「捨て牛馬」や「捨て子」に加え、「捨て病人」が禁止されていた時代(元禄期の話) -大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』を読む-

 大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』(のオリジナル版のほう)を読んだ。*1

  内容は紹介文の通り、 

古典ってワイドショーだったんですね! 捨てられる病人、喰われる捨て子、蔓延する心の病―― 「昔はよかった」って大嘘です! 古典にみる残酷だけど逞しい本当の日本人の姿。

というもの。
 著者は、身分社会より、西鶴の文学にみられるような金を貴ぶ社会の方を支持しているが、本書における厳然たる身分社会の「悲哀」を見ていけば、そういいたくなるのもまた道理だと思わせられる。*2

 以下、特に面白かったところだけ。

江戸期の捨て子と子殺し

 江戸時代は捨て子が禁止されたとはいえ、まだまだ盛んで、嬰児殺しは日常茶飯事でした。 (引用者中略) 氏家幹人は、「子供たちにとって、ただ惜しみなく愛を注いでくれるだけの楽園のような社会など、ありはしないのだ」 (48頁)

 捨て子*3だけでなく、子殺しは昔からあったと著者は述べている。*4

「捨て牛馬」・「捨て子」・「捨て病人」

 重病人を棄て去るという習慣が相当長く続いたと思われるのは、元禄時代の「生類憐みの令」では、「捨て牛馬」や「捨て子」に加え、「捨て病人」が禁止されていたことからも分かります。 (100頁)

 「生類憐みの令」というのは、そういう面ではまともなところもあったのである。*5

秀吉と人身売買の禁止

 秀吉の要請を受け、日本人の奴隷売買が布教の妨げになると考えた教会関係者が国王に請願した結果、一五七〇年、日本人奴隷取引禁止令が出される (109頁)

 一五八七年には日本国内の人売買も禁じられた。*6 *7
 よく知られるとおりである。

家族同士で殺し合い

 究極の残酷は家族同士で殺し合いをさせること。安土桃山時代の為政者は、それが分かっていたからキリシタンを拷問する際、そうした(以下、引用者略) (114頁)

 子供に親を殺させる方法などが、キリシタンへの拷問で行われた。*8

いばらきの由来

 茨城県、なんだか悲しい語源です (138頁)

 『常陸国風土記』の「茨城郡」の記述によると、天皇軍と先住民との戦いで、天皇軍の大臣の一族であるクロサカノ命は、穴に住む国巣(「くず」と読む)が穴から出てきて遊ぶ際に、茨を穴に敷いておき、国巣たちを騎馬兵に追いかけさせた。
 すると、いつものように穴に逃げ帰ってきた国巣たちは、茨にかかって突き刺さって、けがをしたり死んだりした。
 そこで、この地に名前を付けたという。*9

日本古代の「卑怯」な手口

 現代人には卑怯にも見えますが、戦争とはどだい人殺しであることを思えば、少ない労力で確実に相手を倒せるのですから、味方の犠牲が少なくて済む優れた戦術と言える (140頁)

 ヤマトタケルの、敵を倒す卑怯なやり方に対して、著者はそのように弁護している。*10

 

(未完)

*1:よって頁数はそちらの方に準拠している。

*2:もちろん、資本主義社会の礼賛をする必要もないわけだが。

*3:沢山美果子は次のように述べている(「『乳』からみた近世大坂の捨て子の養育」https://ci.nii.ac.jp/naid/20001463026 )。

捨てる側、貰う側ともに、その理由として「家」の維持・存続をあげており、少なくとも「家」の維持・存続のために捨てる、貰うことは近世大坂にあっては正当な理由として認められていたらしい

捨てることと貰うことは、常に「家」の存続がかかっていたのである。

*4:林玲子は次のように述べている(「中絶と人口政策の古今東西http://www.paoj.org/taikai/taikai2018/abstract/index.html )。

日本における歴史的推移をみれば、堕胎と嬰児殺しに関しては、古来から江戸時代に至るまで「法律もなく道徳的にもさして非難せられなかった」(小泉1934)。江戸時代には、例えば 1680 年には堕胎罪を独立罪として取り扱い処罰する「女医の堕胎及び妊婦を罰するの町触」が出され、また各藩の取り締まりがあったにせよ、それは逆に堕胎と嬰児殺しが広く行われていたことを示すものであったともいえよう。

上記の「小泉」とは小泉英一『堕胎罪研究』を指す。

*5:捨て子に関連して戸石七生は次のように述べている(「日本の伝統農村における社会福祉制度 : 江戸時代を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/40021177979(PDFあり。) )。

近世になると家族経営による農業がほとんどになり、大多数の農家では年季契約の奉公人を雇っても、長期にわたって身寄りのない下人を抱えておく余裕はなくなり、その結果、幼児の需要は劇的に低下し、乳幼児は売れなくなった。塚本によると、売れなくなったため、子の養育コストが負担できない親による捨子が増えたというのである。また、捨子自体も恥だと思われていなかったようである。塚本は井原西鶴の『好色一代男』(1682出版)で主人公・世之介がある女性に産ませた赤子を「さり気なく」捨てたことを指摘し、大きな悪とみなされていなかったとしている。

参照されているのは、塚本学『生類をめぐる政治』である。
 また捨て病人に関しても、松尾剛次『葬式仏教の誕生』を参照して述べている。

現代人と大きく意識が違うのは病人の扱いである。綱吉の時代までの日本人は、病人についても介護を放棄することを罪や恥だと思っていなかった可能性が高い。例えば、京都の公家・三条西実隆の日記『実隆公記』の永正二年(1505)の11月6日の記事によれば、三条西家では梅枝という下女が中風(脳出血)で倒れ、瀕死の状態になった時、寒風吹きすさぶ中、今出川の河原に運び出したという

*6:下山晃は次のように述べている(「大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷」http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html )。

検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。/しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

奴隷貿易の利益率の高さがうかがい知れる。

*7:孔穎は次のように述べている(「明代における澳門の日本人奴隷について 」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005687547 )。

ポルトガル王が豊臣秀吉イエズス会を介して伝えた圧力の下で日本人奴隷取引を禁止し解放しようとしたとき、ゴア当局は、「彼らを解放すれば、反乱するに違いない。戸口で虎視眈々している敵と結託し、われわれを一人も残さずに殺すのであろう…奴隷解放のうわさが彼らの耳に入れば、今にも動き出そうとする。主人は常に警戒しなければいけない」と懸念を示した。

奴隷の中には、そうした性格の者たちも存在したのである。そりゃそうだ。

*8:阿部律子は次のように書いている(「五島キリシタン史年表」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005301377 )。

