「人文科学ではなくて訊問科学だ」と言われないための、フィールドワークをやる人、やりたい人必読の本。 -宮本常一、安渓遊地『調査されるという迷惑』を読む-

 宮本常一、安渓遊地『調査されるという迷惑』を読んだ(再読)。

 内容は紹介文の通り

「あれでは人文科学ではなくて訊問科学だ」――旅する民俗学者宮本常一の言葉を受け止めた、フィールド・ワーカーの実践

というもの。
 フィールドワークをやる人、やりたい人は、必読の本であろう。

 以下、特に面白かったところだけ。*1

宮本常一の体験

昭和三〇年すぎの頃だったが、私は秋田県米代川流域の山村、上小阿仁村へ調査に行ったことがある。 (24頁)

 農地解放が行われ、農地調査団が農地の完全開放を「叫ん」だところ、百姓の一人がそれを要求する。
 そして、地主は屋敷や用水権などすべて確保させろという要求を、どんな不測の事態が起きても自分で管理せよ、という条件で飲んだ。
 その後大水害が起こり、と話が続く。
 地主の所へ頭を下げて助けをもとめにいったが、地主の方は突きはなし、彼らは村を捨てればならなくなった。
 不時に備えて、地主が存在することもあれば、共有林が社会保障の役割をはたすこともある、というのが、ここでの宮本常一の述べるところである。
 むろん、本当に不時に備えるにそれが必要なのか、規模やあり方の是正は必要か、と言ったことは不可欠ではあろうが。*2 *3

学問が盗掘・盗難に利用されるとき

 あんたのつくった『西表島文献目録』 (引用者中略) は、盗品リストとして使える。ほとんどの学者や物書きは調べていったきり、地元には音沙汰なしなんだから (54頁)

 学問の成果はそのまま盗掘や盗難などにも利用される、という側面を持つ。*4

日本における輸入過剰とゴミの増加

 日本の豊かさは、世界中から毎年八億トンのもの(原文ママ)のもの資源を輸入し、それを加工して一億トン弱の製品として輸入することで培われてきました (85頁)

 結果、行き場のないゴミと排気ガスがあふれていくのである。*5 *6

日本の方言の奥深さ

 小浜島方言には「イ」の中舌の母音を含む六つの母音音素があり、またkの音とsの音を同時に出す複雑な子音があるという知識だけではとうてい乗り越えられない (92頁)

 八重山小浜島である。
 日本の方言の奥深さである。*7

 

(未完)

*1:最初の項目以外は、安渓の文章からのものを、とりあげた。なお、今回は、主題である「調査地被害」に関してはあまり書かないことにした。知りたい人は、本書のほか、たとえば、安渓遊地「される側の声 : 聞き書き・調査地被害」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006664167 )等を参照。

*2:この問題は、地主側と百姓側との間で富の偏在が発生しており、その格差の正当化が十分でなかった点が大きいようにも思われる。根本にあるのは、(広義の)民主主義の不全にあるとみることもできるだろう。まさに、宮本の名著・『忘れられた日本人』に出てくる、対馬の村人が寄り合いで、何日もかけて意見がまとまるまで話し合いを続けた、あの「民主主義」である。
 ただし、ウェブサイト『旅する長崎学』の「宮本常一と長崎」には、宮本が書き留めた伊奈(対馬)の寄合について、次のような意見も紹介している(http://tabinaga.jp/tanken/view.php?hid=20130301093655 )。

次に否定的な意見として、杉本氏は、現地資料などの詳細な検討から、宮本は伊奈の寄合を高く評価しすぎていると総評し、例えば対等性について、海に依拠する集落では共同採取物を合議制で分配する慣習があるものの、寄合には伊奈の階層的な村落社会構造が反映していたと考えられるなど、宮本の考えに疑義を呈しています。

 ここでいう杉本については、杉本仁「寄合民主主義に疑義あり―宮本常一対馬にて」をめぐって
」(http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN4-87294-184-5.htm )を参照。

*3:そういえば、井出幸男による「土佐源氏」に対する批判的検証はどのように民俗学で受容されたのか気になっていた。岩本通弥は、「土佐源氏」は細部の脚色レベルではなく、民俗学の資料という風に見えるよう、それが事実であるかのように、発表・再録されるたびに宮本が加工したと述べ、この事実を民俗学の学としての根幹にかかわるものとして、重く受け止めている(湯川洋司、安室知共編『日本の民俗 第13巻』(吉川弘文館、2009年)、22頁)。岩本の主張は極めて真っ当なものである。

