解説が作品に屈したら駄目だろう。戦え。解説は作品の奴隷じゃない。 -斎藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』を読む-

 斎藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』を読んだ。

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)

 

 内容は紹介文の通り、

名作とベストセラーの宝庫である文庫本。その巻末の「解説」は、読者を興奮と混乱と発見にいざなうワンダーランドだった!痛快極まりない「解説の解説」が幾多の文庫に新たな命を吹き込む。

というもの。
 読んで痛快。さすが斎藤美奈子

 以下、特に面白かったところだけ。

「うらなり」よりも「赤シャツ」

 女性なら、自分を愛しているのかいないのかもはっきり言えないうらなり君より、赤シャツのほうに魅力を感じるのは当然 (19頁)

 集英社文庫版における、ねじめ正一の『坊ちゃん』に対するコメント*1である。
 うらなりは単なる名家の息子で、魅力に乏しい。
 マドンナの方も親の言いつけでしぶしぶで、といったところだろう、と。
 一方、赤シャツは東大出で知識も話題も豊富、マドンナにも積極的に近づいた。
 そりゃ、赤シャツに行くわい、と。*2

『白鯨』とジェンダー

 この白人の青年と南洋の筋骨たくましい「蛮人」とのホモ・エロティックな関係はあきらかである (77頁)

 『白鯨』についての解説である。*3
 当時の米国でのホモ・セクシュアリティに対するタブー意識を考えれば、かなり大胆率直な作者メルヴィルの挑戦が、指摘されている。*4

 ここでいう「ホモ・エロティック」というのは、「ホモ・ソーシャル」と「ホモ・セクシャル」との中間に位置するエロティックな関係を指すという。

読者を一人前の大人として扱う

 『小公女』までダシにするんだもんな。困ったもんだな、曽野綾子。 (94頁)

 貧しさを自己責任論に還元させ、植民地主義も半ば肯定される、そんな曽野お得意の論法に対して、著者は批判を加えている。

 痛快である。*5

 児童文学の読者を一人前の大人として扱う。それを教育っていうんじゃない? (96頁)

 至言であろう。
 児童文学の解説に、半端な教訓などいらない。
 必要なら、彼らは自分のための教訓を自分で見つけ出す。
 解説にできるのは、そのための情報を提供することだけである。*6 *7

 著者が高く評価するのは、小説の設定と実際の19世紀英国の社会状況との比較ののち、最終的に主人公と「具体的なインド人との心の通ったやりとり」に着目した、原田範行の解説である。*8

解説は作品の奴隷ではない

 『少年H』に感動した読者が一〇年後、『永遠の0』に涙する。 (238頁)

 あらまほしき銃後の少年、あらまほしき戦前の軍人。*9 *10
 どちらも一種の「英雄譚」である。
 ゆえに、多くの読者を獲得した。
 だが、解説が作品に屈したら駄目だろうと著者は言う。
 戦え、と。
 解説は作品の奴隷じゃない、と。
 まさしく、その通りであろう。

 

(未完)

 

*1:「鑑賞」という位置づけである。

*2: マドンナを「ひたすら忍従を強いられていく女ではなくて、自由に活発々と己を解き放っていこうとする新しい女」と規定して、うらなりが象徴するのが「伝統的土着」、赤シャツが「ハイカラ近代」、という風に解釈する見方は、既に存在している(千石隆志によるもの)。
 これに対して、

マドンナは、うらなりを選ぶでもなく、赤シャツを選ぶでもなく、暖昧な態度のままである。赤シャツの象徴するハイカラ近代を明確に意志して選択しているのは、マドンナの母親であってマドンナ自身ではない。

と、松井忍は指摘している(以上、引用・参照は、「漱石初期作品におけるマドンナ--『坊つちやん』から『三四郎』『草枕』へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000883036 に依った)。
 松井のこの指摘は正しいと思われる。そもそもこの小説でマドンナは一言もしゃべっていないような人物である。また、実際、松井の言うシーンでも

女の方はちっとも見返らないで杖つえの上に顋あごをのせて、正面ばかり眺ながめている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。

という風にマドンナは「新しい女」に該当しそうなそぶりを見せていないのだから(*引用は青空文庫版『坊っちゃん』に依った)。

*3:本書では、八木敏雄の『白鯨』解説(岩波文庫版)が、参照・引用されている。上記の引用も、斎藤からの引用ではなく、八木の解説を孫引きしている。

*4:高橋愛は次のように論じている(「クィークェグとは何者か : 『白鯨』における不定形の男性像」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009908895 )。

クィークェグはセクシュアリティジェンダーにおいても曖昧なところがある。彼はイシュメールに対して友愛を示したが、それは同性愛的な様相を呈するものである。友情を逸脱し同性愛的であるクィークェグは、セクシュアリティのうえでとらえどころがなくなっている。またジェンダーについては、王子や銛打ちという肩書き、あるいは、「新郎」というたとえから、彼は男性的とみなされてきたが、その行動には男のジェンダーから逸脱するところがある。クィークェグは性においても、異なった特性を混交させた存在となっているのである。

*5:鳥集あすかは『小公女』について次のように論じている(「〈少女〉を探して : 『小公女』にみる理想の少女」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005399648 )。

セーラの敵であり悪の権化として語られるミンチンは、家父長制社会における「理想的な家庭」を築くことのできないキャリアウーマンである。働く女性であるミンチンの子育てはことごとく失敗し、彼女は妻としても母としても不良品であるだけでなくその冷酷で金にがめつい性格から、キャリアウーマンがいかに社会の悪であるかという印象を多かれ少なかれ読者に与えている。

この作品の重要な一側面を論じるものとして、ここに紹介しておく。

*6:ここで著者が批判をぶつけているのは、やはり先に出てきた曽野綾子に対してである。

*7:張替惠子は、東京子ども図書館での本の貸出規則について次のように述べている(「中央区男女共同参画ニュース Bouquet 」73号、2014年 )。

アン・キャロル・ムーアが1900年代の初めに「図書館の約束」をしたのとはいくつか違いますが、子どもたちを一人前に扱うことで子どもたち自身に本を読む規律と本を読む楽しさを理解してもらうことを意図しています。

本書につながるような、とても重要なことを述べていると思われるので、ここに紹介する次第である。

*8:ここでいう「具体的なインド人」とは、作中のラムダスのことを指す。

*9:前者については、資料的な裏付けの取り方に対して、批判が存在する。詳しくは、山中恒『間違いだらけの少年H 銃後生活史の研究と手引き』(辺境社、1999年)等を参照されたい。この山中著については、著者・斎藤も言及している。

 なお、山中著については、

『間違いだらけの少年H』といえば、決定でもない新仮名遣いを教師が教えるだろうか?という問題提起があったと思いますが、実例があるんですよね(妹尾氏の実体験かはともかく) 複数の資料にあたる大切さを思い知らされます。

と、ツイッター上で指摘があった(https://twitter.com/keyboar/status/1048555533085466626 )。大事なことであるので、ここに紹介する次第である。

*10:実際のところ、『永遠の0』という小説の主人公は、「あらまほしき戦前の軍人」というより、「戦後的価値観から正当化できる『あらまほしき戦前の軍人』」とでもいうべきであろう(著者・斎藤も、この小説の主人公・宮部が、戦後民主主義的価値観を持った人物であることについて言及している。)。藤田直哉が述べているように、

確かに、実存や葛藤の部分は大きく違うかもしれませんね。『永遠の0』の主人公は、『海賊とよばれた男』のような熱血モーレツ社員的な人間ではないし、国のために生きる国家主義者でもない。クールというか、個人主義者ではありますよね。

藤田直哉×杉田俊介百田尚樹をぜんぶ読む 第11回 『永遠の0』(1)」https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/hyakuta_zenbuyomu/7702/2 *内容は、集英社新書にて読むことができるという。)

 じっさい、本当に戦中の価値観であれば、「家族」ではなくて、「天皇」のために死ぬことが称揚されるであろう。詳細は、以前書いた記事を参照(http://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20140712/1405150769 )。
 もちろん、

図らずもこの解説は、特攻という非人道的な戦法を発明した日本軍の暴力性と犯罪性を隠蔽する。作品を相対化する視点がまったくないから、読者はまんまと騙される。

という、著者・斎藤による『永遠の0』の解説(児玉清・筆)への批判は正しい。特攻は、まず敵軍の兵士への加害行為であるし、そして自軍兵士への加害行為であり、その指摘を抜かした解説は手落ちであろう。

口紅と戦争との関係の話から、国王が排便しながら接見希望者に対面する話まで -中野香織『着るものがない』を読む-

 中野香織『着るものがない』を読んだ。

着るものがない!