「旧キリシタン」を指揮して、下川彌吉宅を牢屋に仕立て上げ、逮捕したキリシタンを桐古の浜の家で拷問する。頭分の下村善七、下村卯五郎には、最も残酷な算木責に遭わせる。子どもに拷問を加えて、親に改心を迫り、信者達は拷問の厳しさに耐えかねてついに改心する 

子供の方を拷問して回心させる方法もあったようである。

*9:茨城県のホームページ(携帯版)にも、

常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」という本の中に、「黒坂命(くろさかのみこと)という人が、古くからこの地方に住んでいた朝廷に従わない豪族を茨(いばら)で城を築いて退治した。または、その住みかを茨でふさいで退治した」という話が書かれています。/この「茨(いばら)で城を築いた」または「茨でふさいだ」ということから、この地方を茨城(いばらき)と呼ぶようになったといわれています。

とある(https://www.pref.ibaraki.jp/mobile/profile/origin/index.html )。残虐性を薄めた記述ではある。

*10:大津雄一は佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』に対する諸表の中で次のように書いている(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009895030 )。

今昔物語集』巻二五には、平維茂との合戦で藤原諸任がだまし討ちを仕組んだことが記され、しかも、 そのことを非難していないことからもわかるように、 一方ではだまし討ちは否定される行為ではなかった。 それは鎌倉・室町時代においても変わらず、室町末から戦国時代に至れば、 むしろ、 だまし討ちは積極的に肯定されるようになった。 江戸時代になっても、 戦国の遺風を受け継ぐ軍学者や兵法者たちは、 平和な時代にあえて偽悪的に振舞ったということもあるのだろうが、だまし討ちを当然のことと喧伝していた。

ヤマトタケル以降も、そうしただまし討ちは続いていたのである。

「あたしたちと違って志願じゃないらしく、チョゴリを着て、『アイゴー、アイゴー』と泣く姿がなんとも悲しかった。」 ―広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』を読む―

 広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』を読んだ(再読)。((読んだのは、ハードカバー版の1975年のもの。))

 内容は、紹介文の通り、

1970年代初頭、生存していた従軍慰安婦や看護婦たちに長時間インタビューを試み正確に活字化。体験者が語った貴重な戦場の実態。

というもの。*1 *2
 以下、特に面白かったところだけ。

芸者の延長だろうと思っていた

 あの当時で四千円近い借金があったの(ハガキが二銭のころ)。芸者というのはお金がかかるのよ。着物一枚買うのにも借金だし、踊りや三味線も習わなきゃならないでしょ。 (引用者中略) 結うたびに一円近くかかってしまう。だから借金は増えるばっかりだったわ (19頁)

 芸者をやるにはカネがかかった。*3
 南洋の島で頑張れば、そんな生活から抜け出せる。
 そのように思って日本人慰安婦になった女性である。
 実際のところ、慰安婦というのがどんなものかはよくわかっておらず、どうせ芸者の延長だろうと想像していたという。

「拉致」被害者としての朝鮮人慰安婦

 釜山では朝鮮の女性がかなり乗船したわよ。彼女たちはあたしたちと違って志願じゃないらしく、チョゴリを着て、『アイゴー、アイゴー』と泣く姿がなんとも悲しかった。わたしもつられて泣いてしまったわ…… (19頁)

 自発的ではない、朝鮮人慰安婦の存在も、語られている。*4

 民族的優越感を日本人にもちらつかせられながら半ば強制的に、あるいは騙されて、慰安婦となった者が多かった。そうした中には良家の子女も少なくなく、お金でわりきった日本人慰安婦とは趣を異にしていた。 (21頁)

日本軍内部での体罰

 トラック島になぐられに行ったようなものでした。船酔いで胃の中の物をもどすと『貴様、菊の御紋のついた空母を汚すとはなにごとだ』と怒られる。トラック島についてやっと船酔いから解放され、美しい空、海の底まで透きとおって見える海に見とれていると、『キョロキョロして、その目は大和魂の抜けた、兵士のぬけがらだ』とどなられ、さっそくビンタです。 (54頁)

 トラック島での初年兵の扱いは、酷かった。
 そうした観点だけからものを見るなら、日本人慰安婦、特に、将校相手の者は恵まれていた方だったことになる。

 配給もピンハネされ、初年兵まで回ってこなかった。*5

 さらにひどいエピソードも、本書に書いてあるが、それは実際にお読みいただいて確認願いたい。

「なにが陛下のためよ」

 国家は、兵士には軍人恩給等で償いをしたが、同じように「お国に身を捧げた」慰安婦に対してはなにも報いようとしなかった。彼女らには、肉体を売ったという"屈辱感"だけが残った (74頁)

 さらに、戦後の驚異的インフレは、彼女ら日本人慰安婦の稼いだ金の価値を失わせた。*6

 「二重の仕打ち」(74頁)である。

 横井庄一が発見された時、日本人慰安婦だった菊丸は、当時の熱狂に怒った。
 あたしだって戦争の犠牲者なのに、横井さんだけに厚生大臣が金一封おくったり洋服作ってやったりすることないでしょう、と。*7

ソ連側による性暴力とそれに対する対応

 看護婦が慰安婦としてソ連軍に提供されたり、あるいはつれ去られた事件は、たくさんあった。が、そんな場合、日本の兵隊が看護婦をかばったという話はあまり聞かない。激烈な戦いの中を生き残った同士であるにもかかわらず、である。 (178頁)

 弱い立場の者から捨てられた。*8
 軍(兵隊)は彼らを守ることもなかったのである。

 こんな"悲劇"も、正規の訓練を受けた兵隊がやってきてからは、ごく少なくなった。日本人捕虜の所持品を強奪する兵がいれば、みんなの前で処罰が行われ、悪質な者は銃殺に処せられるようになった。 (引用者略) 直接つきあってみれば、ソ連の看護婦たちも親切だった。 (196頁)

 ここでいう「悲劇」とは何だったのかについては、本書を参照願いたい。

解放軍による性暴力

 八路軍の彼女らに対する姿勢は、ソ連軍とはすべてに違っていた。食料は、パン、栗、トウモロコシが主食だったから、ソ連軍時代より良くなったとはいえなかったが、八路軍の違うところは、こうした食料の面でも自分たちと捕虜とを差別しないことであった。 (204頁)

 八路軍は、新しい国造りの戦力として捕虜を大事にした、という。*9

日本人看護婦と解放軍

 日本人看護婦は、急造の八路軍看護婦より経験豊富で、結果、八路軍看護婦の生活指導から手を取って教えねばならなかった(206頁)。

 また、思想教育が日本人同士の関係に「亀裂」を残した事も書いているが、これらについては本書を直接読まれたい。

 解放軍の場合は、森藤さんをはじめとする日本人看護婦の証言によれば、患者をあくまで生ある人間として大切に扱っていた。 (213頁)

