マングローブの復讐譚 出雲公三『カラー版 バナナとエビと私たち』(2)

マングローブの怒りとしての【下痢】■
 確かに、現実的には「生水を口にした少年が腹を壊した」とするものでしょう。しかし、氷を口にするシーンとおなかを壊すシーンとの間に、マングローブの伐採されたシーンが挟まれることで、その、意味づけは変容します。
 あたかも、マングローブの伐採を目撃してしまったために、少年が腹を壊してしまって、地元のエビやカニを食べられなくなるかのようなのです。伐採されたマングローブが、彼が地元のエビやカニを食べるのを、妨げたかのように(マングローブが伐採された場所で、エビは養殖される!!)。
 しかも、本書において、主人公たちはみな当たり前のように食事をします。それはこの漫画の展開上当たり前でしょうが、その「食事」・「取り入れること」ことが頻出し続ける漫画において、このシーンは数少ない「排泄」・「出すこと」のシーンなのです。しかも、彼の排泄物は、エビたちにさえ、捧げられることのない、無償の(すなわち、エビの食べ物にもならないような、エビと人間とが直接関係を持たない)排泄物なのです。
 だとすると、すなわちこのシーンは、マングローブの、伐採されて生じた怒りのようなものが、少年の腹を壊し、マングローブを破壊してできた池で育ったエビ(とカニ)を食べさせることを妨げ、しかも、腹を壊した少年の排泄物はエビに供されることさえもない】という、伐採されたマングローブが少年からエビを徹底的に、その関係すらも遠ざけるシーンなのです(デュラス『破壊しに、と彼女は言う』を想起してみましょう)。
 本漫画は、教育的自粛の支配の中で、ディテールがその自粛に抗おうとしている漫画なのです。上がその最たる例なのです。

■漫画として描かれなかった「壁」と「チガヤ」■
 その点で、「小学生の読者を対象」としたカラーの第1話と第2話が、漫画の表象としての強度を持つのに対して、「対象年齢をもう少し上に設定した」モノクロページの、年齢がより上向きの第3話は、説明過剰の感が否めません。
 また、返す返す残念なのは、作者の「あとがき」にある挿話を、生かせたらどんなにいい漫画になったことか、と思わずにはいられないことです。これが取り入れられなかったのは、いうまでもなく、<教育的自粛>によるものでしょう。ではその挿話はどのようなものか。
 ひとつは、グロスの街中の家並みを区切る壁です。
 その壁にあけられた穴をくぐると、そこには「さまざまな理由で住むべき家をなくした人たちが、廃材のパズルのような小さな住まいを密集させて暮らして」おり、「地主が築いたのだというその壁は”不法占拠者”としての彼らの住まいを取り囲み、周囲から隔離するようにそびえて」いる。そしてこれについて著者は、このような問題は「見えにくいところに追いやられているかもしれない」と述べるのです。この、壁とその中で密集せざるを得ない「不法占拠者」というシーンは、とても胸に迫るものがあります。
 また、チガヤという植物もそうです。作者は、「小さ稲のような雑草の草原」の、白い穂の波を美しいと思うが、後で、森の木々が伐採された後にこの草が生えることを知り、「後ろめたく」思うのです。美しい、しかし、その地に暮らす人にとっては土地の貧しさそのもの、この両義的な存在を生かせなかった。このことが大変残念です。
 最後に、ひとつ。本書の中では、世界で一日に生まれる子供が35万人に上るが、その中には、貧富の差や育つ環境の差が生まれている、と主人公の母が述べるシーンがあります(56頁)。この言葉は、『世界がもし百人の村だったら』よりも、その抽象性を免れています。世界が百人の村じゃないから、つまり、人数が多すぎて百人に対するようなスタンスを取れないから問題が生じているのだ(百人に対する姿勢と数億人に対する姿勢は異なるはず)、ということをすっかり忘れさせる後者より、前者はずっとましな言葉なのです。