着るものがない!

  • 作者:中野 香織
  • 発売日: 2006/10/24
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

ファッションを切り口に、大人の男女の心の機微を描くヒューマン・エッセイ集。

である。
 某密林のレビューに、「感覚論に陥りがちなファッションの世界を文献等から博識に解き明かしていく」とあるが、まさにそうである。
 ファッションに興味のない人でも、楽しめるのではないか、と思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

スティック型口紅の近代

 戦勝国になったこの国では、口紅が戦時の疲労を隠し、士気を高めるための最も有効な「女性の秘密の武器」たる必需品として奨励され (17頁) 

 1915年以降にスティック型の口紅が本格的に普及する。*1
 その普及には、戦争もまた、かかわっていたのである。
 第二次大戦期のアメリカでも、「勝利のレッド」や「愛国のレッド」という名前の口紅が売られた。*2

 一方、第二次大戦時のドイツでは、口紅は禁止、戦前に口紅のカートリッジを作っていた機械は、弾薬筒製造マシンに転用された。*3
 また、ユーゴ内戦で難民生活を強いられたボスニア女性たちが要望した品が、食料などの生活必需品ではなく口紅やスカーフだったという話も、著者は書いている。*4

オートクチュールの存在意義

 同じ服を着た女に遭遇したときの不快さ (25頁)

 世界で一着だけしかないことを保証するオートクチュールがなぜ廃れないか。*5
 その理由がこれである。

排便しながら接見する国王

 十七世紀に目が点になるような前例がある。 (91頁)

 当時、国王や貴族が朝起きて穴開き椅子に座り、そこで排便の儀式を行いながら、接見希望者に応接した。

 絶対王政時代、国王や貴族が圧倒的に接見相手より高位であることを示す行為であったという。*6

マナーの意義

 礼状を書くとき、形式どおりに書けば、たちまち文面が埋まって便利 (110頁)

 マナーは本来、合理的なものだと著者はいう。*7
 これさえ守れば、あまり考えなくてもよいのだから。
 これは、例えば礼状の場合であれば、出す側受ける側双方にとって、思考の節約である。
 なんだか、複雑性の縮減という言葉も、想起されないではない。*8

 

(未完)

 

*1:口紅は、モーリス・レヴィが1915年に金属製の口紅容器を発明した後、広く普及したとされる。
 だが、ウェブサイト・「Collecting Vintage Compacts」は、それに異を唱えている(参照:http://collectingvintagecompacts.blogspot.com/2015/12/maurice-levy-man-who-never-invented.html )。

But I hope that this expose will convince those who read it that recorded history in this instance is wrong and that Maurice Levy neither designed nor invented the first American lipstick case. His involvement was simply to place an order with Scovill for lipstick tubes and eyebrow pencil tubes that he planned to fill with products he intended to manufacture with his newly formed French Cosmetic Manufacturing Company. The containers in question had been recently designed and manufactured by Scovill for other clients but the records concerning who designed them and when do not now exist. My belief is that it was probably William Kendall who was responsible for the lipstick design and that his 1917 patent reflects the original design in question.

米国初の口紅容器を発明したのはモーリス・レヴィではない、というのである。そして、実際に発明したのは、William Kendallという人物だという。その後1917年に、Kendallは口紅容器の特許を得ているようだ。

*2:これの復刻版めいたものも、存在するようである。https://besamecosmetics.com/blogs/blog/110328966-introducing-1941-victory-red-classic-color-lipstick 

*3:HISTORY TODAY」の記事・「ファッションと第三帝国」(https://www.historytoday.com/fashion-and-third-reich )によると、

Hitler was an unlikely fashionista - despite overseeing the uniform for the Bund Deutsche Madel, his approach to feminine adornment was generally negative. He hated make-up - often remarking that lipstick was composed of animal waste - and disapproved of hair dye. Perfume disgusted him, though he bowed to Eva Braun’s enthusiasm for it, and smoking was revolting. Trousers were out, too, as unfeminine, and fur was horrific because it involved killing animals.

とのことで、そもそも、ヒトラーは口紅が嫌いだったようである。

*4:石田かおり『化粧せずには生きられない人間の歴史』(講談社、2000年)という本に言及して、そう述べられている。実際に、この本の52頁に該当する箇所があるが、具体的に誰の経験であったのかは、書かれていない。

 「TED RADIO HOUR」において、ZAINAB SALBI は、次のように述べている(https://www.npr.org/transcripts/466044738 )。

And honestly, it was from the women that I thought I was helping who taught me how to enjoy beauty and celebrate it. It was women in Bosnia, for example, during the days of Sarajevo. It was longest besieged city. And I went in the besiege. And I went - I was like OK - what do you want me to bring you next time I'm here? And the woman said lipstick. I'm, like, lipstick? (引用者中略) And they said because it's the smallest thing we put on every day and we feel we are beautiful, and that's how we are resisting. They want us to feel that we are dead. They want us to feel that we are ugly. And one woman, she said, I put the lipstick every time I leave because I want that sniper, before he shoots me, to know he is killing a beautiful woman.

参照した元ネタは、たぶんこれであろうと思われる。

 スナイパーに、お前が殺そうとしているのは美しい女なのだと知らしめたい、という言葉が重く響く。

*5:デザイナーのGalia Lahav(ガリア・ラハヴ)は、オートクチュールについて、次のように述べている。

生地や技術の質はファッション業界にとって重要で、維持していく必要があるものなのです (引用者中略) これらはファッションの土台であり、ルーツです。上質の生地や刺繍、縫製といったものを無視することはその土台を失うことであり、他の人と同じになってしまいます

オートクチュールの存在は、着る側だけでなく、作る側にとっても特別である。同じ物が嫌なのは、着る側だけでなく、作る側にとっても同様の心理である。以上、引用部は、「ハーパーズ バザー」の記事(https://www.harpersbazaar.com/jp/fashion/fashion-column/a87481/fwh-why-couture-fashion-is-important-170202/ )からのものである。

*6:青木英夫は、次のように書いている(「風俗史からみた17世紀ヨーロッパ?主としてナプキンについて?」http://www.jafs.org/bulletin.html )。

ルイ14世を中心とするフランス宮廷生活は厳格な宮中席次を持つ臣下達によって、すべて儀式としてとりおこなわれた。フランスの宮中席次は52あるが、1680年に制定されたものである。この宮中席次は各国にとり入れられ、戦前の日本もフランスの席次にならったものである。ルイ14世の時代では、起床、いのり、謁見、食事、散歩、就寝、排便等には夫々臣下が参列した。たとえ一杯の水でも、それを王にさし上げるのは 4 人の定められた人々によったし、ハンカチやナプキンを呈する人物さえ定まっていた

 ただし、大森弘喜は、16世紀末の仏国の王侯貴族について、「自然の生理現象と排泄行為を恥ずべきものとして隠そうとしたので,トイレとその行為は隠喩的な表現でしめされた」のであり、

王侯貴族らがこの排泄行為を秘匿しようとしたのに対し,ガスコーニュ出身の軍人でもあった哲学者モンテーニュは,「この下品な話題を」隠すことなく,「その行為のために,場所と座席に特別の快適さを配慮しつつ」,決まった時間に排便したという

と、とある本の書評に於いてまとめている(「書評 なぜパリジャンはかくも長いあいだ悪臭に耐え,汚物と共存したのか アルフレッド・フランクラン著/高橋清徳訳『排出する都市パリ--泥・ごみ・汚臭と疫病の時代』」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007335530 )。

 大森(と書評した当該書)の述べるところが正しいとすると、排便を王が見せるようになったのは、モンテーニュの時代よりもあと、17世紀以降の話ということになる。

*7:より正確には、「日本マナー・プロトコール協会」の理事・明石伸子の主張である。

*8: プラユキ・ナラテボーは『自由に生きる』(サンガ、2016年)において、(広義の)マナーの合理性(理に適っていること)について説明している。
 例えば、日本の学生がタイの村でホームステイをしたこと。そのとき、学生は穴の開いたズボンにTシャツといういでたちで、村人は侮辱されたと感じた。その後、打ち解けてきたが、そのときにはもう帰国の時期だったという。そして、「もし早く村人と仲良くなりたいのであれば、まず身なりを整えるってことも大事なこと」(当該書188頁)と述べる。