 「兵士は消耗品」という日本軍の論理との違いを、彼女たちは重く受け止めたのである。*10
 「森藤さん」は森藤相子氏を指す。*11

 

(未完)

*1:本稿は、 ハードカバー版の1975年のものから、引用をしていることを、ことわっておく。念のため。

*2:「話をするほどにそのころの状況を思い出し、自分自身をやましく思うのか、私に親切にすることによって、そのうめあわせをしているようにも見えた」(234頁)という言葉がとても印象に残る。証言者たちは著者に、食事を勧めたり、自家用車で駅まで送ってくれたりしたのだという。

*3:松田有紀子は次のように書いている(「芸妓という労働の再定位 -労働者の権利を守る諸法をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120004140698 )。

「丸抱え」や「仕込み」以外の契約の場合は、生活必需品や日常の衣類、芸能の師匠への月謝などを自己負担しなければならない。前借金は、収入からこれらを差し引いた残額から月賦で償却することになる (引用者中略) 当然ながら芸妓によって稼高に差もあったため、一概にはいえないが、前借金の返済を達成することは、芸妓にとって困難であったと考えられるだろう。そのため、前借金を償却できずに負債を負い、芸妓から娼妓へ転業するものも少なくなかった

*4:ウェブサイト・『FIGHT FOR JUSTICE』は、次のように書いている(「朝鮮では強制連行はなかったの?」http://fightforjustice.info/?page_id=2650 )。

日本軍は、朝鮮・台湾で女性たちを集める時には、業者を選定し、その業者に集めさせました(軍に依頼された総督府が業者を選定する場合もあります)。この業者は、人身売買や誘拐(騙したり、甘言を用いて連行すること)を日常的に行なっていると呼ばれる人たちだったので、彼らは日本軍「慰安婦」を集める場合もしばしば同様の方法を用いました。 (引用者中略) これは刑法第二二六条に違反する犯罪で。また、強制とは本人の意思に反してあることを行なわせることですから、誘拐は強制連行になります。人身売買も被害者にとっては経済的強制ですから、強制連行と言うべきでしょう。誘拐や人身売買で連行された女性たちが軍の施設である慰安所に入れられて、軍人の性の相手をさせられたら、強制使役になります。軍の責任は極めて重大です。

その犯罪の性格は、

北朝鮮による拉致の場合、暴力で連れて行っても、甘言や詐欺で連れて行っても、日本政府は同じ拉致として認定しています。暴力を使っても甘言や詐欺で連れて行っても、ある地点からその自由が拘束されれば、同じ犯罪です。ですから北朝鮮による拉致が犯罪であると同様に、日本軍「慰安婦」にしたことは、暴力を使おうと、甘言や詐欺で連れて行こうと犯罪なのです。

という言葉の通りであろう(「北朝鮮による拉致とどう違うの?」http://fightforjustice.info/?page_id=2411)。

*5:日本軍におけるこうした体罰(暴力)がどれほど頻発していたかについては、既に、多くの指摘がある。とりあえず、『ekesete1のブログ』の記事等http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/48774293.html を参照。

*6:本件とインフレ問題については、例えばこれは文玉珠氏の例であるが、ウェブサイト・『FIGHT FOR JUSTICE』の「文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった?」(https://fightforjustice.info/?page_id=2391 )等をも参照。 以上、この註は2023/12/3に書き加えた。

*7:木下直子は本書の中から、該当する箇所をそのまま引用している(「聴きとられなかった言葉をめぐって : 日本人「慰安婦」に関するフェミニズムの議論の批判的検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/40020264005 *今回は註番号なども省略せずにそのまま引用を行った。)。

なにも横井さん13)だけに厚生大臣が金一封贈ったり、洋服作ってやったりすることないでしょう。陛下のためだなんていってるけど、なにが陛下のためよ。あたしらもそういわれて行ったんじゃないか、チクショーと思ってね。あたしは結局そのことが出てくるから、お嫁に行けないでこうしているんだって、厚生省に行っていってやりたいわ。(中略)ジャングルで暮らすより、もっとみじめな生活をしている者がいるのよっていってやるわ。[広田 1975:74-5]

*8:猪股祐介は、ソ連参戦後の戦時性暴力が長い間研究対象にされてこなかった理由について、次のように述べている(「満州移民研究におけるジェンダー視点の欠落」http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/program-enterprise/reports/researcher_report_2016/ )。

第二に、満洲引揚時の戦時性暴力について、ソ連兵や八路軍による強姦があったことは体験記等に多数記されているが、その詳細について資料が残っていないからである。 (引用者中略) これら先行研究から分かることは、開拓団資料や慰霊碑など公的記録に戦時性暴力が記されることは稀であり、これら公的資料に拠る限り、戦時性暴力は研究対象にならないことであにならないことである。 (引用者中略) 第三に、満洲移民の引揚げを「引揚げの悲劇」と一括りにし、戦時性暴力を副次的に扱ってきたからである。

*9:東北共産党(東北民主聯軍)の場合、1946年に、日本人要員に対する政策を具体的に定めている。内容は、「日本人医師とその家族の食事面の待遇は中国人医師と同等にする」、「日本人への報酬を月ごとに、可能であれば半月ごとに払う。未払いの報酬は速やかに補う」、「日本人同士の結婚は、仕事に支障がでない限り原則として許可する(筆者注:当時の解放軍の規律では中国人兵士の結婚は禁止されていた)」、「可能な限り日本料理を提供する」、「中国人の風習を妨害しない限り、日本人が自らの民族的習慣を保つことを容認する」、「日本人の技術を重視し、それを高めること」、などである。そういった政策を出すに至った経緯などもふくめ、鹿錫俊「東北解放軍医療隊で活躍した日本人--ある軍医院の軌跡から」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006454452 )を参照。

*10:上記引用部について、「八路軍」は、1947年、新四軍とともに「人民解放軍」に編入されている。念のため。

*11:川島みどり「苦労をバネに後輩を育てた森藤相子さん」の概要には、次のように書かれている(https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1663100531 )。

日本赤十字社静岡県支部の看護婦養成所を卒業してまもなく,召集令状1枚で目的地も知らされぬまま,中ソ国境の最前線である虎林陸軍病院に20名の同僚とともに着任した(1944年、敗戦の前年であった)。その地名は,私が調べた地図には載っていないが,軍事的に重要な場所であったらしい。敗戦直前にソ連軍がやってきて,敗戦とともにその監視下におかれたが,中国内戦中の八路軍(中国人民解放軍)に引き継がれて,1958年,最後の引き揚げ船で帰国するまで,解放軍の看護婦として戦火をくぐり抜けながら,中国各地を転々とされたのだった。 

