はたいてい状況を悪くする。なぜなら大人は詳細を理解することなく関与してくるからだ。もし若者が、大人は大げさに反応し、人間関係の力学の複雑さを理解しないと思っていたら、彼らは自分たちが直面している困難をわざわざ伝えようとはしないだろう。 (220頁)

 外国にガンガン無遠慮に介入してくる、往時のアメリカ合衆国の外交を思わせるような言葉である。*8

デジタル自傷

 デジタル自傷は私が思っていた以上にさかんに発生しているようだった。 (229頁)

 調査によると、若者の9パーセントが自分をいじめるのにインターネットを使ったことがあるという。
 被害者になって注目を集めたい、といった動機であろうか。*9

 

(未完)

*1:ベル・フックスという筆名自体は、母方の曾祖母に由来しているという。ニューヨークタイムズの、 Min Jin Lee による 記事https://www.nytimes.com/2019/02/28/books/bell-hooks-min-jin-lee-aint-i-a-woman.htmlを参照した。

*2:19世紀後半には、ミシンによる大腿の運動が繰り返されることによって、

For this young woman, these different movements produced a considerable genital excitement that sometimes forced her to suspend work, and it is to the frequency of this excitement and to the fatigue it produced, that she attributed her leucorrhea, weight loss, and increasing weakness. 

といった影響があると、大まじめに書かれていたのである。出典は、Francesca Myman の ”The Mechanical Chameleon: Sex & the Sewing Machine in Nineteenth-Century France”で、大元の出典は、ダナ・ボイドも参照した、Judith Coffinの本である(http://francesca.net/SewingMachine.html )。

*3: 高谷邦彦は、本書(ダナ・ボイド著)を参照し、次のように書いている(「ソーシャルメディアは新しいつながりを生んでいるのか? : 女子学生の利用実態」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006305245 )。

2000年代半ば頃からの SNS の勃興によって、オンライン空間はもっぱら「友達同士でつながるための場所」(既存の友人関係を強化する場所)へと変容してきた。学校で直接会っている友達と、帰宅後の時間や休日にもオンライン空間でつながるようになったのだ。携帯電話からの手軽なネットアクセスが増えるにつれて、その傾向はさらに顕著になった。 (引用者中略)  LINE も含めて TwitterFacebook といったソーシャルメディアは、リアルな知り合いである「友達」や「フォロワー」を増やすシステムによって、オンラインとオフラインを地続きにする働きを促進してきたわけである。

*4:2013年時点での調査だが、「心や身体の疲れについてたずねた結果では、小学生51.2%、中学生64.8%、高校生70.4%が「忙しい」と回答」している(「中高生の8割以上が「もっとゆっくり過ごしたい」…ベネッセ実施の生活時間調査」https://resemom.jp/article/2014/09/24/20556.html )。

*5:この点は、平井智尚の本書書評の言葉に尽きるであろう(https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/journalism/journalism_15.html )。

ダナ・ボイドも同様に、ティーンのソーシャルメディア中毒は、「もし中毒だとしたら、それは友達同士お互いに中毒になっているのだ」 (引用者中略) と指摘する。このようにとらえるならば、若者のソーシャルメディア利用は恐怖、忌避、排除すべきものではなく、むしろ、諸問題を可視化し、それらを理解するための道筋を与えてくれるものである。

*6:実際のところ、

いわゆる「ネ申Excel」問題 (引用者中略) などは、「パソコンが使えない大学生」問題が実は「パソコンを適切に使わせる環境を整備できない大人」問題と地続きであることの傍証の一つなのかもしれない

というのが正しかろう(木村修平、近藤雪絵「“パソコンが使えない大学生”問題はなぜ起こるか ―立命館大学大規模調査から考える―」
http://pep-rg.jp/research/ )。

 パソコンが使えないのを、彼ら世代の問題、ととらえるのは誤りである。

*7:自己情報コントロール権説に親和的な話である。
 ところで、「自己情報コントロール権説は、我が国の憲法学における通説的位置にあり、既に所与の前提となっている」が、永野一郎は、

情報化社会の進展は、取扱う個人情報の質量を飛躍的に拡大した。大量な情報を一括的に取扱う、いわゆる「データバンク社会」において、個人情報の利活用を確保しつつ個人の権利利益を保護するためには、自己情報コントロール権としてのプライバシーから離れ、データ保護を直接の対象とするべきである。

とし、最終的には、

携帯情報端末の著しい発達や、クラウドコンピューティングによる情報インフラのコモディティ化等に伴い、情報システムのパーソナライゼーションがかつてない規模と現実味をもって進展している。パーソナライズされたシステムはもはや「データバンク」ではない。そこでは、大量一括処理を前提としたデータ保護や取締法規としての個人情報保護より、人格的自律の権利としての自己情報コントロール権が意味を持つ

として、人格的自立の権利としての自己情報コントロール権の側面は肯定している(「情報システムにおける脱・自己情報コントロールに向けた試論」http://in-law.jp/archive/taikai/2011/kobetsu3-2-resume.pdf *註番号を削除して引用を行った。)。
 少なくとも、自己情報コントロール権って中身が不明だよね、というのはその通りとしか言いようがない。

*8:ところで、子どもの育ちを支えるしくみを考える委員会「子どもの育ちを支えるしくみを考える委員会最終とりまとめ」(平成25年7月 最終報告書)には、次のような文言も見える(https://www.pref.nagano.lg.jp/kodomo-shien/shienjyourei/shien-jyourei.html )。

大人の介入でよくなることってほとんどない。大人の人たちが思っているより、ひどいことばっか。いじめをしてる子たちって、表面上はいいこちゃんばっか。だまされるなんてバカみたい。もっと人をうたがうことをおぼえたらどうですか。(中3女)

*9:Rebecca Lee の”What Is Digital Self-Harm?”(https://psychcentral.com/lib/what-is-digital-self-harm/ )によると、

According to the Journal of Adolescent Health, teens bully themselves as a way to regulate feelings of hatred and sadness in addition to gaining attention from friends and possibly family. Approximately six percent of students have anonymously posted a mean comment about themselves. Digital self-harm is predominantly done by males.

とのことである。
 デジタル自傷(ネット自傷)は、若者の中でも男性が行うケースが主であるようだ。

「ちゃう」という言い方は、20世紀はじめになって、関西中央部の若者の間でつかわれるようになった。 -井上史雄『日本語ウォッチング』を読む-

 井上史雄『日本語ウォッチング』を読んだ(再読)。

日本語ウォッチング (岩波新書)

日本語ウォッチング (岩波新書)

 

 内容は紹介文の通り、

「見れる」「食べれる」のようなラ抜き,「ちがかった」「うざい」「チョー」といった新表現,鼻濁音なしの発音….日本語が乱れてる-と嘆くのは早計だ.言語学の眼で考察すると,耳新しいことばが生まれる背後の言語体系のメカニズムや日本語変化の大きな流れが見えてくる.長年の調査・探究に裏打ちされた現代日本語の動向観察.