 相手に予断を持たせないためである。(まさに、相手に精神的負担をかけないという「マナー」のメリットは、中野著でも述べられている事柄である。)

 また、仏教の戒律(*これもマナーである)についても、その意義が説明される

 それは、「細かい規定があればあるほど、心の動きに気づける」機会が増える(当該書182頁)ためである。戒律を持たなければ、欲望から行動までストレートになる。一方、戒律を設ければ、自主的に戒律を守り、行動をいったん止められる。そして気持ちと行動の間に摩擦が生まれて、食欲などの体の感覚や心の動きが自然に見えてくる。ゆえに戒律は細かく規定されている、と説明している。あえて、欲望に柵を設けて、感知しやすくするのである。
 そして、行動における実践も心へ影響を及ぼすと仏教では考えるので、言葉や行動を具体的に整えるという戒律遵守の実践が心の変化を自然に促すと考えるのだという(当該書201頁)。

 以上、(広義の)マナーというのは、諸々役に立つこと、存在意義はあることを長々と説明した。
 まあ、上記当該書のレビューをする機会がなかったので、ここに書いただけではあるのだが。

基本近世絵画ばかりだが、日本絵画入門としてこの上ない出来である。 -安村敏信『線で読み解く日本の名画』を読む-

 安村敏信『線で読み解く日本の名画』を読んだ。

線で読み解く日本の名画

線で読み解く日本の名画

  • 作者:安村敏信
  • 発売日: 2015/06/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り、

モノをカタチづくる輪郭線と、画家たちはいかに格闘してきたのか?日本絵画の要諦は線にあり。奈良時代の墨絵から浮世絵、近代画まで、日本絵画の歴史一二〇〇年を新しい視点で読み返す美術案内。

というもの。
 基本近世絵画ばかりだが、日本絵画入門としてこの上ない出来である。
 お勧めしたい。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

やまと絵の美しさ

 下書きの線を筆で描き、その上に彩色が施された後、最後に輪郭線を墨で描き起こす。 (15頁)

 平安時代の宮廷繪所での絵師の活動について。
 やまと絵の制作方法は、引用部のとおり行う。
 輪郭線の墨の線は、「後のせ」なのでである。
 著者は、源氏物語絵巻「夕霧」を例に、細い線を何度か重ねることで、微妙な変化をつける技法に注目するよう促す。
 わずかな目の角度で各々人物の感情を描き分けるなど、精密な技が施されている。*2

無重力空間にいるような達磨

 まるで達磨の体重を感じさせないような、達磨が無重力空間に浮いているような摩訶不思議な線。 (53頁)

 雪舟の「慧可断碑図」の話である。
 達磨と慧可。特に前者の輪郭線は、線というには太すぎ、面というには細く、淡墨というには少し濃く、濃墨というにはあまりに淡い。
 そんな、どっちつかずなゆるい線である。
 まるで無重力空間に浮いているような線、と著者は形容している。*3
 的を射た発言ではないだろうか。

歌麿の天才的造形

 つくづく歌麿の天才的な造形に感動した (184頁)

 著者が美術館の館長をしていた時に、巨大パネルに目と鼻と口の三つのパーツをつけてもらう企画を著者が思いついて、実行した。
 パネルのモデルは、歌麿の「歌撰恋之部 物思恋」だった。*4
 じっさいやってみて、一寸でも違うと全く違った表情になることに気づいた。
 しかも、原画を見ながらでも上手くいかない。
 けっきょく、気品がありながら物憂い表情は、出せなかったという。*5

北斎と漢画

 文化年間に入り、力強い肥痩線を美人画に好んで使うようになる。四十代後半の葛飾北斎と名乗った時期である。 (216頁)

 北斎(当時は俵屋宗理を名乗った)は、宗理風というしなやかで細身の美人画を確立していた。
 それが、北斎を名乗ってから、正統漢画の線を使うようになった、と著者は言う。*6
 ところで著者は、北斎富嶽三十六景が、ドビュッシー交響詩・「海」にインスピレーションを与えた、との旨を述べているが、残念ながらそれを裏付ける証拠に欠けている。*7

御舟の見えない線と「生命」

 御舟は、輪郭線という、本来は見えるはずのない物体と空間の境界にある線を如何に描くかに苦心している。つまり本来見えない線を追及している (246頁)

 速水御舟は、生き物に対しては、輪郭線を明瞭に描こうとしない。
 むしろあいまいに描こうとする。
 周囲に白っぽい、淡い空間を描いたりする。
 それによって、生命の存在感を描こうとしているのだ、と著者はいう。
 一方、死んだ生物には輪郭線が現れてくる、とも述べている。*8 *9
 また著者は、林十江については、人物や風景などには明瞭な線で、実在せぬ天狗やウナギなど水中や幻想の世界のものは外へ溶け出すような輪郭線で描く、と指摘している。
 どのように線を描き分けるかで、絵師の個性が出るようである。

 

(未完)

 

*1:本書を批評する場合、おそらく、中心的テーマのひとつである「線の否定」の観点から、俵屋宗達を論じるケースが多いように思うが(その例として、https://dot.asahi.com/webdoku/2015071200007.html?page=1 )、本稿では取り扱わない。

*2:1968年の小学館から出た『原色日本の美術 第8巻』には、「源氏物語絵巻」について、

さらにひとつひとつの顔を拡大し、仔細に調べてゆくと、同一類型と思われた顔も決して機械的に描かれているわけではないことが分かる。すなわちこの絵巻の場合、顔の輪郭も目鼻の線も実は単純な一本の黒線ではなく、非常に細い線を幾本も引き重ね、微妙なニュアンスを込めて作られたものである。ことに「引目」の線は、一本のようにみえながら、そのある部分を強調し、あるいは軽い点を加えることで瞳のあり方を暗示するなど、それぞれの顔にひそやかな命をかよわせている。

とあるようだ(ブログ・「なんだかなー」
https://ameblo.jp/chii00ringo/entry-12223729943.html  から引用を行った。)。
 この一文は、秋山光和の手になるものである(以下を参照https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002300817-00 )。

 なお、秋山は続けて、微細な線の積み重ねによる特異な表現は『源氏物語絵巻』とほかの絵巻など(『紫式部日記絵巻』など)とを区別する特徴だとしている(当該書174頁)。

*3:人見和宏は、「慧可断腎図」について、次のように指摘している(「Shall we雪舟?:「慧可断腎図」を味わおう」https://ci.nii.ac.jp/naid/130001679675 )。

(1)達磨を薄く、周囲を濃く描くことによって白黒の対比を強調
している。
(2)達磨を曲線で、背景の水平線を直線で描くことによって、
曲線と直線を対比させている。
(3)岩の形は、達磨の輪郭を取り囲むようになっている。達磨
を中心にして、あたかも波紋が広がるかのような形となっ
ており、達磨の輪郭の曲線を強調している。

達磨の白さと曲線を活かすように配慮した結果、達磨がまるで浮いているように見えてくるのである。

*4:「歌撰恋之部」のほかの絵と比較(参考:http://jijisakura39.blog.fc2.com/blog-entry-341.html )してみると分かるが、「物思恋」がもっとも、目と口のバランスを保つのが難しいことが理解できる。少しでもずれると、間が抜けるのである。

*5:ところで、村上征勝と浦部治一郎は、次のように書いている(「浮世絵における役者の顔の描画法に関する数量分析」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006019028 )。

浮世絵師たちには,どのような種類の浮世絵であれ,程度の差は見られるものの,女性の顔は面長に,そして男性の顔は丸顔に描こうとする共通した傾向があったと考えられる.この傾向は歌麿美人画春画に描かれた顔よりも,男性劇である歌舞伎の役者の顔を描いた役者絵の方に顕著に現れており,これは,女形を演じる男性の顔はことさら女性らしく描くことによって,女形と立役を明確にし,役柄のうえでの男女の違いを明確にしようという意識が,本物の男女の顔を描いた美人画春画に比べより強く働いたことが原因と思われる.