昭和の音楽史を「リズム」から綴る。戦前戦後のジャズに始まり、昭和三〇年代のマンボにドドンパからユーロビートまで。 -輪島裕介 『踊る昭和歌謡』を読む-

 輪島裕介 『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』を読んだ(再読)。

踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽 (NHK出版新書)
 

 内容は紹介文の通り、

座っておとなしく聴くクラシックやモダンジャズに対して、ダンサブルな流行音楽を大衆音楽と定義すれば、昭和の音楽史に「リズム」という新たな視点が浮かび上がってくる。戦前戦後のジャズに始まり、昭和三〇年代のマンボにドドンパ、ツイスト、はてはピンク・レディーからユーロビートまで。「踊る」大衆音楽の系譜を鮮やかに描いた意欲作。

というもの。
 ダンスをテーマに日本昭和音楽史を綴った名著である。

 以下、特に面白かったところだけ。

踊れないビバップ

 ビ・バップにおいては、テンポが急激に速くなり、パターンの繰り返しを忌避することで、プレイヤーの即興の技術は飛躍的に洗練されたが、それと引き換えに、踊れない音楽になってしまった (13頁)

 ビバップの音楽が失ったものは、ダンスであった。
 少なくとも、素人にはダンスは無理である。*1

天皇と音楽の自粛

 コマーシャルから「お元気ですか」の声が消された。そして崩御の当日のラジオでは、一日中、西洋芸術音楽が流された。 (24頁)

 昭和天皇危篤と崩御について。*2
 国家の非常時において、厳粛な音楽と「不真面目な歌舞音曲」との区別が前景化した例である。
 ならばいっそ、次に天皇上皇が身罷ったら、「歓喜の歌」を流してやったらどうだろうか。

三拍子系と二拍子系

 三拍子系と二拍子系が同時並行する交差リズムはアフロ・ラテン的リズムの根本的な特徴でもある。 (122頁)

 基本ではあるが、念のため。*3

坂本九プレスリー

 坂本九は、 (引用者略) エルヴィスの曲を得意としていた、というより、ほとんどエルヴィスのモノマネのように歌っていた。 (148頁)

 坂本九は、ロカビリー・ブームの中でデビューしたのである。*4

男女ペアからの解放

 さらに重要なのは、各自が触れ合わずに好きに踊る、ということだ。これによって、男女ペアという旧来の白人社会のダンスの大原則が崩壊し、男性が女性をリードする、という規範的な性役割分担や、過剰な身体運動(とりわけ腰の動き)を忌避するお行儀の良い振る舞いも放棄された。 (170頁)

 映画『ブルース・ブラザーズ』の「Shake Your Tail Feather」のシーンに出てくるダンス(代表的なものはツイスト)、その画期的な点はこれである。
 脱集団性、脱性役割、性解放という側面が存在したのである。*5

アイドルという語

 「アイドルを探せ」を中尾ミエがカヴァーしているが、これは「アイドル」という用語の日本における実質的な初出といえる。 (引用者中略) 若い女性スターと結びついて「アイドル」という語が用いられるようになった最初であることは間違いない。 (177頁)

 ただし(これは既に指摘されていることだが)、1959年に「十代のアイドルたち――団令子・桑野みゆき津川雅彦浅丘ルリ子」という記事が既に存在している*6

橋幸夫世代

 しばしば、主に団塊世代を揶揄して、「自称ビートルズ世代は実は橋幸夫世代だ」といったことが言われる。 (216頁)

 60年代半ば、当時十代だった人々のうち、ビートルズを聴いていたのは実質クラスでも少数で、多くは橋幸夫を聴いていたという。*7
 ビートルズの本格的な日本での紹介は、64年のアメリカ進出以降である。*8

ユーロビートはすごかった

 ユーロビートは、時代的には「昭和歌謡」と「J-pop」をつなぐ存在であり、日本における「洋楽」と「邦楽」の象徴的な区分のありようを再考させるものでもある。 (264頁)

 海外の一過性の流行現象(「イタロ・ディスコ」)が、昭和末期にアイドル歌謡とバブル期のディスコをまたいで流行する。
 それがやがて「日本限定の洋楽」に転じ、通算約30年にわたって継続的に親しまれ、しかもアニメやゲームなどの文化と結びつき、日本独自の音楽として実践される。*9
 ユーロビートはすごかった。

レコード優勢の時代は短い

 大衆音楽において、レコード(とりわけアルバム)の購入を通じた個人的所有と鑑賞(傾聴)に基づく受容が優勢だった時代は、たかだか六〇年代後半以降の数十年に過ぎなかったのかもしれない。 (269頁)

 最近のダンス音楽では、音源はネット上に無料配信、製作者がDJとして招かれる機会を増やすためのプロモ材料としての動きも現れている、と著者は述べている。
 「モダン」の究極のカタチ(音楽の偶然性(ノイズ、身体性、共同性)の排除)であったレコードが、プレモダン≒ポストモダンに押されていく感がある。*10

 

(未完)

*1:1946年の映画『Jivin' in Be-Bop』では、普通にビバップで踊っているので、踊れなくはないのである。難しいと思うが。

*2:直江学美は次のように書いている(「アドルフォ・サルコリの音楽活動に関する研究(2)1913年から1915年のサルコリ関連の資料を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/40021136251(PDFあり) )。

記事の中の「後半季に至り諒闇中」とは,1912年7月30日の明治天皇崩御により国民が喪に服している状況であり,諒闇中は音楽会などのイベントも自粛された。

こうした自粛(的圧力)は、あたりまえではあるが、戦前からあったのである。

*3:キューバ音楽のリズムについて、嶋田陽子は次のように述べている(「ソン・クラーベに関する一考察 : ソン成立に影響を与えた歴史的背景の整理とワークショップの実践的活用」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006010507 )。

キューバは、サトウキビやタバコ、コーヒーなどの栽培に適しており、商品作物の大規模農園の発達と共に、金や銀の鉱脈が発掘された南米諸国とヨーロッパとを結ぶ物資の中継地点として栄えた。そのような環境の中で音楽も同様に、スペイン起源とアフリカ起源との両方からの影響を受け混ざり合い、独自のリズムを作り出していくのである。スペイン民謡によく見られる、6/8拍子(2ビート)と3/4 拍子(3 ビート)の交互変種によって出来たのがソン・クラーベである

*4:茨城県フィルムコミッション推進室」制作の「いばらきシナリオ素材集」には、次のようにある(https://www.ibaraki-fc.jp/scenario.html )。