というもの。
 古い本にはなってしまうが、しかし、やはり読んで楽しいのは事実である。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

ら抜き言葉の広がり

ラ抜きことばが記録されたのは、意外に早く、昭和初期である。 (2頁)

 東京には中部地方から入りこんできた可能性が大きい。京都や大阪にも近畿地方の周辺部から入りこんだのだろう。 (引用者中略) まず中部地方そして中国地方に生れ、徐々に周囲に広がったと思われる。 (8頁)
 ら抜き言葉は割と早くに生まれている。*2
 本書では、ら抜き言葉が広がった理由(「合理性」)を説明しているが、詳細は、本書を読んでみてほしい。

「だ」と「や」

 「じゃ」から「や」が生まれたのは江戸時代末期で、一八四〇年代の京阪の若い女性の使用例が今のところ一番古い。 (40頁)

 「にてあり」から「であり」、そこから「である」、最後に「であ」と変遷していく。
 東の方だと、「であ」が「だ」になった。*3
 いっぽう、西の方だと、「であ」は「ぢゃ」から「じゃ」に、そして「や」になったということのようだ。

「うざったい」と多摩

 多摩地区の方言が郊外から都区内の若い人に広がってはいるが、あらたまった場では使いにくいことばらしい。 (88頁)

 青梅市の老人は「濡れた畑に入ったような不快な感じ」と身体的な感覚として説明するが、青梅の若者は漠然と「不快だ、いやな(人)」ととらえる。さらに山の手の若者は「面倒だ、わずらわしい」の意味で使う。具体的なよりどころがだんだんなくなって、一般的な不快感の意味で使われるようになったわけだ。 (90頁)

 今は「うざい」という短縮形まで生んでいる。ただこれも、都区内独自の動きではなく、多摩地区で先行していたようだ。 (92頁)

 「うざったい」の言葉の変遷である。*4
 もとは、青梅あたりの方言であったらしい。

関西弁の歴史性

 ほぼ今世紀はじめに関西中央部の若い人の間に「ちゃう」が登場し、その後関西地方の周辺部にも広がりつつあると考えられる。 (133頁)

 20世紀初頭の関西弁の落語のレコードには、会話で「ちゃう」は使用されていなかったようである。*5

平板ではなく頭高

 一九九〇年代では若者に人気のある音楽グループ「B'z(ビーズ)のアクセントが話題になった。 (180頁)

 本人たちは頭高と思っているが、ファンは平板でいう。*6 *7
 地名や人名の固有名詞も、専門家やよく接する人が先に平板化する傾向がある。
 これは外来語も同様である。

新しい言い方の普及

 新しい言い方は、親や周囲の抵抗の少ない地方でまず普及し、その勢力を背景に東京に入り込むと考えられる。 (202頁)

 たとえば、地方の親の場合、自分の言葉が方言だという意識があって、ことばについて自信がないと、直さないことがある。
 そのため、東京ではなくて地方の方でまず、新しい言い方が普及するというわけである。*8

 

(未完)

*1:もちろん、本書は20年以上の本なので、その後の研究の発展にも注意が必要である。例えば、以下の通りである(沖裕子「井上史雄著, 『経済言語学論考-言語・方言・敬語の値打ち-』, 2011年12月10日発行, 明治書院刊」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009687878 *註を削除するなどして引用を行った。)。

たとえば、「じゃん」の発生地を山梨県としているが、氏の先著『日本語ウォッチング』(1998年、岩波書店)では静岡県で生まれたとされている。新資料の出現に応じた修正であると推測はできるが、先著への言及がないため、読者には両論をつなげつつ、論点の不足を再考する余地がうまれている。

*2:高橋英也は次のように書いている(「可能動詞化の方言上の多様性について:ラ抜き言葉とレ足す言葉の動詞句構造の観点から」https://www.researchgate.net/publication/311736346_kenengdongcihuanofangyanshangnoduoyangxingnitsuiterabakiyanyetorezusuyanyenodongcijugouzaonoguandiankara *註番号を削除して引用した。)。

ラ抜き言葉は、大正~昭和初期にかけて、方言 (東海地方、中部地方、中国・四国地方など) で始まり、100 年近くかけて徐々に全国に広がった。( 渋谷(1993), 鈴木(1994), 井上(1998)など)

まさに、本書(井上著)が引用されている。

*3:岡智之「日本語存在表現の文法化認知言語学と歴史言語学の接点を探る―」(認知歴史言語学第1,2章(出版前原稿版)http://www.u-gakugei.ac.jp/~gangzhi/research/)には次のように書かれている。

断定の助動詞ナリ,デアル,ダの文法化日本語の断定の助動詞,あるいは指定表現といわれるナリ,デアルは,ニアリあるいは,ニテアリという存在表現から文法化したものだと言われている(春日1968,佐伯1954,山口2003)。奈良時代から平安時代にかけて,ニアリがナリに融合,交替していく過程がある。それからニテがニテアリと共起していくのが院政期頃,また同じころニテがデに交替し,デアルが室町期の口語において現れると言う。また,デアルはデアからヂャを経てダに至ると言うのが定説であるが,柳田(1993)では,室町中期の西部方言資料から「ヂャ」とともに「ダ」を多用した資料が見つかったことから,早くに「ダ」が生れ,遅れて「ヂャ」が発生したと推測している。その後,室町時代西部方言ではヂャが主に用いられ,ダも劣勢語として存在した。一方,東部方言では主にダを用いたが,ヂャも劣勢語として存在した。以降,東部方言ではダ,西部方言ではヂャが主に使われるようになる。

*4:著者(井上)は、2008年の『社会方言学論考―新方言の基盤』でも、同様のことを述べている(103頁)。

*5:金水敏は次のように述べている(「大阪弁の起源」https://ironna.jp/article/1603 )。

大阪らしい表現として挙げたいくつかの表現を、文芸作品などをもとにして初出の年代をたどっていくと、元禄ごろから使われていたことば、例えば「なんぼ」「…かいな」「あほ」「ほんま」はむしろ少数である。/18世紀後半には「…だす」「…さかい」「…よって」「おます」が登場、19世紀前半には「…や」「…なはる」「…がな」が出てきて、20世紀になって「…へん」「…はる」「…ねん」「わて」などが姿を現す。/このように大阪弁らしい表現が出そろったのは、明治から大正にかけての「大大阪」の時代であると考えていいだろう。

*6:正しくは頭高発音、と認知するファンも、もちろんいる。

*7:駒村多恵「B'z論争」(https://ameblo.jp/komatae/entry-10166361490.html )には、

「B’zに関する注意事項」。今まで注意事項の紙が回ってきたことがなかったのでそれだけでもびっくりしたんですがその中に「B’zのアクセントは平板ではなく頭高です。」という項目がありました。