特に歌麿について、本物の男女のケースに比べ、役者絵の方がより男女の役柄の描き分けをしているとの指摘である。また、写楽について、

写楽にあっては,女形の顔を女性らしく見えるよう描こうという意識は,豊国,国芳よりも強く,それが女形と立役の顔の描き方の顕著な差となって現れているということである. (引用者中略) 女形の顔をより女性らしく見えるように描こうとするこのような写楽の意識の強さが,彼の絵が「あらぬさまにかきなせしかば」と評価される原因の一つになっていたとも考えられる.

と興味深い指摘もなされている。ぜひご一読を。

*6:ところで、北斎はどのように漢画の技法を獲得したのか。内藤正人によると、和刻された『芥子園画伝』や明代の版本のほか、南蘋派の流れをくむ建部綾足や渡辺湊水の画譜、橘守国『絵本通宝志』、宮本君山の『漢画独稽古』などから、学習したようである(「北斎の漢画学習―独学で習得した漢画の図様と筆法」https://www.tnm.jp/modules/r_db/index.php?controller=list&t=publication_museum )。

 内藤は、北斎狩野派より、『芥子園画伝』や明代版本などを基にした画譜類、南北様々な中国画風を伝える先輩たちの画譜類を介して漢画の技法を学習したが、学んだ図様などはそのまま使うのではなく、頭の中で再構成してから北斎は描いている、と指摘している。

*7:安藤真澄は、次のように述べている(「ドビュッシージャポニスムをめぐる音楽社会学的考察 : 作曲家における日本の芸術の影響と聴取者によるその音楽の受容について」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006708998 )。

国立国会図書館レファレンス協同データベース (引用者中略) によると,交響詩《海》のスコア初版表紙は海のイラストで飾られており,葛飾北斎の《神奈川沖浪浦》に波の形において似ているようにも見えるが,色調や全体の構図は異なっており,北斎の浮世絵を表紙に使用したとの明確な記録もないため,《神奈川沖浪浦》を引用したとは言い切れないとされている。また,2013 年現在,少なくとも音楽研究書の範囲では,ドビュッシーが「曲想を得た」とまでを認知する段階に至っていないと判断している。ドビュッシーの《海》の初版の楽譜表紙に用いられた海のイラストには北斎の海との外形的な類似性は見られるが,よりデフォルメされ,図案化された一つのデザインと見ることができる。

 少なくとも、専門的見地からは、ドビュッシーが、北斎の《神奈川沖浪浦》から曲想を得た、とする証拠は見つけられないのが現状と言えるだろう。

*8:実際、御舟の代表作である、「京の舞妓」や「牡丹花」なども、輪郭が曖昧だったりぼかされたり、何か靄のようなオーラをまとっていたりする。

*9:佐藤学は、狩野芳崖竹内栖鳳が、墨線を中心に検討していたのに対して、速水御舟は、

《洛北修学院村》では本画と同じ大きさの下絵は無く、スケッチや小下絵(図 2-11)のみとなっている。御舟の《洛北修学院村》における小下絵では、線描の検討ではなく、形や色彩の当たりや構図の大まかな検討をしていることが窺える。

という(「支持体から見る絵画表現 : 絵画における支持体の機能についての考察、ならびに和紙を用いた絵画制作の検討と実践」https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=35075&item_no=1&page_id=13&block_id=83 )。また、佐藤は、島田康寛の論考を参照して、「日本画の描く絵から塗る絵への絵画表現の変化と共に、下絵の役割が変化して」おり、「洋画の影響を強く受けた時期と重なり、明治末から大正時代にかけてと、特に戦後に著しい」としている。この場合、御舟は、「塗る絵」、すなわち、線描を主体としない絵を描く人、といえそうである。

パスカルにとって信仰とはどのようなものだったのか、そして、彼の「差別的」なユダヤ人観について -山上浩嗣『パスカル『パンセ』を楽しむ』を読む-

 山上浩嗣パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

一見、近づきやすそうなこの作品は、しかし実際に手にすると、思いのほか読みにくい難物である。それゆえ第一級のパスカル研究者が『パンセ』の魅力を味わい尽くすために書き下ろした全40章。1日1章、最高の読書体験を!

というもの。
 優れたパスカル研究者による、パスカル入門。おすすめである。
 パスカルすげえ、から、パスカルやべえ、まで、そろっている。

 以下、特に面白かったところだけ。

愛とはとめどない興味

 ラ・ロシュフコー箴言集』の一節は、パスカルに対する見事な反論をなしている。 (34頁)

 パスカルは、世俗における愛を、自己の「邪欲」の発現であるとした。
 そして、地上における愛をすべてはかなく不正とみなした。
 例えば、相手の容姿や性格を好きになったとすれば、その要素が失われたら愛も失われるのではないか、と。
 それに対して、ラ・ロシュフコーは、変わらない愛とは、あるときはこれ、あるときはそれ、と次々に執着させていく、たえざる変化のことだと規定しているのである。*1
 これはラ・ロシュフコーの方が一枚上手であろう。*2

パスカルにおける信仰と習慣(と身体)の関係

 パスカルにおいて信仰は、知性や理性(のみ)によって得られるものではない。 (52頁)

 信仰に至るためには、一時的に精神の営みを意図的に中断し、自己を他者と偶然にゆだねなければならない。
 そして、その思考の中断には、他者の動作の模倣という形で、身体の動作が大きく関与している。
 まるで信じているかのようにふるまい、聖水を授かったりミサを唱えてもらったりする。*3
 身体を通じて信仰に至る、という身体性がパスカルにおいては重要となる。*4

疑ってこその信仰

 疑いを持ちながらも、探求の途上にあるという自覚こそが、むしろ正しい信の条件なのだ (110頁)

 パスカルが目指すのは神の存在といった命題の証明ではない。
 宗教が告げる命題が真であってほしいという希望を抱き、それが確信に至るまで、自ら進んで探求するよう誘うことである。
 安易な確信はかえって慢心を招くとする。

 パスカルにとって信仰とは希望であり、プロセスなのだ。*5

パスカルは世俗的な欲望から逃れえたのか

 パスカルが(少なくとも妹の目からは)いかに世俗的な欲望にまみれているように見えていたか (135頁)

 パスカル回心直後に、妹からパスカルへの手紙がきた。
 その手紙によると、回心以前のパスカルは、身分の高さや名誉に弱かったようだ。
 だが、回心以降のパスカルは、本当に、世俗的な欲望から脱し切れたのだろうか。

 みずからの宗教的信念と矛盾する行為であることは明白である (169頁)

 サイクロイドの問題を解いたパスカルは、回答を得て、友人の勧めでヨーロッパじゅうに、この問題を解いたら賞金を与えると告知した。
 このコンクールの主催は、決定的回心(1654年)を経たはずのパスカルにとって、矛盾する行為だったのである。
 彼はその際に偽名(「アモス・デトンヴィル」)を用いたのだが、ここで偽名を使用したのは罪悪感の軽減等が理由ではないか、と著者は述べている。*6

ユダヤ教パスカル

 彼において、隣人愛を説く宗教への誘いが、こんな不寛容な思想とどのように両立していたのだろうか。 (180頁)

 パスカルユダヤ教ユダヤ人)論についての話である。

 ユダヤ人は、イエスを殺害したのはユダヤ人だという理由で、キリスト教にとっての最大の「敵」である。
 だが、彼らの存在こそが、キリスト教の真実を証明したことになるという(「ユダヤ民族証人説」)。

 旧約聖書におけるイザヤの預言、救い主が退けられてつまずきとなる、という預言を、ユダヤ民族はイエス殺害によって実現した、というのだ。

 こうした話を、パスカルは聖書の象徴的読解を以て、行っている。

 しかしながら、16世紀後半以後、活版印刷の発明や人文主義の発展とともに、聖書の字義的解釈が一般化しており、パスカルの導入したような象徴的読解は、不信仰者からは不興を買っていた。
 はたして、パスカルはこんな時代錯誤の謬説を本当に信じ込んでいたのだろうか、と著者は問うている。

 そして、隣人愛を説く宗教への誘いが、こんな不寛容な思想とどのように両立していたのだろうか、とも。*7

 

(未完)

 

*1:原文は、


La constance en amour est une inconstance perpetuelle, qui fait que notre cœur s’attache successivement a toutes les qualites de la personne que nous aimons, donnant tantot la preference a l’une, tantot a l’autre ; de sorte que cette constance n’est qu’une inconstance arretee et renfermee dans un meme sujet.