高校生の時,エルヴィス・プレスリーに憧れ,右に出る物がいなかったと言われるほど,プレスリーの物まねで人気者となった。

主な文献として、「坂本九上を向いて歩こう」( 日本図書センター・2001)が参照されている。なぜ茨城県坂本九かといえば、彼は川崎市の出身だが、茨城県笠間市は母の実家もあり戦時中は笠間市疎開するなど、大変ゆかりがあるからである。以上、この註について、2024/1/14に加筆を行った。

*5:もちろんそうした、カップルによる社交ダンスから、アフリカ伝来のソロダンスへの解放の萌芽は、リンディホップのブレイクアウェイ(*ジョージ「ショーティー」スノーデンに代表される)あたりに、あるのではないかとも思う(瀬川昌久瀬川昌久自選著作集 1954~2014』(河出書房新社、2016年)、232頁)。

 著者自身は、1955年のマンボブームで日本ではすでにそうした解放の萌芽があったと述べている。

*6:https://twitter.com/FanTaiyo/status/1076247863791837184 において、既に指摘されている。

*7:しかし下手をすると、橋幸夫さえ聞いていなかったかもしれない。以下、https://shbttsy74.tumblr.com/post/131023620314/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E4%B8%96%E4%BB%A3%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%99%9A%E9%A3%BE より。

大瀧 ましてそれが東京ででしょ。地方出身者で「ビートルズをリアルタイムで聴きました」なんていうのはやっぱりウソだよね。「お父さんってビートルズ世代なの?」と子供に訊かれて見栄を張るお父さんというのもかわいいけれども、正直に橋幸夫世代だということを告白した方が楽になるよ(笑)。/内田 橋幸夫さえ聴いていなかったかもしれないですよ。音楽聴いてない人だってたくさんいたし。/大瀧 そうだね。音楽を聴いているということは決して必須アイテムじゃなかったからね。/『増補新版 大瀧詠一河出書房新社、2012年

*8:じっさい、湯川れい子「特集!ビートルズ ピンからキリまで」が掲載されたのは、1964年4月号の『ミュージック・ライフ』誌である。この時初めて、本誌でビートルズが特集されたと思われる。

*9:ところで、中文版のウィキペディアの項目で、「ユーロビート」(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%90%E9%99%B8%E7%AF%80%E6%8B%8D )をのぞいてみたら、V6が日本での代表的な存在になっていて、しかもなぜか M.o.v.e が曲扱いになっているので、誰か修正してしてあげてほしい。

*10:だが、レコード(記憶媒体)のほうに、かえってノイズや身体性が宿ってしまうことがある。戸嶋久は次のように書いている(「Spotify に殺意を抱くとき」https://note.com/hisashitoshima/n/nd2879bb662ff )。

ぼくらはむかしっからレコードに刻まれた音の、それこそ些細な、ごくごく細部に至るまで、ばあいによっては細かなノイズまでの「すべて」を鮮明に記憶しているんですからね。そうなるようにレコードや CD でくりかえしくりかえし集中して聴き続けてきました。ほんの一瞬の音、ノイズですら鮮明に刻印されているんであって、それもこれもふくめての「アルバム」であり「音楽」なんですよ。

ここでは、反復し記憶する中で身体に刻まれるものとして、音楽はレコード(記憶媒体)において存在している。(もちろん、Spotify においても、反復の中で身体に刻まれることはあるだろうが。)
 踊らない身体にもまた、身体性が宿る例である。

あまりに早く映画を完成させたために、宣伝ポスターも印刷がまにあわず、封切館の支配人が「絵看板も作れない」と悲鳴を上げ -山根貞男『マキノ雅弘』を読む-

 山根貞男マキノ雅弘 映画という祭り』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

昭和という時代に、生涯260本あまりの映画を撮った男がいた。マキノ雅弘。時代劇や任侠映画はもちろんのこと、喜劇にメロドラマにミュージカルと奔放自在に撮りまくった。画面を見ていると、まるで祭りのようにわくわくしてしまうのは何故だろう。邦画にかけては随一の見巧者が、マキノ生誕100年を機に、その全魅惑を解き明かす。

という内容。
 早撮りの名人にして、あらゆる映画ジャンルの撮影をしたマキノ雅弘
 ファン必読の内容と言えよう。

 以下、特に面白かったところだけ。

マキノ雅弘の早撮り

 この作品は三日半で完成したが、あまりに早くできあがったため、宣伝ポスターもプログラムも印刷がまにあわず、封切館の支配人が「絵看板も作れない」と悲鳴をあげたそうである。 (14、15頁)

 1939年の映画『袈裟と盛遠』(稲垣浩との共同監督)の話である。
 マキノ雅弘がどれほど早撮りができたか、それを語るエピソードである。*1

 参照されているのは、稲垣浩『ひげとちょんまげ』である。

ただのカットバックではない

 マキノ雅弘一流の「ツーキャメ」方式 (引用者中略) カットバックの一種でありながら、二人の姿を流動性の豊かな切り返しのなかに描き出し、情感を盛り上げる。 (125頁)

 会話する二人を、二台のカメラで斜め前方から撮り、片方の後姿の向こうに相手の正面向きの上半身を捉えたカットを編集で交互につなぐ。*2
 こうした方法をマキノ雅弘はよく使用していた。
 そこにはどんな秘密があるのか。

たった2コマの違い

 たった二コマ、ダブらせるだけで、絶妙なラブシーンが生まれる。 (179頁)

 澤井信一郎の証言である。
 出典は、東映ビデオから出た「マキノ雅弘高倉健」というDVDボックスの封入小冊子である。*3

 「ツーカメ」で撮るとき、切り替え時に2コマダブらせると、流れがゆっくりになって綺麗になるのである。

 逆に、アクションの時は2コマ飛ばす。

 するとアクションが速く見える。

 

(未完)

*1:雑賀広海は、「マキノは制作に携わるスタッフや俳優との念入りなコミュニケーションを重要視し、映画制作は集団的な創作であることを強調している」としている(「阪東妻三郎はなぜ踊るのか 『決闘高田の馬場』の殺陣」https://japansociety-cinemastudies.org/291/ )。当時のスタッフの証言を合わせて考えると妥当な主張と思われる。このあたりも、早撮りに欠かせない要素である。 以上、この註について2024/1/3に加筆を行った。

*2:例として、長谷正人が挙げている例を引用したい(「マキノ雅弘あるいはダンスする映画」http://www.ipm.jp/ipmj/eizou/eizou52.html )。