*4:NHKの番組・「BSプレミアム 盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」(https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050815_00000 )のなかで、西安市公安局に所属する人物が語るところによると、墓泥棒の楊彬・部屋には、遺跡の専門書二冊が残されており、どうやら、そこに載っている未発掘の遺跡に関する内容を手掛かりに、盗掘を行ったのだという。

*5:年々輸出量の約9倍の物質が日本に堆積していることになる、と中村尚司は1980年代末に指摘している(『豊かなアジア・貧しい日本: 過剰開発から生命系の経済へ』(学陽書房、1989年)48頁)。

*6:『令和2年版 環境・循環型社会・生物多様性白書』の「第3章 循環型社会の形成 第1節 廃棄物等の発生、循環的な利用及び処分の現状」をみると、2017年度時点では、約7億トンの資源を輸入し、1.8億トンを輸出している(https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/r02/html/hj20020301.html )。以前より出入りは減ったが、まだ多いといえば多い。

*7:小浜方言について、仲原穣は、母音音素が6個あり、母音に「中舌母音」が認められる、と述べている(「小浜方言と宮良方言の音韻の比較研究」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005703076 )。

反骨を気取って差別問題を揶揄するものもいるが、結局面白半分に口にするだけで、抗議を受ければ腰砕けになるパターンが多い -森達也『放送禁止歌』を読む-

 森達也放送禁止歌』を再読。

放送禁止歌 (知恵の森文庫)

放送禁止歌 (知恵の森文庫)

  • 作者:森 達也
  • 発売日: 2003/06/06
  • メディア: 文庫
 

 内容は紹介文の通り、

岡林信康『手紙』、赤い鳥『竹田の子守唄』、泉谷しげる『戦争小唄』、高田渡自衛隊に入ろう』……。これらの歌は、なぜ放送されなくなったのか? その「放送しない」判断の根拠は? 規制したのは誰なのか? 著者は、歌手、テレビ局、民放連、部落解放同盟へとインタビューを重ね、闇に消えた放送禁止歌の謎に迫った。感動の名著、待望の文庫化。

というもの。
 言わずと知れたこの分野の古典であるが、改めて取りあげる。
 (ただ、歌の方はあえて取り上げなかった。)

 以下、特に面白かったところだけ。

対話のない社会

 ネガティブな比喩として使い方が問題なのだから、それを視聴者に説明してほしい。そうでなければ過ちは何の教訓にもならない (131頁)

 「番組中で不適切な発言がありましたことをお詫びいたします。」というステロタイプの謝罪に対して、部落解放同盟は、どんな言葉がなぜ不適切かきちんと説明しないと意味がないのだ、そう語ったと北林由孝は振り返る。*1
 <特殊部落>という言葉自体が問題ではないのだ、というのが、解放同盟側の言い分である。

 これは言い分としてごく真っ当なものであろう。

信念なきメディア

 問題はその抗議に、メディアやレコード会社がいっさい反論してこなかったという歴史的経緯です。 (189頁)

 藤田正の証言である。

 曰く、メディアは圧倒的な強者であり、もっと抗議されるべきである。
 表現者の中には、反骨を気取って差別問題や被差別団体を揶揄するものもいるが、結局面白半分に口にするだけで、抗議を受ければ腰砕けになるパターンが多い、と。*2
 また、太田恭治は「メディアは誰一人として糾弾には反駁せえへんのよ。信念をもっているのなら、僕らに反論すればええやないか。でも反論なんて一回もなかったよ。みんなあっさり謝ってしまうんですよ。」と語る(219頁)。

 信念がない。

被差別部落と水害

 竹田だけじゃない。日本中の被差別部落で、この程度なら当たり前の光景だった。 (202頁)