である。なお、ラ・ロシュフコーは、

L’amour aussi bien que le feu ne peut subsister sans un mouvement continuel ; et il cesse de vivre des qu’il cesse d’esperer ou de craindre. 

とも述べており、愛は、希望や怖れによって動かされないと消えてしまうのだという。難儀なこった。
 以上の引用は、Wikidource(https://fr.wikisource.org/wiki/Maximes )からのものである。 

*2:なお、先に生まれたのは、ラ・ロシュフコーであるが、先に亡くなったのはパスカルの方である。

*3:永瀬春男も、次のように述べている(「パスカルと時間」https://ci.nii.ac.jp/naid/120004840280 )。

情欲を減らし、あたかも「信じているかのように万事を行ない」、「聖水を受け、ミサを唱えてもらう」ことから始めるのがよいだろう。そのように身体という機械を習慣づけることで、人は信仰の入り口にまで導かれるであろう。賭の断章は、数学的議論(損得をめぐる確率計算)を除けば、およそ以上のように要約できる。

*4:著者自身は、

身体による認識という発想は、メルロ=ポンティ(「身体性の哲学」)やブルデュー(「ハビトゥス」)ら、現代の哲学者によっても受けつがれている

と述べている(「習慣と直感」https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/162 )。

*5:金子昭は、次のように述べている(「今日の時代における宗教批判の克服学(14) 宗教者と信仰者についての一考察(続き)」 https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000gd6t0.html )。

法然もまた「疑いながらも念仏すれば往生す」と語ったと伝えられるが、吉田兼好は「これもまた尊し」と述べている(『徒然草』第39 段)。阿満利麿は『人はなぜ宗教を必要とするか』(ちくま新書)の中でこのことに言及し、「一人の人間が否定すれば、たちまち動揺するような救済原理では、すべての人を救うなど、思いも及ばない」(185 頁)と説明している。

そして、

私の言い方に直せば、信仰者が疑いを持ちながらも信じるということによって、はじめて宗教が宗教として現出するのである。

と述べている。金子の意見に対しては、教派的な点はともかくも、その意図について、パスカルも賛同できるかもしれない。

*6:サイクロイドの懸賞コンクールには「アモス・デットンヴィル」という名前を使用した。石川知広は、

パスカルアモスの名において懸賞コンクールと自らのサイクロイド研究を総括した。つまり、アモスは、数学という世俗の学闘活動と、懸賞コンクールの主催というふたつの営為の主体として提示されている。ところで、ポール・ロワイヤルの宗教観から見て、両者がけっして無条件に褒められた行為ではないことは想像に難くない。もちろんパスカルもジルベルト以下の親族もそれを承知していた。したがって、パスカルの匿名や偽名、そして例のロアネーズ公の助言の逸話は、予想される批判に対する事前の備えと考えることも不可能ではない

と述べている(石川「狂愚の国のソロモン--パスカルの偽名について」https://ci.nii.ac.jp/naid/40016894115 なお、本書でも、この石川論文が参照されている。)。ただし、

しかし、少なくともアモスの名の選択には、単なる自己防御の意図を超えた何かより積極的な動機がこめられていたのではなかろうか 

として石川は論を進めているが、その詳細については、石川論文を実際にお読みいただきたい。

*7:塩川徹也は、対談で次のように述べている(塩川徹也、野崎歓「《パスカル「パンセ」を読む》」https://dokushojin.com/article.html?i=830 )。

パスカルキリスト教の正しさを証明するために、ユダヤ教キリスト教を鋭く対立させ、キリスト教を証明する手段としてユダヤ教を使います。一番決定的なのは何か。ユダヤ人は、救世主として現われたキリストを、十字架に磔にしてしまった神殺しなんだから、神の怒りにあって全滅してもよかった。それでもユダヤ人が世界に散らばって生き残ったのはなぜか。正典である旧約聖書が正しく伝えられたことを証言する証人としてユダヤ人がいる。そういう理論を展開するわけですね。パスカル以前に、アウグスティヌスの中にもそれに似た論法がありますけれど、とんでもない反ユダヤ主義ですよね。そういう意味で言えば、パスカルが「護教論」で作り上げようとしていた合理的な説得というのは、とても独善的で恐ろしいものです。

ただし、塩川は、「弁明しておくと、同時にパスカルは、その論理を食い破るような文章も書いている」と、さらに述べている。

「かわいい」を日本の専売特許とばかりみなすのは生産的ではない。その通りだ。 -阿部公彦『幼さという戦略』を読む-

 阿部公彦『幼さという戦略』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

老人も子どもも持っている「幼さ」の底力!権力の語りに抗う「弱さの声」の可能性。太宰治村上春樹から江藤淳古井由吉まで、新しい視座と繊細な手触りのある文芸評論エッセイ。

という内容。*1
 特に、個人的には武田百合子富士日記』論と「かわいい」論がたいへん興味深く読めた。*2

 以下、特に面白かったところだけ。*3

近代以前の「うさぎ」イメージ

 「日本独自に歴史的に継承されてきた兎のかたち」は、これらの「キャラクター化された兎によって浸食されてしまった」 (92頁)

 現在の日本のうさぎブームは、明治期に西洋のうさぎのイメージが輸入されてからのものだという。 日本にも伝統的なうさぎ文化はあった。
 しかし、そうした伝統的イメージは、消えてしまった。
 例えば、波のイメージと結びついて防火や豊穣のイメージなどが、うさぎにはあったという。
 うさぎは、今のように「かわいい」一辺倒のイメージではなかった。
 ここでは、今橋理子の著作に依拠して説明がされている。*4

「かわいい」と英語圏の「キュートさ」

 英語圏でも近年「キュートさ」(cuteness)という感覚に対する関心は高まっており (99頁)

 「かわいい」という概念自体は、必ずしも英語圏などに近似する概念がないわけではない。
 実際研究は進んでいる。
 「キュート」という形容詞が、近代から現代までの推移を読み解くキーワードとして西洋で認知されている以上、「かわいい」を日本の専売特許とばかりみなすのは生産的ではない、と著者はいう。

 その本格的な研究書として、サイアン・ナイの Our Aesthetic Categories が挙げられる。
 ナイは、「キュートさ」の特質に、些末でどうでもいいこと、親しみがわくこと、哀願できること、こちらにとって脅威にならないこと、弱いこと、など「かわいい」の感覚にほぼ重なる項目を挙げているのである。*5

「かわいい」と言ってしまうことの慣習性

 ここにあるのは、昔ながらの花鳥風月への反応とも似通った振る舞いではないか (105頁)

 赤ん坊などを「まあ、かわいいわねえ」と人が言う時、そこには、発言者がどのような人間であるかも表現される。
 つまり、「私は幼いものに極めて好意的に反応する人間なのです」というようなメッセージである。*6
 そうした反応は、慣習的、様式的なものである。*7

幼さという喜劇性

 幼さの特徴として、本来まじめでいるべきときに喜んだり騒いだりするということがある一方で、逆に、本来本気になるべきでない些細なことを大まじめで受け止めてしまう (132頁)

 子供は、大人がまじめであるべき時に、喜んだりする。
 逆に、子供は、時に大人が一笑に付すようなことに至極まじめに対応する。
 子供はお菓子の分け前がやや少ないだけでこの世の終わりのように泣き出す。
 幼さにおける、大人に対するこの感覚のズレは、「喜劇」的であるように思われる。*8

江藤淳夫妻における、「母」と「子」の関係

 むしろ妻を「母」の位置に押しこめ、母との一体感を全能感とともに享受しようとする未成熟な息子の姿をそこから読み取りたくなるのではないか。 (180頁)

 江藤淳夫妻についての話である。

 江藤淳の妻は、彼の原稿の最初の読者であり、まるで秘書のように便利に、そして母のような慈愛とともに、わきに控えていた。
 その姿は、まるで妻を「母」のようにして、その愛を享受しようとする未成熟な息子のようだ、と著者はいう。
 この点、実際その通りだと思われる。
 江藤は、『成熟と喪失』の「母」と「子」の関係を、およそなぞっているのである。*9

 

(未完)

 

*1:本書については、すでに仁平政人による書評https://ci.nii.ac.jp/naid/120005745467 が存在するので、本書についての概要を知りたい人は、そちらを読まれたい。