とある。

*8: 「うざったい(うざい)」のような、方言由来の「新方言」がある一方で、「共通語の影響のもとで生まれた新しい方言の形も広まって」いる(「方言コスプレ、新方言、ネオ方言… 平成になって復権した理由とは?」https://withnews.jp/article/f0190409001qq000000000000000W05h10101qq000018925A )。

真田信治・大阪大名誉教授が提唱した「ネオ方言」です。/典型例として、「来ない」を意味する関西中部方言の「こーへん」があります。これは、共通語「こない」の影響を受けて、関西方言「けーへん/きーへん(きーひん、とも)」が変化した形だとされます。

なお、真田は、「井上史雄著, 『社会方言学論考-新方言の基盤-』」の書評も行っている(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007593057 )。

差別意識が患者多発部落への地域差別と結びついたとき、水俣病問題の解決はいちばん困難な壁にぶつかった -色川大吉『日本人の再発見』を読む-

 色川大吉『日本人の再発見―民衆史と民俗学の接点から』を読んだ。

 内容は、紹介文の通り、

近代史家の著者が“自分史”運動を実践しながら、民衆の生活の場に視点をすえて展開する日本文化論、草の根からの日本人論。著者は民衆の一人として、歴史を作り支える役割を語りかける。

というもの。
 まさに色川史学といった感じの内容である。

 以下、特に面白かったところだけ。*1

水俣と日本窒素

 日本窒素の創業者野口遵が大口の近くに曽木発電所を開業して、安い電力エネルギーを金山に供給するようになった (194頁)

 政府は日露戦争後に塩の専売を施行して、製塩業を潰した。
 そのために、製塩業に依存して生活していた人々の仕事と収入は奪われた。*2 *3
 日本窒素肥料株式会社は、そうして路頭に迷った人々の労働力と、利用法を失った塩田跡を、安く買い占めて近代的な大工場を起こした。
 このようにして、日本窒素肥料は、水俣を支配することとなったのである。

水俣の中にあった地域差別

 地の者の流れに対する差別意識が患者多発部落への価値観をともなった地域差別と結びついたとき、水俣病問題の解決はいちばん困難な壁にぶつかった (209頁)

 チッソ水俣との利害関係だけでなく、こうした地域差別と結びついたことが、水俣病問題の根を深くさせることとなった。*4

 事実は、漁民は新鮮な魚を多食していた。その新鮮な上等な魚にも猛毒の有機水銀が浸入していて、罹病の原因となった。これは貧富の問題ではない。ところが行政や企業が地元住民の差別的な意識や偏見を逆手に利用して、こうした誤った情報や考え方を永い期間にわたって定着させてきた (242頁)

 水俣病がこじれた要因の一つである。

人生

 いま水俣病患者として認定されている生存者のなかで、最も高い水銀の汚染値を記録された人に安田さんがいる。 (285頁)

 彼女の毛髪水銀値は640ppmだった。
 安田さんは天草の貧しい家に生まれ、若い時から大阪に出て、工場や病院で働いた。
 大陸へ行けば高収入が得られると聞いて、朝鮮から大連へゆく。
 そこで体を売る仕事もしたという。
 戦争がはじまり、朝鮮で結婚する。
 その後日本軍に頼まれ、朝鮮人女性を慰安婦として組織し、中国各地の戦線を渡り歩く。
 かなりの金を貯め、故郷の島に戻ったが、敗戦によってその価値を失う。
 島では食堂を経営し、好物の魚や貝類を多食した結果、体内に水銀を蓄積していく。
 夫は妻を見捨てず看病をするが、やがて死去する。
 彼女は、ひとり天草で、大陸で自分が犯した罪を悔いながら合唱と念仏の日々を送った。
 弱者から「強者」の協力者となり、やがて高度成長期の犠牲となったのである。*5

 

(未完)

*1:今回は水俣病関連のことのみ、取り上げた。

*2:水俣病研究会編『水俣病事件資料集 1926-1968 上巻』には、

水俣市史』によると、日本窒素肥料株式会社(以下「日本窒」という)が進出する直前である一九〇〇年ごろ、水俣の産業で特筆すべきものは製塩業であり、近在の農家の数少ない現金収入源であった。 (引用者略)製塩業は、塩専売法施行(一九〇九年)とともに廃止された。

とある(以下を参照http://archives.kumamoto-u.ac.jp/minamata.html )。

*3:塩の専売について、『アジ歴グロッサリー』の「塩務局」の項目は次のように書かれている(https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0030-0020-0020-0170.html )。

日露戦争のための財政収入と製塩業保護のため、1904年12月31日塩専売法が制定され、1905年6月1日から実施されることになった。そこで、同年1月大蔵省主税局に専売事業課、専売技術課が置かれ、塩専売の事務を統括した。 (引用者中略) 専売を統一するために、1907年9月25日専売局官制が公布されたことにより、9月30日で塩務局は廃止され、その業務は専売局に引き継がれた

*4:小松原織香「「公害問題」から「環境問題」へ」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006773758 )には、

鶴見 (引用者注:鶴見和子) は第一部で、統計調査と聞き取り調査のデータを駆使して、水俣地域の人々が「定住者」と「漂泊者」の二つの層に別れていることを明らかにする。両者は「じごろ」と「ながれ」と呼ばれ、地域社会の人間関係の鍵となる概念である。

とある。

*5:ところで、水俣チッソ、そして朝鮮とは、因縁がある。花田昌宣「新日本窒素における労働組合運動の生成と工職身分制撤廃要求--組合旧蔵資料の公開に寄せて」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40018784930 *PDFあり)より引用する。

この時期,水俣工場には戦前から水俣工場にいた労働者と敗戦によって失われた朝鮮興南工場からの引き上げ労働者が混在しており,その関係がしっくりいっていなかったという。それは工場幹部内においてもそうであったが,また組合内でもそのような傾向が見られた。

また、

朝鮮興南工場において植民地の朝鮮人を牛馬のごとく使った手法を水俣においても同様に用い,水俣地元採用の労働者を牛馬のごとく扱っているとの告発であった。その矛先は経営者,なかんずく朝鮮帰りの幹部社員に向けられることとなったと考えられる。

といった文章も見られる。

「捨て牛馬」や「捨て子」に加え、「捨て病人」が禁止されていた時代(元禄期の話) -大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』を読む-

 大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』(のオリジナル版のほう)を読んだ。*1

  内容は紹介文の通り、 

古典ってワイドショーだったんですね! 捨てられる病人、喰われる捨て子、蔓延する心の病―― 「昔はよかった」って大嘘です! 古典にみる残酷だけど逞しい本当の日本人の姿。