『弥太郎笠・前編』(1952年)のラヴシーンを思い出してみよう。弥太郎の鶴田浩二が突然旅に出るために、恋仲になりかけている岸恵子に別れを告げるそのシーン。 (引用者中略) 短い会話で互いの思いを上手く告げられないまま別れるという簡単なシーンにすぎないのだが、これを映像として見たときには、実に素晴らしい印象的なシーンなのである。 (引用者中略) 「振り返る」アクションはすべて、遅延したカッティング・イン・アクションによって、微妙に誇張された「回転」動作のように見える。つまりこのラヴシーンは、まさに二人の男女が息を合わせて回転しあうダンスシーン(あるいは、この映画全体で出てくる盆踊りそのもの)として構成されているのである。

 なお、こちらのブログ(http://sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-504.html )で、その映像を視聴できる。

*3:澤井信一郎は、山根を司会とする座談会で、次のように述べているという(ブログ・『パラパラ映画手帖』より「マキノの撮影現場に迫る~「マキノ組助監督の座談会」京都映画祭だより~」https://blog.goo.ne.jp/paraparaeiga/e/93b232728cb93635d1432711291eb797 )。

僕が東映東京で助監についた時は、既に2つのカメラで撮影していたので、中抜きはなし。マキノ監督はフレームの中に一人しか映っていないのは嫌い。一人だと動きが少なくなり、静止(ストップモーション)になる。一人を写すとしても、相手をなめてからとか、相手も画面に入れ込んだりして、もう一人がたとえぼけてても、そのほうが動きがある。画面の中に複数いることで流れができる。

岡本太郎は、塗料としてカシューと胡粉を使い、ドウサも引いていた ―吉村絵美留『修復家だけが知る名画の真実』を読む―

 吉村絵美留『修復家だけが知る名画の真実』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

歴史的絵画の発見、2つあるサインの謎…修復の過程で出会った名画の秘密、偉大なる芸術家たちの素顔とは。

という内容。
 絵画の修復に興味のある人は、読んで楽しめるはずである。

 以下、特に面白かったところだけ。

 岡本太郎が使用したカシュー胡粉

 まるで黒漆のように異様に艶があるのです。(略)調べてみると、人工漆のカシュウであることが判明しました。 (53頁)

 岡本太郎の使う黒色についての話である。*1
 なお、著者によると、ミロは艶消しの黒を使ったらしい(96頁)。

 胡粉が使われているところは、艶がない分、白の強烈な感じがよく表れていました。 (引用者中略) 普通の絵の具だと、下にある色をある程度反映してしまうことがあります。それをカバーするには、艶を消すのが一番効果があります。 (55頁)

 岡本太郎は、日本画ではよく使われる胡粉を使用していたという。*2

 なお著者は、胡粉は汚れが付きやすいので、絵画洗浄の際は超音波加湿器で表面に細かいスチームで汚れを浮かせて、落とすという。

紙が基底材として優れている点

 紙そのものは軽く反ったり歪んだりすることはありますが、絵の具自体の痛みは非常に少ないのです (92頁)

 実は、そういった点では、紙の方がキャンバスよりいいらしい。*3
 厚紙の場合、パルプの小さな繊維を圧縮して作っているので、水分や湿度による伸び縮みがわずかしかない。
 当然、絵具の伸び縮みもなくなる。
 また、絵の具の食いつきもよい。
 その結果、痛みにくい。
 ただし、パルプは酸化してしまうのが欠点である。

油絵で、ドウサを引く

 その作品は、和紙にドウサといって、ごく薄い膠を表面に塗った上に描かれていました。ドウサが完全に乾くと、その面は繊維が全部きれいに寝て、表面がなめらかになります。描き易くなる上に、油も染み込みません。 (105頁)

 岡本太郎は、油絵の具で水彩画のように描いた。
 新聞紙で油絵の具を油抜きしてつかったが、それだけではない。
 日本画のように、ドウサを引いて、油絵の具を載せたのである。*4
 岡本太郎は、絵画など材料のことに詳しかったのである。

藤田嗣治の面相筆

 日本画で使う面相筆を自分で加工して描いていたと思われます。おそらく、筆の穂の中心に、細い針を入れていたのでしょう。 (114頁)

 藤田嗣治は面相筆を使用した。*5
 彼の絵の具は薄く、亀裂を修復しづらいという。
 亀裂に色を入れようとしても留まりにくいからだという。

絵画修復と絵の具の厚み

 モネのように適度な厚みがあるのがもっとも接着し易いのです。 (178頁)

 絵画修復で亀裂を接着する場合、絵の具の層が薄いと断面積が小さいので付きにくい。
 だが、逆に厚すぎると、汚れが入り込むなどして扱いにくい。*6
 中くらいがちょうどよい。
 また、モネはあまり絵の具を混ぜないので、化学変化によって変質や変色を起こしにくいのである。

作品の対角線の2倍の距離から鑑賞

 大きい作品は、遠く離れて眺めないと、本当の美しさは理解できないことがあるかも (181頁)

 絵は、作品の対角線の2倍の距離から鑑賞するのが最適である。
 大きな絵の場合は難しいので、目を細めてみると、視界がぼやけて細部が見えなくなり、作品が美しく見えるという。*7

 

(未完)

*1:佐々木秀憲「北大路魯山人と岡本家の人びと」(http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress015/%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3/%E7%8F%BE%E4%BB%A3/%E2%96%A0%E5%8C%97%E5%A4%A7%E8%B7%AF%E9%AD%AF%E5%B1%B1%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8/ )には、岡本太郎の絵について、

《赤のイコン》(上図)には、梵字に似た抽象的なモチーフが激しい筆致で描かれている。中心のモチーフである黒い線を際立たせるため、絵具の上には、カシューと呼ばれる漆に似た光沢のある塗料が施されている。

とある。

*2:著者自身は、

「エクセホモ」など岡本の別の作品では、つやのまるでない白が描かれていた。調べてみると、日本画で使う顔料である胡粉(こふん)を使っていた。つやがないとほかの色の照り返しがないので、かえって白が強く感じられるのだ。

と書いている(「岡本太郎は、実際には熱心な画材研究家でもあった――吉村絵美留さん」ブログ・『電脳筆写『 心超臨界 』』https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/13b8a724aa6ba763af009e16aeb53bc9 )。

*3:『SEKAIDO ONLINE SHOP』の説明によると、

キャンバスが置かれる環境として理想的なのは気温(室温)17℃~25℃、湿度44%~55%です。 (引用者中略) これを見誤ってしまうとキャンバスに膨張、収縮が発生しシワがよったり逆に画布が強く張られ過ぎて木枠が歪みます。