*2:以下、武田百合子論については言及していないが、まあ、それは実際に読んで楽しんでください。

*3:著者の文体はいつ頃現在のような独特の柔らかいものになったのか。調べてみた限り、論文だと、「振り子の不安 : The Golden Bowlにおける気まずさの正体」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120003752169 )と「ジェーン・オースティンの小説は本当におもしろいのか、という微妙な問題について」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120003726305 )の間に、その断絶があるように思われる。

*4:黄韻如は、「丹沢巧氏は波兎文様が日本の文芸から生まれたと解釈され、美術史の視座から今橋理子氏は波兎文様が日本独自の月兎文様の一つと定義する」とし、最終的に、

中国の神仙思想に適う不老不死の吉祥性を帯びる搗薬兎や霊芝兎の文様と、日本の美感に相応しい文学的叙情から生まれる波兎の文様は、まさに対照的といえるのではないだろうか

と、日本の(伝統的な)兎に対するイメージが、中国に対して独自性があるとしている(「日本の染織意匠と中国 : 波兎文様を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001628222)。

*5:Pansy Duncan によるナギ著に対するレビュー(https://epress.lib.uts.edu.au/journals/index.php/csrj/issue/view/258 )には、

Pointing, however, to Gertrude Stein’s Tender Buttons, to William Carlos Williams’ ‘plums’ famously left ‘in the icebox’ and to Bernadette Mayer’s ‘puffed wheat cereal’, Ngai shows that avant-garde poetry has drawn on the form and language of cuteness as a means of negotiating both poetry’s increasing cultural marginalisation and its inevitable relation to the commodity.

とある。前衛的な詩もまた「かわいらしさ」を活用するのだというこの指摘は、まさに本書(『幼さという戦略』)の意に沿うものであるようにも思う。

*6:「かわいい」という語のこうした使用のされ方については、以前、杉本章吾『岡崎京子論』について書いた際に、言及している。気になった方はご一読を。

*7:もちろん、「花鳥風月」の類の様式性そのものが悪いというのではない。たとえば、松田修もいうように、「もっとも異端的な刺青のデザインが最も伝統的―――月並みであることの意味は、なおざりにしがたい」のである(『日本刺青論』青弓社、2015年)54頁。
 松田の議論はやや込み入っているが、通常保守的な大衆芸術が帯びる両義的な性格、つまり、時に反逆的・反時代的であり、しかし時に反逆性を喪失し凡庸に堕する、という「月並み」であることの魅力的な危うさが、論じられているように思う。たぶん。

*8:塩田明彦は、『映画術』(イースト・プレス、2014年)において、

みんなが怒っているシーンで平然としてる。それをいかに通すか (引用者雄略) 喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションでい続けるか、ってことに尽きるんです。

と述べ(当該書196頁)、異化するのが喜劇役者であるという。悲しい場面でも泣くことはなく、他人事のような態度を貫くためには、彼は歌うように、口上のように、セリフを言うことがあるのだ、と。なお、塩田が念頭に置いているのは、『男はつらいよ』の渥美清である。

 また、こういった資質は、芸術家の特質にも通じるものかもしれない。森村泰昌は、次のように述べている(『美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集』(筑摩書房、2014年)、29頁。)

誰もがアッチを向いているとき、芸術家はまったく別の方向に目を向けている。それがいいのか悪いのかはわかりません。良し悪しの問題ではなく、はからずも世間様とは違った立ち位置をとってしまう。このヘンテコリンな感受性のあり方こそが、芸術という領域の特質である。

*9:大塚英志江藤淳と少女フェミニズム的戦後』が、江藤に、「少女フェミニズム」的な感覚を見るのに対して、著者はその見方に必ずしも賛同していない。むしろ、江藤の中に、まさに『成熟と喪失』で指摘した「母」と「子」の関係を、見ているのである。
 『成熟と喪失』でいうなら、

一般に日本の男のなかで、「母」がいつまでも生きつづける根強さは驚嘆にあたいする。

「子」である夫が安息の象徴である幼児期を回復しようとすることは、時子に「母」の役割をあたえることを――つまり彼女の青春を奪って、あるいは老年に近づけることを意味する。それは決して彼女に「楽園」をもたらしはしないのである。

といった言葉は、そのまま江藤と妻との関係に跳ね返ってくることにだろう(以上の引用は、橋本倫史「読書メモ 江藤淳『成熟と喪失 “母”の崩壊』」https://note.com/hstm1982/n/ne006f8dec441 からの孫引きに頼っていることを念のため書いておく。)。

 また、大塚英志は、

若い批評家の言葉の中ではそのふるまいに対してさえ、どこかでそれは「子」である自分を裏切った「母」、つまり「妻」の責なのだという論理があらかじめ成立している。免罪の論理がその批評の中に滑り込ませてある。

と、江藤が妻に振るった暴力について説明している(以上、高橋幸「大塚英志の『少女フェミニズム』」https://ytakahashi0505.hatenablog.com/entry/2019/01/19/184125 からの孫引きである。)。

 これはまさしく、「未成熟な息子」が「妻を『母』の位置に押しこめ」たのではないか、という著者・阿部の指摘に沿うものであろう。

オペラの歴史を知りたければ、まずはこの本から始めてみてはどうだろうか。そんなオペラ史入門書。 -岡田暁生『オペラの運命』を読む-

 岡田暁生『オペラの運命』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

オペラはどのように勃興し、隆盛をきわめ、そして衰退したのか。それを解く鍵は、貴族社会の残照と市民社会の熱気とが奇跡的に融合していた十九世紀の劇場という「場」にある。本書は、あまたの作品と、その上演・受容形態をとりあげながら「オペラ的な場」の興亡をたどる野心的な試みである。

という内容。
 オペラ史入門として、お勧めできる。

 以下、特に面白かったところだけ。

オペラ・セリアとオペラ・ブッファ

 ブッファでは当然、人間技とは思えない高音を操るカストラートは使われない (50頁)

 オペラの歴史をたどると必ず出てくる、「オペラ・セリア」と「オペラ・ブッファ」の話である。
 二つは、どのように違うか。
 オペラ・セリアでは国王のような隔絶した存在を描くが、オペラ・ブッファは、身近な存在を描く。
 また、後者では、カストラートを使わない。*1 *2
 オペラ・セリアはカストラートテノールなど高音域のみだが、オペラ・ブッファではバリトンやバスやメゾソプラノなど人の声に近い声域を用いる。
 オペラ・セリアは装飾過多のコロラトゥーラ技法を使うが、オペラ・ブッファは素朴な戦慄の美しさを求められる。
 カストラートが経費が掛かる(高音域を出せる優秀な歌手を見つけるのは難易度が高い)、という経済的な事情もあった。
 また、喜劇は悲劇より演技力が求められる、という事実もある(役者に歌わせた方が都合がよかった)。

 そして何より、オペラ・ブッファは、アンサンブルによる掛け合い表現(人と人との関係性を描く劇)をこそ、重視している。

救出オペラが与えた影響

 救出オペラはベートーヴェンに与えた影響の大きさの点でも注目される。 (77頁)

 ベートーヴェン自身も救出オペラ(「フィデリオ」)を作っているが、このジャンルから受けた影響は、それだけではない。
 苦悩を通して歓喜へ、というシナリオもまた救出オペラがモデルとなる。
 太鼓の連打、軍楽隊を思わせる金管の多用、ラ・マルセイエーズ風の付点リズムの行進曲等の特徴も、まさにそうである。*3

オペラ座と売買春

 バレエの踊り子と売春交渉することを黙認したのである。 (107頁) 

 パリ・オペラ座の支配人だったルイ・ヴェロンの話である。
 まずカジノを併設した。
 そして、広くオペラ座ブルジョアに開放した。
 また、売春の場としても使った。*4
 予約客に楽屋に自由に出入りする権利を与えた。
 ルイ・ヴェロンは、自身の主催する晩餐会で、あらゆる種類の果物を飾り付けた裸の踊り子を乗せた、巨大な盆を提供したこともあるという。*5

スメタナと言語

 上流階級に生まれた彼はドイツ語しかできず (134頁)

 スメタナチェコの国民オペラの創作に力を尽くしたが、じつはチェコ語は不得手だった。
 彼はドイツ語の教育を受けて育ったためである。
 オペラを書く時になって、本格的にチェコ語の勉強をはじめた。*6
 彼の国民オペラ『ダリボール』と『リブシェ』の台本は、ドイツ語で書かれ(書いたのは台本作者)、そのチェコ語訳に、スメタナは苦労して音楽をつけた。
 国民オペラは庶民の中から自然発生したのではなかったのである。
 国民国家自体が、知識人たちの主導であったことを思えばさもありなん。
 (そもそも、オペラの作者および顧客自体が知識人階級中心である。)