というもの。
 著者は、身分社会より、西鶴の文学にみられるような金を貴ぶ社会の方を支持しているが、本書における厳然たる身分社会の「悲哀」を見ていけば、そういいたくなるのもまた道理だと思わせられる。*2

 以下、特に面白かったところだけ。

江戸期の捨て子と子殺し

 江戸時代は捨て子が禁止されたとはいえ、まだまだ盛んで、嬰児殺しは日常茶飯事でした。 (引用者中略) 氏家幹人は、「子供たちにとって、ただ惜しみなく愛を注いでくれるだけの楽園のような社会など、ありはしないのだ」 (48頁)

 捨て子*3だけでなく、子殺しは昔からあったと著者は述べている。*4

「捨て牛馬」・「捨て子」・「捨て病人」

 重病人を棄て去るという習慣が相当長く続いたと思われるのは、元禄時代の「生類憐みの令」では、「捨て牛馬」や「捨て子」に加え、「捨て病人」が禁止されていたことからも分かります。 (100頁)

 「生類憐みの令」というのは、そういう面ではまともなところもあったのである。*5

秀吉と人身売買の禁止

 秀吉の要請を受け、日本人の奴隷売買が布教の妨げになると考えた教会関係者が国王に請願した結果、一五七〇年、日本人奴隷取引禁止令が出される (109頁)

 一五八七年には日本国内の人売買も禁じられた。*6 *7
 よく知られるとおりである。

家族同士で殺し合い

 究極の残酷は家族同士で殺し合いをさせること。安土桃山時代の為政者は、それが分かっていたからキリシタンを拷問する際、そうした(以下、引用者略) (114頁)

 子供に親を殺させる方法などが、キリシタンへの拷問で行われた。*8

いばらきの由来

 茨城県、なんだか悲しい語源です (138頁)

 『常陸国風土記』の「茨城郡」の記述によると、天皇軍と先住民との戦いで、天皇軍の大臣の一族であるクロサカノ命は、穴に住む国巣(「くず」と読む)が穴から出てきて遊ぶ際に、茨を穴に敷いておき、国巣たちを騎馬兵に追いかけさせた。
 すると、いつものように穴に逃げ帰ってきた国巣たちは、茨にかかって突き刺さって、けがをしたり死んだりした。
 そこで、この地に名前を付けたという。*9

日本古代の「卑怯」な手口

 現代人には卑怯にも見えますが、戦争とはどだい人殺しであることを思えば、少ない労力で確実に相手を倒せるのですから、味方の犠牲が少なくて済む優れた戦術と言える (140頁)

 ヤマトタケルの、敵を倒す卑怯なやり方に対して、著者はそのように弁護している。*10

 

(未完)

*1:よって頁数はそちらの方に準拠している。

*2:もちろん、資本主義社会の礼賛をする必要もないわけだが。

*3:沢山美果子は次のように述べている(「『乳』からみた近世大坂の捨て子の養育」https://ci.nii.ac.jp/naid/20001463026 )。

捨てる側、貰う側ともに、その理由として「家」の維持・存続をあげており、少なくとも「家」の維持・存続のために捨てる、貰うことは近世大坂にあっては正当な理由として認められていたらしい

捨てることと貰うことは、常に「家」の存続がかかっていたのである。

*4:林玲子は次のように述べている(「中絶と人口政策の古今東西http://www.paoj.org/taikai/taikai2018/abstract/index.html )。

日本における歴史的推移をみれば、堕胎と嬰児殺しに関しては、古来から江戸時代に至るまで「法律もなく道徳的にもさして非難せられなかった」(小泉1934)。江戸時代には、例えば 1680 年には堕胎罪を独立罪として取り扱い処罰する「女医の堕胎及び妊婦を罰するの町触」が出され、また各藩の取り締まりがあったにせよ、それは逆に堕胎と嬰児殺しが広く行われていたことを示すものであったともいえよう。

上記の「小泉」とは小泉英一『堕胎罪研究』を指す。

*5:捨て子に関連して戸石七生は次のように述べている(「日本の伝統農村における社会福祉制度 : 江戸時代を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/40021177979(PDFあり。) )。

近世になると家族経営による農業がほとんどになり、大多数の農家では年季契約の奉公人を雇っても、長期にわたって身寄りのない下人を抱えておく余裕はなくなり、その結果、幼児の需要は劇的に低下し、乳幼児は売れなくなった。塚本によると、売れなくなったため、子の養育コストが負担できない親による捨子が増えたというのである。また、捨子自体も恥だと思われていなかったようである。塚本は井原西鶴の『好色一代男』(1682出版)で主人公・世之介がある女性に産ませた赤子を「さり気なく」捨てたことを指摘し、大きな悪とみなされていなかったとしている。

参照されているのは、塚本学『生類をめぐる政治』である。
 また捨て病人に関しても、松尾剛次『葬式仏教の誕生』を参照して述べている。

現代人と大きく意識が違うのは病人の扱いである。綱吉の時代までの日本人は、病人についても介護を放棄することを罪や恥だと思っていなかった可能性が高い。例えば、京都の公家・三条西実隆の日記『実隆公記』の永正二年(1505)の11月6日の記事によれば、三条西家では梅枝という下女が中風(脳出血)で倒れ、瀕死の状態になった時、寒風吹きすさぶ中、今出川の河原に運び出したという

*6:下山晃は次のように述べている(「大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷」http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html )。

検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。/しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

奴隷貿易の利益率の高さがうかがい知れる。

*7:孔穎は次のように述べている(「明代における澳門の日本人奴隷について 」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005687547 )。

ポルトガル王が豊臣秀吉イエズス会を介して伝えた圧力の下で日本人奴隷取引を禁止し解放しようとしたとき、ゴア当局は、「彼らを解放すれば、反乱するに違いない。戸口で虎視眈々している敵と結託し、われわれを一人も残さずに殺すのであろう…奴隷解放のうわさが彼らの耳に入れば、今にも動き出そうとする。主人は常に警戒しなければいけない」と懸念を示した。

奴隷の中には、そうした性格の者たちも存在したのである。そりゃそうだ。

*8:阿部律子は次のように書いている(「五島キリシタン史年表」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005301377 )。

「旧キリシタン」を指揮して、下川彌吉宅を牢屋に仕立て上げ、逮捕したキリシタンを桐古の浜の家で拷問する。頭分の下村善七、下村卯五郎には、最も残酷な算木責に遭わせる。子どもに拷問を加えて、親に改心を迫り、信者達は拷問の厳しさに耐えかねてついに改心する 

子供の方を拷問して回心させる方法もあったようである。

*9:茨城県のホームページ(携帯版)にも、

常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」という本の中に、「黒坂命(くろさかのみこと)という人が、古くからこの地方に住んでいた朝廷に従わない豪族を茨(いばら)で城を築いて退治した。または、その住みかを茨でふさいで退治した」という話が書かれています。/この「茨(いばら)で城を築いた」または「茨でふさいだ」ということから、この地方を茨城(いばらき)と呼ぶようになったといわれています。