 七瀬川高瀬川、その合流地域である竹田は例年のように水害に襲われた。*3 *4
 水捌けの悪い敷地と下水設備の不十分な環境では、水害後に伝染病が蔓延した。
 戦後すぐの竹田地区では、乳幼児の死亡率が異常に高かった記録がある。
 しかし行政はこの環境を黙殺したのである。
 「くどいけれど昔話じゃない。つい最近までの話だ」(213頁)。
 川沿いの堤、昭和30年代までは竹田の集落側が一段低くなっていた。
 要するに、増水があったとき、溢れた水は、全て部落内に流れ込むように設計されていたのである。
 それが当然とされていた。
 「何よりも全国にはまだ、同和対策事業未実施の部落が一〇〇〇ヵ所も残存している。それらの地域では、今も堤防は一段低いし、上下水道も完備されていない」(214頁)。*5

 

(未完)

*1:こうした対話なきテレビ局側のやり方は、「寝た子を起こすな論」のような考え方を助長するものであろう。この論については、齋藤直子が次のように述べている(「被差別部落と結婚差別 『結婚差別の社会学』著者、齋藤直子氏インタビュー」https://synodos.jp/newbook/20477 )。

これは、「寝た子を起こすな論」と言って、部落問題では昔から散々議論されてきました。差別があるにも関わらず、声をあげさせない。「マイノリティは黙っておけ」と言っているのと同じです。

*2:山口真也と伊佐常利は、本書(森著)を参照して、次のように書いている(「放送が禁止された歌」https://www2.okiu.ac.jp/yamaguchi/houkin.pdf )。

森氏(引用者注:森達也)は、最初は「解放同盟から抗議が来るかもしれない」というように単なる不安だったものがいつのまにか「抗議が来たらしい」という噂にすり替わり、それが一人歩きしてわずかな時間で「抗議が来た」という既成の事実に変容してしまうのではないかと指摘している。しかし、こうした意識の変容の背景にあるものは、放送関係者の、差別問題に対しての強固な忌避感に他ならない。 (引用者中略) 歌謡曲規制において安易な判断がなされる背景には、放送局側の意識の低さがあると考えられる。

*3:京都洛南の治水について、1968年の論文・辻文男「京都市南西部低地における宅地化と洪水災害」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130000996624 )には、次のように書かれている。

治水計画の参考となる危険地域の想定図によると,地盤高,排水能力,宅地化の進展,家屋密集度から見た悪条件が重なっている地域は,次の三か所である。(1)淀駅周辺,(2)新旧国道1号線の分岐点付近,(3)高瀬川七瀬川の合流点

*4:山本登『部落差別の社会学的研究 山本登著作集 6』(明石書店、1984年)も、竹田・深草地域は、死亡総数に対する乳幼児の死亡率がとても高いと書いている(123、124頁)。昭和9年以後年平均41.2%であるとも。

*5:放送禁止歌』(解放同盟社)から出た2000年時点での状況。

シュルレアリスム、そして、ダリがシュルレアリスム陣営から追放される思想的要因について -酒井健『シュルレアリスム』を読む-

 酒井健シュルレアリスム』を読んだ。

シュルレアリスム 終わりなき革命 (中公新書)
 

 内容は紹介文の通り、

シュルレアリスム(超現実主義)は、第一次世界大戦後のパリで生まれ、世界に広まった文化運動である。若い詩人、文筆家、画家が導いた。戦争、共産主義ファシズム、無意識、エロス、死、狂気などアクチュアルなテーマに取り組んで、近代文明の刷新をもくろむ。個人の壁、国境の壁を超えて多様な生の共存をめざしたその革命精神は、情報と物に充足する利己的な現代人に、いまだ厳しい批判を突きつけて、生き続けている。

という内容。
 バタイユの専門家によるシュールレアリスム論である。

 以下、特に面白かったところだけ。

バタイユにおける「神」と自己愛

 個人の自己愛が、全体主義の出発点であり、基盤なのだ。 (123頁)

 バタイユは『有罪者』のなかで、「神を信仰するということは自己を信仰するということなのである」と書いている。
 神は自我に与えられた保障にすぎない、とフォイエルバッハみたいなことを書いている。*1 *2

ベルクソンと戦争

 ベルクソン (引用者中略) も、大戦中は愛国主義的な発言と政治活動を繰り返して、影響力を示した。 (33頁)

 彼は第一次大戦期、フランスを文明、ドイツを野蛮(*機械文明に毒されているという意味)と位置づけて、国威発揚に専念した。*3
 参戦要請の外交使節としてアメリカに渡って交渉したベルクソンは、アメリカの高度な軍事力に助けを求めた。
 結果、彼は野蛮に頼ったことになる。