ヴェルディの評価とファシズムとの関係

 イタリア語によるヴェルディ文献が爆発的に増えるのは、一九二〇年代のこと (137頁)

 ヴェルディ神話についての話である。*7
 19世紀後半の新興イタリアの学校教科書には、ヴェルディの名前は見当たらないようだ。
 ヴェルディがイタリア統一の英雄に奉られるのはムッソリーニの時代からであるようだ。*8

「国家御用達の音楽屋」・ワーグナー

 マルクスは、こんなバイロイト音楽祭を「国家御用達の音楽屋ワーグナーによるバイロイトのばか騒ぎ」と呼んでいる。 (168頁)

 芸術の理想を叶える、そのために、ブルジョアに妥協せずに横行に取り入って金を巻き上げる。
 それによって、金を調達する必要がワーグナーにはあった。
 だが、真に芸術を理解する民衆のための劇になるはずだったバイロイトは、結局、上流階級のスノッブたちのサロンになった。*9
 じっさい、ニーチェは嫌気がさしてしまい、ワーグナーと距離を置いたのである。

ワーグナーの劇場改革

 ワーグナーはボックスを空にすることで、劇場を純然たる作品鑑賞の場にしようとした (188頁)

 ミュンヘンで『ラインの黄金』を試演した際、ボックスを空にして客を平土間に座らせ、社交の場を制限した。
 さらに、バイロイトでオペラを上演した際は、客席を暗くするようにした。
 観客を作品鑑賞に集中させるためである。*10
 ワーグナーの改革以前は、オペラ上演中でも、劇場にシャンデリアが灯っていたのである。

「演出」の時代

 オペラ演出に重要な役割が与えられるようになり始めるのも世紀末転換期のことである (189頁)

 19世紀までは、歌手の勝手に任されており、「衣装付きのど自慢大会」のようなものだった。
 だが、ワーグナーの「総合芸術としてのオペラ」という理念が浸透するにつれて、徐々に演出家はオペラ上演に不可欠な存在になる。
 草分けの一人が、マックス・ラインハルトである。

 ラインハルトは、そのスペクタクル的演出で知られている。*11

 

(未完)

*1:金谷めぐみと植田浩司は、次のように述べている(「カストラートの光と陰」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009804857)。

カストラートの養成は簡単に止めることはできず、やむなくクレメンス14世は、女性が教会で歌うことを認め、追って教皇領の劇場舞台に女性が出演することを許可した。時を同じくして、18 世紀後半、ナポリを中心に流行ったオペラ・ブッファ (引用者中略) の主役を、女性歌手が演じるようになった。さらに、これまで脇役しか与えられなかった男性テノール歌手が主役で登場するようになり、カストラートは、オペラでももはや必要とされなくなって行った

*2:女性がカストラートを名乗って教皇領の劇場に出演したこともあったという。「ときには劇場が出演料節約のため、女性歌手をカストラートの『代用品』として男装させ、英雄役を歌わせることもあったという」。

 女性歌手が男装するようになるのは、17世紀後半のことである。女性がカストラートと偽って男女双方の役を演じるという幾重にも錯綜した性のねじれは、18世紀中頃までのオペラでは頻繁に見られたという。以上、梅野りんこ「ジェンダーの越境者カストラート」(玉川裕子『クラシック音楽と女性たち』、青弓社、2015年。42頁)より、参照・引用を行った。

*3:ウェブサイト・「久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋」は、ベートーヴェン交響曲第5番第四楽章について、

勝利を示すかのような力強く明るい行進曲調の主題呈示に始まる。ピッコロ、コントラファゴットトロンボーンがこの楽章の中で初めて登場してくる。伝統的な交響曲において珍しい楽器の参入は、フランス革命音楽(軍楽、救出オペラ)からの影響も考えられる。

この内容は、久石譲『JOE HISAISHI CLASSICS 4 』のライナーノーツからの引用であるようだ。

*4:安田靜は次のように述べている(「近年のパリ・オペラ座財務状況と切符価格の推移について」https://www.eco.nihon-u.ac.jp/research/business/publication/report39-2/ )。

20 世紀の初頭まで戻ると,パリ・オペラ座の foyer de la danse,すなわち舞台裏でダンサーが控える広間が「西欧随一のハーレム」であるとして,ニューヨークで出版された本にまでその「名声」を留めていることがわかる. (引用者中略) フランスや英米の研究者の著作を読めば読むほど,オペラ座はもっと直裁に,異性愛の男性が女性に対して抱く欲望を金で購う場所であったことが明らかになってくる.

*5:たとえば、ジョセフィン・ベイカーのバナナの衣装みたいなのを、想像すればいいのだろうか。

*6:スメタナがドイツ語で教育を受けたため、チェコ語は後から学ぶことになった事実は、日本でも知られている。例えば、ひのまどか『スメタナ―音楽はチェコ人の命!』(リブリオ出版、2004年)の216頁参照(浜田市立弥栄中学校・学校司書の手になる資料(PDF)を参照:http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1449650246804/ )

*7:以下、参照されているのは、Birgit Pauls の Giuseppe Verdi und das Risorgimento である。

*8:小原伸一は、本書の、「全国民的なヴェルディへの熱狂は、調べれば調べるほど後世の作ったフィクションに思えてくる」という主張について、次のように評している(「 劇音楽の教材研究について ―作品の背景に着目して(2)―」https://uuair.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4560&item_no=1&page_id=13&block_id=58 )。

岡田の記述には、初演当時の聴衆の思想的な状況とオペラへの反応がどうであったのかということについて、リソルジメントとの関連を否定する決定的な記録や資料が存在していたとは書かれていない。しかし、ここには作品に対する作曲家の思いを検証する重要な指摘がある。

留保しつつも、基本的に肯定的に評価している。

 じっさい、のちに出版された書籍でも、ヴェルディが意図的にリソルジメントを鼓舞したという事実は否定されている(根井雅弘「 『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子(平凡社) 」https://booklog.kinokuniya.co.jp/nei/archives/2013/06/post_10.html を参照)。なお、加藤も、先述のBirgit Pauls の論を参照している。

*9:マルクスワーグナー評について、伊藤嘉啓は次のように書いている(「ワーグナー・多面のバリケード男」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000990676 )。

1876年の夏、マルクスバイロイト音楽祭について、「国家音楽士ワーグナーバイロイト馬鹿祭り」と云つてをり、どうもワーグナーマルクス主義とは、はじめから相性がよくなかつたやうだ。

伊藤は、ワーグナー反共主義的思想を持っていたことも記している。

*10:小宮正安は、「ゴージャスになったオペラハウスに対し、ワーグナーは自分の作品を上演するためにバイロイト祝祭劇場を建てました。装飾を排し、観客を眠らずに舞台に集中させるために椅子は堅い木製のものになっています」と述べている(講演「ヨーロッパ歴史芸術散歩~第2弾『オペラハウスの謎』」http://nakano-saginomiya.gr.jp/operamatome.pdf )。

*11:杉浦康則は、ラインハルトの群衆演出とブレヒトの『教育劇』の上演が、「本質的に異なる理念の下において行われた」とする(「群衆演出の観点から見たベルトルト・ブレヒトの理論とその実践」 https://ci.nii.ac.jp/naid/120005441766)。

ブレヒトの演出においては、観客が役者の群衆として作品に参加すること、作品の展開の一部となることが最初から決定されていたのである。劇に登場するエキストラの群衆を観た観客が上演に巻き込まれるという、ラインハルトの群衆演出とは異なり、ブレヒトの観客は最初から作品の展開の一部に組み込まれた、演じる側の群衆なのである。

 ブレヒト演劇との違いがどのようなものか、よくわかる指摘である。ラインハルトの演出は、「司教座教会の中に、その巨大なドアから群衆を放り込」み、「2,000 人が中世の衣装を身に着けて、崇高な教会の中にいる。祈り、歌いながらこれらの人々はあちこち揺れ動く」など、とにかくショック効果で観客を「没頭」させることに眼目が置かれるのに対して、ブレヒトはむしろ「没頭」から距離を置かせようとする。
 ラインハルトの演出の肝がわかる研究と思ったので、紹介する次第である。