とある(「オリオンの張りキャンバス・キャンバスボード」https://webshop.sekaido.co.jp/product?parent_category_sm=%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%8D%E3%83%AB%E9%A1%9E&child_category_sm=%E5%BC%B5%E3%82%8A%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89&maker=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3 )。

*4:中右恵理子・長峯朱里は、東京藝術大学所蔵の高橋由一作≪鮭≫について、次のように書いている(「高橋由一作《鮭図》の絵画材料および技法について」https://ci.nii.ac.jp/naid/40021952803/(PDFあり) )。

明治30年5月に小林萬吾から買い入れ収蔵された。支持体は紙であり、和紙ではなく洋紙である。紙に膠でドウサを引き、その上に直接油絵具で描いている。地塗りは施されていない。

高橋由一がすでに紙にドウサを引いていたのである。

*5:林洋子によると、針を入れた面相筆の実物は見つかっていないが、描線に針らしきものでついたような凹みが見られる作品があるらしい、と述べている(『藤田嗣治作品をひらく 旅・手仕事・日本』(名古屋大学出版会、2008年)、160頁)。可能性としてはあり得るのだろう。

*6:分厚い絵の具層の代表といえば、ゴッホであろう。そんなゴッホだが、自分の絵は割と丁寧にケア・処理している。ゴッホの1890年4月の弟テオへの手紙には次のようにある(『art-vanGogh.com』のサイトよりhttp://art-vangogh.com/auvers_25.html。英訳したものを参照した。 )。

Anyway, they must be washed again several times in cold water, then a strong varnish when the impasto is dry right through, then the blacks won’t get dirty when the oil has fully evaporated. 

*7:平倉圭は次のように書いている(「屏風の折れ構造と「距離」 : 菱田春草《落葉》・《早春》を見る」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006719099。*省略記号等を一部変更して引用を行った )。

一九〇九年十月、文展出品中の《落葉》について、美術史家の瀧精一(節庵)は東京朝日新聞にこう書いている。「 (引用者中略) そも西洋画は之を画面の最大対角線の二倍の距離より観望するを通則となせるが、……さるを近頃に至って日本画はその観望の距離を注意せざること甚だしく是は大いに作家の反省を要するものなり菱田氏の「落葉」の如きは大紙面の屏風なるが故に猶更遠く見るを要するものならずや (引用者省略)

とある。このあと春草からの「反論」に言及されるが、ここで重要なのは、すでに1900年代には、こうした「西洋画は之を画面の最大対角線の二倍の距離より観望するを通則となせる」ことが日本でも知られていたということである。

喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションでい続けるか、ってことに尽きる -塩田明彦『映画術』を読む-

 塩田明彦『映画術』を読んだ(再読)。

映画術 その演出はなぜ心をつかむのか

映画術 その演出はなぜ心をつかむのか

  • 作者:塩田明彦
  • 発売日: 2014/01/22
  • メディア: 単行本
 

  内容は、紹介文の通り、

観る者を魅了する人物は、どのように作られるのか?映画監督の著者が、偏愛するさまざまなシーンを取り上げながら、心をつかむ“演技と演出”の核心に迫る連続講義。

というもの。

 かんたんにいうと、とても面白い。

 以下、特に面白かったところだけ。

意識の分散

 何か別のことをやっていると演技は格段に楽になります。二つのことを同時にやっていると芝居は基本的に成立する。僕が子供を演出するときは、まさにこれをやるわけです (22頁)

 何かをしていないと、芝居を受ける側の演者は、待っている時間に耐えられない。
 「自分の台詞を言い終わったあとの時間をどう過ごしていくかは、たぶん俳優に課せられたすごい重要」なことなのである。*1

「これが映画だ」という感触

 動かないはずの物に動きを与えることで、物に命を吹き込もうとしている。生命なきものに生命を与え、生命あるものは物として見つめるーーまさに「これが映画だ」という感触がここにあります。 (53頁)

 ヒッチコックの「サイコ」の終盤の演出である。*2
 照明を揺らすことで、死者が笑っているように見せている。
 生命なきものに生命を与え、生命あるものは物として見つめる、まさしくそうである。*3 *4

説明過剰の演技

 観客は仮面の中の視線や瞳の動き、声の感触だけで、ほとんど彼女の内面を察知することができる。それなのに、俳優が自分の内面をわざわざ「表情」として表そうとすると、それはすでに観客が知っていることの追認でしかなくなってしまう。 (58頁)

 その結果、「説明過剰に見えてしまう」のである。*5
 観客は「俳優が演技していることすら忘れて、映画や登場人物に没頭したい」のである。
 著者は例としてヴァン・サンド版「サイコ」を挙げ、そこでは或る俳優が自分の「気持ち」を表情に出すことにばかり意識がいっていて、目の前にいるもう一方の俳優が「危険」な存在(役柄)だということを忘れてしまっている、というふうに指摘している。

喜劇役者はエモーションに逆らう

 みんなが怒っているシーンで平然としてる。それをいかに通すか(略)喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションでい続けるか、ってことに尽きるんです。 (196頁)

 異化するのが喜劇役者の仕事である。
 たとえ悲しい場面でも泣かない。*6
 他人事のような態度を貫くために、喜劇役者は歌うように、口上のように、セリフを言うことがある。

カサヴェテスと渦巻く感情

 カサヴェテスはそうじゃない。人間の感情は常に複数あって、その複数ある感情のうちのどれかが今支配的になっている (引用者中略) 複数の感情が渦を巻いて一定しない。 (231頁)

 カサヴェテスはそういったアンビバレントな感情*7をきちんと「行動」で描いているという。
 彼は、感情を必ず「動き」に転化させるのである。
 また、著者は、

本当は後悔の念とか罪の意識が渦巻いて、それが怒りや憎しみに転化してこそ、復讐のエモーションは強くなる (167頁)

とも述べている。

 

(未完)

*1:矢野靖人は平田オリザの「意識の分散」という概念について次のように述べている(「アフォーダンスについて/意識の分散・分断について」https://theatre-shelf.org/diarypro/archives/397.html )。

放っておくと俳優の意識はつい、台詞(あるいは言葉)に集中しがちであり、言葉を喋ることに集中しがちになる。が、現実の生活の中で人間は、実際にはそれほど喋ることや喋っている言葉(台詞)そのものに対して集中していない。ではどうすればこの状態を回避出来るのか。意識を台詞以外のことに分散させればいいのだ。

*2:ネタばれ感もあるが、まあ、許されるだろう。

*3:この笑っているような死骸の演出が、映画ラストに出てくる二重写しの笑みにつながっていることは、間違いなかろう。

*4:この平等性は、どこか、カフカの小説に通じるものがあるように思われる。たとえば、後藤明生カフカの迷宮 悪夢の方法』(岩波書店、1987年)、62頁を参照。

*5:観世寿夫は、「間違った意識のしかたを観客に対して持ち、表象的説明過剰の演じかたをしたがる能役者は今たくさんいる」と、能の世界にもまた、そうした傾向のあることを述べている(『心より心に伝ふる花』白水社、1991年。58頁。