ダリとファシズム

 一九三四年突如ヒトラー支持を表明し、三六年のスペイン内乱に際してはフランコ将軍のファシズム側を支持するに及んで、シュルレアリスムから「除名」される。 (245頁)

 誰のことかと言えば、ダリの話である。
 ダリは、超越的な存在に発する妄想があった。
 その存在とは、母、故郷、キリスト精神、妻のガラ、独裁者、などである。
 この超越的な存在に発する妄想にそぐわないような欲望は、否定されてしまう。*4
 これは、複数の現実、複数の欲望を肯定するシュルレアリスムと根本的に異なるものだった。
 ダリが、シュルレアリスム陣営から追放される思想的要因である。

 

(未完)

*1:著者は別の論文で次のように書いている(「ジョルジュ・バタイユと哲学 : 『ドキュマン』の時代へ向けて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005550201 )。

1920年代前半にキリスト教信仰を捨ててしまう。その理由はいくつもあろうが,「未知なるもの」がもはや「神」という概念ですら説明できない不可知の闇として,いや闇とも光ともつかぬ不分明な果てしなき広がりとして,初めも終わりも定かでない広大な流れとして体感されるようになったことが大きい。知によって捉えられるものがまったくない「未知なるもの」の深奥へバタイユは入っていった。神の奥へ,神がいなくなるほど奥の世界へ,彼は入っていった

バタイユは神では満足できなかったのである。神という自己の範囲の「外」に、行きたかったのである。

*2:近年出た中で圧倒的にタイトル勝ちしたと思うのは、古永真一「ジョルジュ・バタイユとマーシャル・プラン」であろう(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006503318 )。内容は、

事実上共産主義の脅威がマーシャル・プランを誕生せしめ、その緊迫した関係が「ダイナミックな平和」をとりあえず可能にしたとバタイユは捉え、その精神の覚醒の意味について記そうとした

というもの。

*3:実際ベルクソンは、第一次世界大戦当時の言動について、ロマン・ロランによって大衆の扇動だと批判されている(松葉祥一「戦争・文明・哲学」https://ci.nii.ac.jp/naid/40001112190、284頁)。なお、参照されているのは、ロマン・ロランの「闘いを超えて」。

*4: ダリの思想とカトリックとは、おそらく切り離せないものである。ダリは戦後、カタルーニャに戻り、フランコ政権を支持してカトリックを再び信仰したが、戦前の彼には、シュルレアリスム陣営から追放されるまでの間に、次のような出来事が起きている。以下、松岡茂雄「シュルレアリストたちの反カトリシズムと、ダリの《聖心》」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006488527 )より引用する。

初のパリ個展に、カトリックのマリア信仰に冷や水をかける《聖心》を加えたのは、ブルトンがダリの《陰惨な遊戯》を見て疑念を懐いたと知ったダリが、ブルトンの反宗教的態度に迎合し、その心を掴むための「決め球」にしたからだった。シュルレアリストとしての成功を夢見るダリの行為が、「家族との断絶」という意図せざる不幸な出来事を招いたと見ることができる

大変興味深いので、引用した次第である。

なぜ英語を学校で学ばないといけないか。決定的な答えはおそらく存在しない。英語の「国民教育」化は偶然の産物だから。 ―寺沢拓敬『「なんで英語やるの」の戦後史』を読む―

 寺沢拓敬『「なんで英語やるの」の戦後史』を読んだ。*1

 内容は紹介文のとおり、

私たちが受けてきた「英語」は必修教科ではなかった!必要に応じて履修すればよい選択科目だったにもかかわらず、英語は事実上の必修教科として扱われてきた。一体なぜそういう現象が起きたのかを検証しながら、国民教育としての英語教育の成立過程を分析する。「なんで英語やるの?」を問い続けてきた日本の戦後史を教育社会学的手法によって浮き彫りにして、あらためて国民教育としての英語教育の存在理由を問い直す。社会学的アプローチによる、まったく新しい実証的英語教育論の登場!