「結婚と家族のこれから」を考えるための良書。あるいは「やっぱり夫が家事をしていない日本」 -筒井淳也『結婚と家族のこれから』を読む-

 筒井淳也『結婚と家族のこれから』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

共働き社会では、結婚しない(できない)人の増加、子どもを作る人の減少といった、「家族からの撤退」をも生じさせた。結婚と家族はこれからどうなっていくのか―。本書では、男性中心の家制度、近代化と家の衰退、ジェンダー家族―男女ペアの家族―の誕生など、「家」の成立過程と歩みを振り返りながら、経済、雇用、家事・育児、人口の高齢化、世帯所得格差といった現代の諸問題を社会学の視点で分析し、“結婚と家族のみらいのかたち”について考察する。

というもの。
 結婚と家族、そして「共働き社会」といった問題を考えるうえで、良い頭の整理ができる良書である。
 
 以下、特に面白かったところだけ。
 

父系の直系家族の歴史的位置

 家父長制的な家族、父系の直系家族は、日本では10世紀くらいから徐々に浸透していった制度 (17頁)

 それ以前は、共同体や家族(母系)との結びつきの方が強固だった。
 だが、そうした制度も徐々に変わっていった。*1 *2 

 生産力の論理を離れ、政治原理が幅を利かす階層ほど、女性が抑圧されている (39頁)

 前近代においては、社会階層が上になるほど、家父長制が厳しかった。*3 
 また、日本の古代社会でも、中央政界や大領地経営で生計を立てる一族は男性優位の結婚(夫型居住など)が行われていた。*4

みんな結婚する社会の方こそ特殊。

「皆婚社会」 (引用者中略) こそが特殊なのです。 (87頁) 

 歴史人口学的に見れば1960~70年代のほとんどの人が結婚していた社会の方が特殊である。
 家制度が経済基盤を失い、雇用された男性と家事をする女性が結婚するようになって初めて実現したもの、それが「皆婚社会」である。*5

やっぱり夫が家事をしていない日本

 日本の夫婦は、夫婦がほぼ同じ条件で働いて、同じくらい稼いでも、妻のほうが週あたり10時間も多く家事をしている (104頁)

 先進国の多くの国でも同じことが言えるが日本はかなり高い。*6

中流階級でも裁縫にかなり時間をかけていた戦前

 女性が家庭での裁縫から解放されたのはそれほど古い時代ではありません。 (120頁)

 都市化が進んだ後でも女性たちは、裁縫にかなりの時間をかけた。
 調査によると、1930年代、東京の中流家庭でも妻は家事の時間の4割以上をお裁縫に費やした。*7

 もちろん、今現在はグローバル化などの影響で服は安くなっている。

北欧の社会の課題

 北欧の民間企業の世界はアメリカに比べればまだ男性的な世界 (135頁)

 じっさい、管理職において女性が占める割合ではアメリカに比べると、スウェーデンはかなり低い。
 また、共働きとはいえ、北欧における女性はケア労働を中心としている。*8
 相手は、他の家の子どもや高齢者である(保育・介護等)。
 こうした、性別によって職の分離が見られる事態を、「性別職域分離」という。*9

 

(未完)

*1:著者は、男性官職の世襲と家父長制との結託が、平安期の貴族層に見られ始めたのだと、久留島典子らの研究を参照して述べている。

*2:義江明子は次のように述べている(「「刀自」からみた日本古代社会のジェンダー--村と宮廷における婚姻・経営・政治的地位」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005945781 )。

一九九〇年代以降、「家」成立の過程はさらに精密に探求された。高橋秀樹氏は、政治的地位の継承が「家」形成の基盤であること、家業(公的職務)・政治的地位・家産を父子継承する「家」は、一一世紀から一四世紀にかけて、貴族社会に次第に広まっていくことを、詳細に論証した

ここでは高橋『日本中世の家と家族』が参照されている。

*3:ウェブサイト「nippon.com」の記事「シリーズ・現代ニッポンの結婚事情:(4)性差を超えてゆけ ポスト平成の日本の結婚」(https://www.nippon.com/ja/features/c05604/ )でも取り上げられている本書のフレーズであるが、

家父長制はその意味では、社会全体の支配階層の男性、あるいは家族のなかでの男性が、生産力の伸びを抑えこんででも、自らの既得権を維持するためにねじ込んだ不自然な仕組みだと私は考えています

なかなかパンチが効いている。

*4:著者は、関口裕子の説を参照して、そのように述べている。経済的原理を、政治的・軍事的権力がねじ伏せた格好、といえようか。

*5:縄田康光が述べているように、

戦後日本の空前の経済成長と第一次人口転換が、「夫婦と子ども2人」という戦後における標準的な家族を生んだのであった。現在我々はこれを当然視しがちであるが、歴史的にみれば「皆婚、生涯生む子どもは2人」というのはむしろ特殊な時代

である(「歴史的に見た日本の人口と家族」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1003948 )。
 ただし、鬼頭宏は次のようにも述べている(「人生40年の世界:江戸時代の出生と死亡」http://minato.sip21c.org/humeco/anthro2000/kito.pdf )。

江戸時代には前半には多くの男女が結婚するのは当たり前という「皆婚化」が進み,江戸時代中期には皆婚傾向の高い社会が成立したと見られる.それを前提にして晩婚化が進んだ.

「皆婚化」というフレーズではあるが、いちおうその傾向自体は江戸時代に見られている。もちろんこれは、先程の縄田も是認するところはあるのだが。

*6:著者は2014年の論文で、

共働き夫婦において最も夫婦の家事時間の差が小さいのがデンマークフィンランドで,2 時間強となっている。これに対して日本では週あたり 10 時間以上も妻の方が多く家事に時間を費やしている。日本では,労働時間や収入等の各種条件をかなり均等な条件にそろえてみても男性と女性のあいだに大きな家事負担の格差があることが分かる。この意味では「日本の夫は長時間労働に従事しているし,また妻よりも多く稼いでいる夫婦が多いから,家事をあまりしないのだ」という見解は成立しないことがわかる。

と述べている(「女性の労働参加と性別分業 : 持続する『稼ぎ手』モデル」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10180375 )。使用したデータは、

International Social SurveyProgramme の 2012 年 の デ ー タ(Family andGender Roles)である。対象国は OECD 加盟国に台湾を加えたもの

とのこと。

 なお、著者自身が本書で参照した自身の論文は、2016年のhttps://ci.nii.ac.jp/naid/40020715098 のほうである。念のため

*7:永藤清子によると、

女中を置かず、子どもが在り、貯金を持たない「下流」家庭の内職従業者の多くでは、生計費補助を目的として内職をしている姿が浮かび上がるが、一方で、女中を置いている「中流の下」家庭で、子女の教育費のために内職をしている家庭も存在することが推測できる。

とのことである(「明治大正期の副業と上流・中流家庭の家庭内職の検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009752628 )。
 参照されているのは、1920年の東京市社会局の発行する『内職に関する調査』である。

 1920年代でも、おおよそこんな感じである。

 なお本書では、家政学者の大森和子の論文を参照して、引用部の通り述べられている。

*8:たとえば、中澤智惠は次のように述べている(「スウェーデンの生涯教育システムとジェンダー事情」
https://www.js-cs.jp/wp-content/uploads/pdf/journal/14/cs2008_13.pdf )。

同一労働同一賃金の原則を徹底することは重視されるが、性別職域分離は水平的・垂直的両面であまり解消されてこなかった。例として教員の性別比をみると、Forskola のスタッフは女性が 97%、学童保育指導員は 83%、基礎学校では 74%を占めている。

文中にある Forskola とは、「1歳から5歳までを対象とした就学前教育プリスクール」を指す。

*9:熊倉瑞恵は、デンマークにおける性別職域分立について、次のように述べている(「デンマークにおける女性の就業と家族生活に関する現状と課題」https://ci.nii.ac.jp/naid/110008916029 )。

デンマークでは男性よりも女性がより多く公共部門で働いており,男性は民間部門で働いている割合が高い.こうした傾向は北欧諸国全体にみられ,女性の就業率が高いとされる国に共通している. (引用者中略) 移行された労働市場では性別役割分業の関係が依然として残されており,男女間賃金格差へとつながっている.こうしたことは,上述したような最大限の労働力の確保を目的とする政策の有効性にも影響を与えるとともに高福祉国家を維持するための基盤にかかわる重要な問題となる