とある(https://www.pref.ibaraki.jp/mobile/profile/origin/index.html )。残虐性を薄めた記述ではある。

*10:大津雄一は佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』に対する諸表の中で次のように書いている(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009895030 )。

今昔物語集』巻二五には、平維茂との合戦で藤原諸任がだまし討ちを仕組んだことが記され、しかも、 そのことを非難していないことからもわかるように、 一方ではだまし討ちは否定される行為ではなかった。 それは鎌倉・室町時代においても変わらず、室町末から戦国時代に至れば、 むしろ、 だまし討ちは積極的に肯定されるようになった。 江戸時代になっても、 戦国の遺風を受け継ぐ軍学者や兵法者たちは、 平和な時代にあえて偽悪的に振舞ったということもあるのだろうが、だまし討ちを当然のことと喧伝していた。

ヤマトタケル以降も、そうしただまし討ちは続いていたのである。

「あたしたちと違って志願じゃないらしく、チョゴリを着て、『アイゴー、アイゴー』と泣く姿がなんとも悲しかった。」 ―広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』を読む―

 広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』を読んだ(再読)。((読んだのは、ハードカバー版の1975年のもの。))

 内容は、紹介文の通り、

1970年代初頭、生存していた従軍慰安婦や看護婦たちに長時間インタビューを試み正確に活字化。体験者が語った貴重な戦場の実態。

というもの。*1 *2
 以下、特に面白かったところだけ。

芸者の延長だろうと思っていた

 あの当時で四千円近い借金があったの(ハガキが二銭のころ)。芸者というのはお金がかかるのよ。着物一枚買うのにも借金だし、踊りや三味線も習わなきゃならないでしょ。 (引用者中略) 結うたびに一円近くかかってしまう。だから借金は増えるばっかりだったわ (19頁)

 芸者をやるにはカネがかかった。*3
 南洋の島で頑張れば、そんな生活から抜け出せる。
 そのように思って日本人慰安婦になった女性である。
 実際のところ、慰安婦というのがどんなものかはよくわかっておらず、どうせ芸者の延長だろうと想像していたという。

「拉致」被害者としての朝鮮人慰安婦

 釜山では朝鮮の女性がかなり乗船したわよ。彼女たちはあたしたちと違って志願じゃないらしく、チョゴリを着て、『アイゴー、アイゴー』と泣く姿がなんとも悲しかった。わたしもつられて泣いてしまったわ…… (19頁)

 自発的ではない、朝鮮人慰安婦の存在も、語られている。*4

 民族的優越感を日本人にもちらつかせられながら半ば強制的に、あるいは騙されて、慰安婦となった者が多かった。そうした中には良家の子女も少なくなく、お金でわりきった日本人慰安婦とは趣を異にしていた。 (21頁)

日本軍内部での体罰

 トラック島になぐられに行ったようなものでした。船酔いで胃の中の物をもどすと『貴様、菊の御紋のついた空母を汚すとはなにごとだ』と怒られる。トラック島についてやっと船酔いから解放され、美しい空、海の底まで透きとおって見える海に見とれていると、『キョロキョロして、その目は大和魂の抜けた、兵士のぬけがらだ』とどなられ、さっそくビンタです。 (54頁)

 トラック島での初年兵の扱いは、酷かった。
 そうした観点だけからものを見るなら、日本人慰安婦、特に、将校相手の者は恵まれていた方だったことになる。

 配給もピンハネされ、初年兵まで回ってこなかった。*5

 さらにひどいエピソードも、本書に書いてあるが、それは実際にお読みいただいて確認願いたい。

「なにが陛下のためよ」

 国家は、兵士には軍人恩給等で償いをしたが、同じように「お国に身を捧げた」慰安婦に対してはなにも報いようとしなかった。彼女らには、肉体を売ったという"屈辱感"だけが残った (74頁)

 さらに、戦後の驚異的インフレは、彼女ら日本人慰安婦の稼いだ金の価値を失わせた。*6

 「二重の仕打ち」(74頁)である。

 横井庄一が発見された時、日本人慰安婦だった菊丸は、当時の熱狂に怒った。
 あたしだって戦争の犠牲者なのに、横井さんだけに厚生大臣が金一封おくったり洋服作ってやったりすることないでしょう、と。*7

ソ連側による性暴力とそれに対する対応

 看護婦が慰安婦としてソ連軍に提供されたり、あるいはつれ去られた事件は、たくさんあった。が、そんな場合、日本の兵隊が看護婦をかばったという話はあまり聞かない。激烈な戦いの中を生き残った同士であるにもかかわらず、である。 (178頁)

 弱い立場の者から捨てられた。*8
 軍(兵隊)は彼らを守ることもなかったのである。

 こんな"悲劇"も、正規の訓練を受けた兵隊がやってきてからは、ごく少なくなった。日本人捕虜の所持品を強奪する兵がいれば、みんなの前で処罰が行われ、悪質な者は銃殺に処せられるようになった。 (引用者略) 直接つきあってみれば、ソ連の看護婦たちも親切だった。 (196頁)

 ここでいう「悲劇」とは何だったのかについては、本書を参照願いたい。

解放軍による性暴力

 八路軍の彼女らに対する姿勢は、ソ連軍とはすべてに違っていた。食料は、パン、栗、トウモロコシが主食だったから、ソ連軍時代より良くなったとはいえなかったが、八路軍の違うところは、こうした食料の面でも自分たちと捕虜とを差別しないことであった。 (204頁)

 八路軍は、新しい国造りの戦力として捕虜を大事にした、という。*9

日本人看護婦と解放軍

 日本人看護婦は、急造の八路軍看護婦より経験豊富で、結果、八路軍看護婦の生活指導から手を取って教えねばならなかった(206頁)。

 また、思想教育が日本人同士の関係に「亀裂」を残した事も書いているが、これらについては本書を直接読まれたい。

 解放軍の場合は、森藤さんをはじめとする日本人看護婦の証言によれば、患者をあくまで生ある人間として大切に扱っていた。 (213頁)

 「兵士は消耗品」という日本軍の論理との違いを、彼女たちは重く受け止めたのである。*10
 「森藤さん」は森藤相子氏を指す。*11

 

(未完)

*1:本稿は、 ハードカバー版の1975年のものから、引用をしていることを、ことわっておく。念のため。

*2:「話をするほどにそのころの状況を思い出し、自分自身をやましく思うのか、私に親切にすることによって、そのうめあわせをしているようにも見えた」(234頁)という言葉がとても印象に残る。証言者たちは著者に、食事を勧めたり、自家用車で駅まで送ってくれたりしたのだという。

*3:松田有紀子は次のように書いている(「芸妓という労働の再定位 -労働者の権利を守る諸法をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120004140698 )。