*6:安岡章太郎『映画の感情教育』(講談社、1964年)は、喜劇役者が客を笑わせるためには、まず自分が笑ってみせる必要がある、と大抵の場合は考えてしまうわけだが、キートンは全く笑わなかった、としている(66頁)。キートンが特異なのは、喜劇役者は間の外れた時(みんなが悲しんでいるときなど)にはちゃんと笑うのであるが、キートンだけは、やはり笑わないのである。

*7:森川輝一は、書評・「神崎繁著『内乱の政治哲学 : 忘却と制圧』(講談社、2017年)」において、次のように説明をしている(https://irdb.nii.ac.jp/01147/0004065609 )。

著者は『魂への態度』(岩波、2008年)等で、西洋哲学における魂の捉え方を、プラトンアリストテレスに典型的な「葛藤型」と、犬儒派からストア派に受け継がれた「振動型」とに分けている。 (引用者中略) 一元的な魂が時間の中を進みゆく過程で振動する、という後者の見方に従えば、内乱とは魂の振動の所産であり、魂が生きて運動を続けるかぎり、私たちの生から切り離すことができない。ストア派の物体論に通じていたホッブズはこれに気づきながら、内乱への「恐怖心」ゆえに、魂の運動を力で制圧する道を選んだ

カサヴェテスにおける「感情」は、およそ「振動型」とみるべきであろう。

大正末という時期の朝鮮人は、京城師範学校出身者のなかですら蔑視の対象だった -山口輝臣(編)『日記に読む近代日本〈3〉大正』を読む-

 山口輝臣(編)『日記に読む近代日本〈3〉大正』を読んだ(再読)。

日記に読む近代日本〈3〉大正

日記に読む近代日本〈3〉大正

  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

日記が、広く国民によって書かれるようになった時代。大正デモクラシー教養主義の風潮のなか、日記は単なる備忘録を超える。原敬吉野作造岸田劉生宮本百合子大宅壮一らの日記に、新時代の息吹を読み解く。

というもの。

 日記は読み方次第だが、とっても面白い、ということがよくわかる。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

植民地へのまなざし

 大正末という時期の朝鮮人は、京城師範学校出身者、将来の教員という立場の者が公刊した『凝視の一年』のなかですら蔑視の対象である。 (213頁)

 村の朝鮮人たちは、日露戦争のときにそうであったように、日本軍からの「奪掠」を恐れ警戒していた。一方の現役兵たちも、相変わらず彼らを「臭い」などと蔑んでいたのだった。 (217頁)

 当時の日本兵の日記から見える「内鮮融和」の実際の姿である。*2
 以上、一ノ瀬俊也「凝視の一年(吉尾勲編)」より。*3

今村明恒と関東大震災

 今村は、地震と火災の危険性をよく認識していた。しかし、この日記から読み取れることは、その今村でさえも地震発生からしばらくの間、火災があれほど大きくなることを予想できていなかったことである。 (240頁)

 火災は予期されず、初動は遅れ、しかも水道管は破裂していた。*4
 火災は延焼し、逃げ遅れた人、安全な場所だった筈の場所に避難していた人も犠牲になったのである。
 ここでいう「今村」とは、地震学者・今村明恒のことである。
 以上、土田宏成「特集 関東大震災の日記」より。

信じ込んでしまうプロセス

 「青年団」という公的組織の伝える情報だということで、藍泉も朝鮮人に対する警戒心を抱き始めた (244頁)

 その後藍泉は冷静さを取り戻し、朝鮮人問題は流言飛蜚語であると思い直し、それらを真に受けて恐怖や憎悪をかき立てられ、朝鮮人殺傷に走る人々を批判的にみるようになるが、藍泉のような教養ある人でさえ、一時はこの有り様であった。  (245頁)

 この銀行家(十五銀行本店・庶務課長)兼俳人・染川藍泉も、青年団の話を信じてしまったのである。*5 *6

 以上、土田上掲より。

 

(未完)

*1:本当は原敬とか宮本百合子とかの日記も取り上げたかったのだが、それはまたいつか。

*2: 本稿の元となった、一ノ瀬俊也「第一次大戦後における一年現役兵教育」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005748381 )には次のようにある。

意識的であるか否かは別として、朝鮮人に対するなにがしかの差別感・距離感を「日記」に表明している現役兵がいることは興味深い。ある現役兵は外出の際、教生時代の朝鮮人の教え子に声をかけられ、彼が自分を覚えていたこと自体には感動しつつも「朝鮮人でも内地人でも決して教へ子に対する愛に於て変つた事はないのである。いくら汚い朝鮮人でも其愛たるや神聖なものである。〔中略〕自分は有り難い教官殿を戴いて居りながら自分は、只一つとして教官殿を喜ばせた事はない。つまらぬ朝鮮人の子供でも非常に可愛らしい所があるのに。今後の努力を誓ふ」(六月一日、田淵重雄)と言う。建前として「日満鮮の融合」を謳うことはあっても、「汚い」「つまらぬ」と差別感を隠そうとしない態度は、おそらく当時の朝鮮在住の日本人一般の態度であり、彼にとっても自然なことだったのだろう。

*3:なお、『凝視の一年』は、以下の大学図書館に所蔵しているので、興味のある場合はそちらへ。 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA55208605 

*4:目黒公郎「大正関東地震から80年を経て,地震工学研究の最先端」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130000102862 )には、今村が東京に地震が発生すれば、「水道管の被害によって消防活動がうまくいかず,大火災による被害を被ると長年当局にその対策を迫っていた」が、「10年もしないうちに,今村が心配していた関東地震が発生した.そして今村が指摘警告していたように,東京や横浜では大規模な火災が発生し,10 万人を超える犠牲者が出てしまった」とある。

*5:ブログ・『第2考古学』は、記事・「加藤2014『九月、東京の路上で』 [全方位書評]」において次のように指摘をしている(https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/2014-04-23 )。

流言飛語によって通常の理性をいとも簡単に失い、暴行に加担し、またすぐさまそれを取り戻す。驚くほどの振幅の激しさ。それは、「憫みの心で迎えているのに」とか「憫んで善導せねばならぬ」といった相手を見下したパターナリズムにその原因があるようだ。

*6:改造社版の『現代日本文学全集 第38巻』によると、藍泉は、清語研究のために清国に滞在した経験があるようだ(462頁)。