「丸抱え」や「仕込み」以外の契約の場合は、生活必需品や日常の衣類、芸能の師匠への月謝などを自己負担しなければならない。前借金は、収入からこれらを差し引いた残額から月賦で償却することになる (引用者中略) 当然ながら芸妓によって稼高に差もあったため、一概にはいえないが、前借金の返済を達成することは、芸妓にとって困難であったと考えられるだろう。そのため、前借金を償却できずに負債を負い、芸妓から娼妓へ転業するものも少なくなかった

*4:ウェブサイト・『FIGHT FOR JUSTICE』は、次のように書いている(「朝鮮では強制連行はなかったの?」http://fightforjustice.info/?page_id=2650 )。

日本軍は、朝鮮・台湾で女性たちを集める時には、業者を選定し、その業者に集めさせました(軍に依頼された総督府が業者を選定する場合もあります)。この業者は、人身売買や誘拐(騙したり、甘言を用いて連行すること)を日常的に行なっていると呼ばれる人たちだったので、彼らは日本軍「慰安婦」を集める場合もしばしば同様の方法を用いました。 (引用者中略) これは刑法第二二六条に違反する犯罪で。また、強制とは本人の意思に反してあることを行なわせることですから、誘拐は強制連行になります。人身売買も被害者にとっては経済的強制ですから、強制連行と言うべきでしょう。誘拐や人身売買で連行された女性たちが軍の施設である慰安所に入れられて、軍人の性の相手をさせられたら、強制使役になります。軍の責任は極めて重大です。

その犯罪の性格は、

北朝鮮による拉致の場合、暴力で連れて行っても、甘言や詐欺で連れて行っても、日本政府は同じ拉致として認定しています。暴力を使っても甘言や詐欺で連れて行っても、ある地点からその自由が拘束されれば、同じ犯罪です。ですから北朝鮮による拉致が犯罪であると同様に、日本軍「慰安婦」にしたことは、暴力を使おうと、甘言や詐欺で連れて行こうと犯罪なのです。

という言葉の通りであろう(「北朝鮮による拉致とどう違うの?」http://fightforjustice.info/?page_id=2411)。

*5:日本軍におけるこうした体罰(暴力)がどれほど頻発していたかについては、既に、多くの指摘がある。とりあえず、『ekesete1のブログ』の記事等http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/48774293.html を参照。

*6:本件とインフレ問題については、例えばこれは文玉珠氏の例であるが、ウェブサイト・『FIGHT FOR JUSTICE』の「文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった?」(https://fightforjustice.info/?page_id=2391 )等をも参照。 以上、この註は2023/12/3に書き加えた。

*7:木下直子は本書の中から、該当する箇所をそのまま引用している(「聴きとられなかった言葉をめぐって : 日本人「慰安婦」に関するフェミニズムの議論の批判的検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/40020264005 *今回は註番号なども省略せずにそのまま引用を行った。)。

なにも横井さん13)だけに厚生大臣が金一封贈ったり、洋服作ってやったりすることないでしょう。陛下のためだなんていってるけど、なにが陛下のためよ。あたしらもそういわれて行ったんじゃないか、チクショーと思ってね。あたしは結局そのことが出てくるから、お嫁に行けないでこうしているんだって、厚生省に行っていってやりたいわ。(中略)ジャングルで暮らすより、もっとみじめな生活をしている者がいるのよっていってやるわ。[広田 1975:74-5]

*8:猪股祐介は、ソ連参戦後の戦時性暴力が長い間研究対象にされてこなかった理由について、次のように述べている(「満州移民研究におけるジェンダー視点の欠落」http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/program-enterprise/reports/researcher_report_2016/ )。

第二に、満洲引揚時の戦時性暴力について、ソ連兵や八路軍による強姦があったことは体験記等に多数記されているが、その詳細について資料が残っていないからである。 (引用者中略) これら先行研究から分かることは、開拓団資料や慰霊碑など公的記録に戦時性暴力が記されることは稀であり、これら公的資料に拠る限り、戦時性暴力は研究対象にならないことであにならないことである。 (引用者中略) 第三に、満洲移民の引揚げを「引揚げの悲劇」と一括りにし、戦時性暴力を副次的に扱ってきたからである。

*9:東北共産党(東北民主聯軍)の場合、1946年に、日本人要員に対する政策を具体的に定めている。内容は、「日本人医師とその家族の食事面の待遇は中国人医師と同等にする」、「日本人への報酬を月ごとに、可能であれば半月ごとに払う。未払いの報酬は速やかに補う」、「日本人同士の結婚は、仕事に支障がでない限り原則として許可する(筆者注:当時の解放軍の規律では中国人兵士の結婚は禁止されていた)」、「可能な限り日本料理を提供する」、「中国人の風習を妨害しない限り、日本人が自らの民族的習慣を保つことを容認する」、「日本人の技術を重視し、それを高めること」、などである。そういった政策を出すに至った経緯などもふくめ、鹿錫俊「東北解放軍医療隊で活躍した日本人--ある軍医院の軌跡から」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006454452 )を参照。

*10:上記引用部について、「八路軍」は、1947年、新四軍とともに「人民解放軍」に編入されている。念のため。

*11:川島みどり「苦労をバネに後輩を育てた森藤相子さん」の概要には、次のように書かれている(https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1663100531 )。

日本赤十字社静岡県支部の看護婦養成所を卒業してまもなく,召集令状1枚で目的地も知らされぬまま,中ソ国境の最前線である虎林陸軍病院に20名の同僚とともに着任した(1944年、敗戦の前年であった)。その地名は,私が調べた地図には載っていないが,軍事的に重要な場所であったらしい。敗戦直前にソ連軍がやってきて,敗戦とともにその監視下におかれたが,中国内戦中の八路軍(中国人民解放軍)に引き継がれて,1958年,最後の引き揚げ船で帰国するまで,解放軍の看護婦として戦火をくぐり抜けながら,中国各地を転々とされたのだった。 

昭和の音楽史を「リズム」から綴る。戦前戦後のジャズに始まり、昭和三〇年代のマンボにドドンパからユーロビートまで。 -輪島裕介 『踊る昭和歌謡』を読む-

 輪島裕介 『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』を読んだ(再読)。

踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽 (NHK出版新書)
 

 内容は紹介文の通り、

座っておとなしく聴くクラシックやモダンジャズに対して、ダンサブルな流行音楽を大衆音楽と定義すれば、昭和の音楽史に「リズム」という新たな視点が浮かび上がってくる。戦前戦後のジャズに始まり、昭和三〇年代のマンボにドドンパ、ツイスト、はてはピンク・レディーからユーロビートまで。「踊る」大衆音楽の系譜を鮮やかに描いた意欲作。

というもの。
 ダンスをテーマに日本昭和音楽史を綴った名著である。

 以下、特に面白かったところだけ。

踊れないビバップ

 ビ・バップにおいては、テンポが急激に速くなり、パターンの繰り返しを忌避することで、プレイヤーの即興の技術は飛躍的に洗練されたが、それと引き換えに、踊れない音楽になってしまった (13頁)

 ビバップの音楽が失ったものは、ダンスであった。
 少なくとも、素人にはダンスは無理である。*1

天皇と音楽の自粛

 コマーシャルから「お元気ですか」の声が消された。そして崩御の当日のラジオでは、一日中、西洋芸術音楽が流された。 (24頁)

 昭和天皇危篤と崩御について。*2
 国家の非常時において、厳粛な音楽と「不真面目な歌舞音曲」との区別が前景化した例である。
 ならばいっそ、次に天皇上皇が身罷ったら、「歓喜の歌」を流してやったらどうだろうか。

三拍子系と二拍子系

 三拍子系と二拍子系が同時並行する交差リズムはアフロ・ラテン的リズムの根本的な特徴でもある。 (122頁)

 基本ではあるが、念のため。*3

坂本九プレスリー

 坂本九は、 (引用者略) エルヴィスの曲を得意としていた、というより、ほとんどエルヴィスのモノマネのように歌っていた。 (148頁)

 坂本九は、ロカビリー・ブームの中でデビューしたのである。*4

男女ペアからの解放

 さらに重要なのは、各自が触れ合わずに好きに踊る、ということだ。これによって、男女ペアという旧来の白人社会のダンスの大原則が崩壊し、男性が女性をリードする、という規範的な性役割分担や、過剰な身体運動(とりわけ腰の動き)を忌避するお行儀の良い振る舞いも放棄された。 (170頁)

 映画『ブルース・ブラザーズ』の「Shake Your Tail Feather」のシーンに出てくるダンス(代表的なものはツイスト)、その画期的な点はこれである。
 脱集団性、脱性役割、性解放という側面が存在したのである。*5

アイドルという語

 「アイドルを探せ」を中尾ミエがカヴァーしているが、これは「アイドル」という用語の日本における実質的な初出といえる。 (引用者中略) 若い女性スターと結びついて「アイドル」という語が用いられるようになった最初であることは間違いない。 (177頁)

 ただし(これは既に指摘されていることだが)、1959年に「十代のアイドルたち――団令子・桑野みゆき津川雅彦浅丘ルリ子」という記事が既に存在している*6

橋幸夫世代

 しばしば、主に団塊世代を揶揄して、「自称ビートルズ世代は実は橋幸夫世代だ」といったことが言われる。 (216頁)

 60年代半ば、当時十代だった人々のうち、ビートルズを聴いていたのは実質クラスでも少数で、多くは橋幸夫を聴いていたという。*7
 ビートルズの本格的な日本での紹介は、64年のアメリカ進出以降である。*8

ユーロビートはすごかった

 ユーロビートは、時代的には「昭和歌謡」と「J-pop」をつなぐ存在であり、日本における「洋楽」と「邦楽」の象徴的な区分のありようを再考させるものでもある。 (264頁)

 海外の一過性の流行現象(「イタロ・ディスコ」)が、昭和末期にアイドル歌謡とバブル期のディスコをまたいで流行する。
 それがやがて「日本限定の洋楽」に転じ、通算約30年にわたって継続的に親しまれ、しかもアニメやゲームなどの文化と結びつき、日本独自の音楽として実践される。*9
 ユーロビートはすごかった。

レコード優勢の時代は短い

 大衆音楽において、レコード(とりわけアルバム)の購入を通じた個人的所有と鑑賞(傾聴)に基づく受容が優勢だった時代は、たかだか六〇年代後半以降の数十年に過ぎなかったのかもしれない。 (269頁)

 最近のダンス音楽では、音源はネット上に無料配信、製作者がDJとして招かれる機会を増やすためのプロモ材料としての動きも現れている、と著者は述べている。
 「モダン」の究極のカタチ(音楽の偶然性(ノイズ、身体性、共同性)の排除)であったレコードが、プレモダン≒ポストモダンに押されていく感がある。*10

 

(未完)

*1:1946年の映画『Jivin' in Be-Bop』では、普通にビバップで踊っているので、踊れなくはないのである。難しいと思うが。

*2:直江学美は次のように書いている(「アドルフォ・サルコリの音楽活動に関する研究(2)1913年から1915年のサルコリ関連の資料を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/40021136251(PDFあり) )。

記事の中の「後半季に至り諒闇中」とは,1912年7月30日の明治天皇崩御により国民が喪に服している状況であり,諒闇中は音楽会などのイベントも自粛された。

こうした自粛(的圧力)は、あたりまえではあるが、戦前からあったのである。

*3:キューバ音楽のリズムについて、嶋田陽子は次のように述べている(「ソン・クラーベに関する一考察 : ソン成立に影響を与えた歴史的背景の整理とワークショップの実践的活用」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006010507 )。

キューバは、サトウキビやタバコ、コーヒーなどの栽培に適しており、商品作物の大規模農園の発達と共に、金や銀の鉱脈が発掘された南米諸国とヨーロッパとを結ぶ物資の中継地点として栄えた。そのような環境の中で音楽も同様に、スペイン起源とアフリカ起源との両方からの影響を受け混ざり合い、独自のリズムを作り出していくのである。スペイン民謡によく見られる、6/8拍子(2ビート)と3/4 拍子(3 ビート)の交互変種によって出来たのがソン・クラーベである

*4:茨城県フィルムコミッション推進室」制作の「いばらきシナリオ素材集」には、次のようにある(https://www.ibaraki-fc.jp/scenario.html )。

高校生の時,エルヴィス・プレスリーに憧れ,右に出る物がいなかったと言われるほど,プレスリーの物まねで人気者となった。

主な文献として、「坂本九上を向いて歩こう」( 日本図書センター・2001)が参照されている。なぜ茨城県坂本九かといえば、彼は川崎市の出身だが、茨城県笠間市は母の実家もあり戦時中は笠間市疎開するなど、大変ゆかりがあるからである。以上、この註について、2024/1/14に加筆を行った。

*5:もちろんそうした、カップルによる社交ダンスから、アフリカ伝来のソロダンスへの解放の萌芽は、リンディホップのブレイクアウェイ(*ジョージ「ショーティー」スノーデンに代表される)あたりに、あるのではないかとも思う(瀬川昌久瀬川昌久自選著作集 1954~2014』(河出書房新社、2016年)、232頁)。

 著者自身は、1955年のマンボブームで日本ではすでにそうした解放の萌芽があったと述べている。

*6:https://twitter.com/FanTaiyo/status/1076247863791837184 において、既に指摘されている。

*7:しかし下手をすると、橋幸夫さえ聞いていなかったかもしれない。以下、https://shbttsy74.tumblr.com/post/131023620314/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E4%B8%96%E4%BB%A3%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%99%9A%E9%A3%BE より。

大瀧 ましてそれが東京ででしょ。地方出身者で「ビートルズをリアルタイムで聴きました」なんていうのはやっぱりウソだよね。「お父さんってビートルズ世代なの?」と子供に訊かれて見栄を張るお父さんというのもかわいいけれども、正直に橋幸夫世代だということを告白した方が楽になるよ(笑)。/内田 橋幸夫さえ聴いていなかったかもしれないですよ。音楽聴いてない人だってたくさんいたし。/大瀧 そうだね。音楽を聴いているということは決して必須アイテムじゃなかったからね。/『増補新版 大瀧詠一河出書房新社、2012年

*8:じっさい、湯川れい子「特集!ビートルズ ピンからキリまで」が掲載されたのは、1964年4月号の『ミュージック・ライフ』誌である。この時初めて、本誌でビートルズが特集されたと思われる。

*9:ところで、中文版のウィキペディアの項目で、「ユーロビート」(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%90%E9%99%B8%E7%AF%80%E6%8B%8D )をのぞいてみたら、V6が日本での代表的な存在になっていて、しかもなぜか M.o.v.e が曲扱いになっているので、誰か修正してしてあげてほしい。

*10:だが、レコード(記憶媒体)のほうに、かえってノイズや身体性が宿ってしまうことがある。戸嶋久は次のように書いている(「Spotify に殺意を抱くとき」https://note.com/hisashitoshima/n/nd2879bb662ff )。

ぼくらはむかしっからレコードに刻まれた音の、それこそ些細な、ごくごく細部に至るまで、ばあいによっては細かなノイズまでの「すべて」を鮮明に記憶しているんですからね。そうなるようにレコードや CD でくりかえしくりかえし集中して聴き続けてきました。ほんの一瞬の音、ノイズですら鮮明に刻印されているんであって、それもこれもふくめての「アルバム」であり「音楽」なんですよ。

ここでは、反復し記憶する中で身体に刻まれるものとして、音楽はレコード(記憶媒体)において存在している。(もちろん、Spotify においても、反復の中で身体に刻まれることはあるだろうが。)
 踊らない身体にもまた、身体性が宿る例である。

あまりに早く映画を完成させたために、宣伝ポスターも印刷がまにあわず、封切館の支配人が「絵看板も作れない」と悲鳴を上げ -山根貞男『マキノ雅弘』を読む-

 山根貞男マキノ雅弘 映画という祭り』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

昭和という時代に、生涯260本あまりの映画を撮った男がいた。マキノ雅弘。時代劇や任侠映画はもちろんのこと、喜劇にメロドラマにミュージカルと奔放自在に撮りまくった。画面を見ていると、まるで祭りのようにわくわくしてしまうのは何故だろう。邦画にかけては随一の見巧者が、マキノ生誕100年を機に、その全魅惑を解き明かす。

という内容。
 早撮りの名人にして、あらゆる映画ジャンルの撮影をしたマキノ雅弘
 ファン必読の内容と言えよう。

 以下、特に面白かったところだけ。

マキノ雅弘の早撮り

 この作品は三日半で完成したが、あまりに早くできあがったため、宣伝ポスターもプログラムも印刷がまにあわず、封切館の支配人が「絵看板も作れない」と悲鳴をあげたそうである。 (14、15頁)

 1939年の映画『袈裟と盛遠』(稲垣浩との共同監督)の話である。
 マキノ雅弘がどれほど早撮りができたか、それを語るエピソードである。*1

 参照されているのは、稲垣浩『ひげとちょんまげ』である。

ただのカットバックではない

 マキノ雅弘一流の「ツーキャメ」方式 (引用者中略) カットバックの一種でありながら、二人の姿を流動性の豊かな切り返しのなかに描き出し、情感を盛り上げる。 (125頁)

 会話する二人を、二台のカメラで斜め前方から撮り、片方の後姿の向こうに相手の正面向きの上半身を捉えたカットを編集で交互につなぐ。*2
 こうした方法をマキノ雅弘はよく使用していた。
 そこにはどんな秘密があるのか。

たった2コマの違い

 たった二コマ、ダブらせるだけで、絶妙なラブシーンが生まれる。 (179頁)

 澤井信一郎の証言である。
 出典は、東映ビデオから出た「マキノ雅弘高倉健」というDVDボックスの封入小冊子である。*3

 「ツーカメ」で撮るとき、切り替え時に2コマダブらせると、流れがゆっくりになって綺麗になるのである。

 逆に、アクションの時は2コマ飛ばす。

 するとアクションが速く見える。

 

(未完)

*1:雑賀広海は、「マキノは制作に携わるスタッフや俳優との念入りなコミュニケーションを重要視し、映画制作は集団的な創作であることを強調している」としている(「阪東妻三郎はなぜ踊るのか 『決闘高田の馬場』の殺陣」https://japansociety-cinemastudies.org/291/ )。当時のスタッフの証言を合わせて考えると妥当な主張と思われる。このあたりも、早撮りに欠かせない要素である。 以上、この註について2024/1/3に加筆を行った。

*2:例として、長谷正人が挙げている例を引用したい(「マキノ雅弘あるいはダンスする映画」http://www.ipm.jp/ipmj/eizou/eizou52.html )。

『弥太郎笠・前編』(1952年)のラヴシーンを思い出してみよう。弥太郎の鶴田浩二が突然旅に出るために、恋仲になりかけている岸恵子に別れを告げるそのシーン。 (引用者中略) 短い会話で互いの思いを上手く告げられないまま別れるという簡単なシーンにすぎないのだが、これを映像として見たときには、実に素晴らしい印象的なシーンなのである。 (引用者中略) 「振り返る」アクションはすべて、遅延したカッティング・イン・アクションによって、微妙に誇張された「回転」動作のように見える。つまりこのラヴシーンは、まさに二人の男女が息を合わせて回転しあうダンスシーン(あるいは、この映画全体で出てくる盆踊りそのもの)として構成されているのである。

 なお、こちらのブログ(http://sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-504.html )で、その映像を視聴できる。

*3:澤井信一郎は、山根を司会とする座談会で、次のように述べているという(ブログ・『パラパラ映画手帖』より「マキノの撮影現場に迫る~「マキノ組助監督の座談会」京都映画祭だより~」https://blog.goo.ne.jp/paraparaeiga/e/93b232728cb93635d1432711291eb797 )。

僕が東映東京で助監についた時は、既に2つのカメラで撮影していたので、中抜きはなし。マキノ監督はフレームの中に一人しか映っていないのは嫌い。一人だと動きが少なくなり、静止(ストップモーション)になる。一人を写すとしても、相手をなめてからとか、相手も画面に入れ込んだりして、もう一人がたとえぼけてても、そのほうが動きがある。画面の中に複数いることで流れができる。