という内容。
 英語教育を語るなら、まずこういう本をこそ手に取るべきである。

 以下、特に面白かったところだけ。

平泉・渡部論争

 ただ上から「知的訓練」を全国民に押しつけている点も説得力に乏しい (82頁)

 著者は、平泉・渡部論争のうち、後者に厳しい。
 まあ、無理もないが。
 相手の主張(志望者の自主性を重視)を読み違え、「知的訓練」一点張りで、それ以外の重要な意義(「異文化理解や、言語の相対性に対する認識の育成」)に目配りがないし、教育の機会均等に関する論点にほとんど共感を示していない。*2

 渡部説がこれほど説得力――「論理」を超えた説得力――を持ち得た一因は、根拠はどうであれ「すべての生徒が外国語を学ぶ」ことを擁護したからだろう。 (83頁)

 そんな渡部だが当時も今も、結構支持されている。
 平泉説を実行すると、いったん成立した「国民教育」という制度を元の状態に戻そうとすることになるため、大きな抵抗感が生じるのである。

「なんで英語やるの」「偶然」

 人口動態・教員採用方針、そして高校進学上の英語の重要性の高まりが、複合的に作用することで、1960年代の履修率の急上昇はもたらされ、その結果、事実上の必修化が現出したと考えられる。 (171頁)

 ベビーブーマー卒業後の英語教員の人的リソースの改善(ベビーブーマー世代の中学校入学に合わせて英語教員人口が増え、彼らの卒業後もその教員の数が維持された)が、進学上の必要性等と絡んだ、という。*3
 これにより事実上の必修化が可能になった。

 高度経済成長期以降の就業構造の転換(とりわけ離農の進行)によって、「農家の子どもに英語は不要だ」という論理が取り除かれた結果、「必要性はどうであれ科学的に正しい英語教育を行うべきだ」という理屈が、それなりの説得力を帯び始めたと考えられる。 (237頁)

 英語の「国民教育」化は「社会的・人口的・制度的・政治的要因の複合的な結果によって生み出された」(243頁)。*4

 偶然の産物なのである。

 (歴史)社会学的に、ありそうな話である。

 その種の決定的な答えはおそらく存在しない (259頁)

 学校外国語教育の目的、つまり、なぜ外国語を学校で学ばないといけないのか、という問い対する著者の答えである。
 英語の「国民教育」化は必然的な結果ではなく、偶然の産物だからである。
 著者は、万人が合意可能な学習目的を現代の外国語教育に問うことは構造的に困難だとしている。

 もちろん、別に選択制に戻せといっているのでもない。*5

「多様性」ではなく「格差」に

 しかし、80年代になると、そうした「差異」はもはや「多様性」とは認識されず、不平等を引き起こす「格差」として理解されるようになっていった (96頁)

 戦後初期の、英語を利用しない生徒の存在や授業時数の多様さは、地域や生徒の多様な必要性、興味を反映した「民主的」なものと理解されていた。*6
 それが80年代には、「格差」として理解されるようになる。*7

戦前の「教養」の中身、戦後の「教養」の中身

 戦前型の「運用能力の発達を基礎に、教養達成を図る」という発達順序を捨象し、「教養 vs.運用能力」という(便宜的)二分法のみに注目する、そして、その二分法を初歩段階にも適用する、というものである。 (216頁)

 なんのことかといえば、「読み替え」られた戦後の教養、という話である。
 教養の意味の変化が、戦前と戦後においてあった。
 戦前はエリートのみに英語を教えてればよかった。
 教養も「英文学や思想書の読解など高度な知的活動を前提としていた」(243頁)。
 しかし、戦後はどうするのか。
 英語を必要としないであろう人々*8にとっての英語の意味は。そこで、運用能力だけではない、教育の意義を説明するものとして、「教養」が使われたのである。
 学ぶというのは、運用能力を得るだけが全てではないのだ、と。
 それは、「『文化吸収』『人格育成』『国際理解』のような抽象性の高い目的論」である、と(242頁)。*9

英語だけじゃ収入も増えない

 英語(だけ)ができても収入が際立って増えるわけでもなければ、就職のチャンスが飛躍的に広がるわけでもない (262頁)

 英語力の差が富の格差を生むとまでは、学術的に確認できてない。
 多くの教育社会学者と多くの日本の市民にはごく当たり前の事実である。
 また、英語力と収入の相関は、学歴や学校歴、職種による疑似相関だろう、と著者は述べている。*10

 

(未完)

*1:これも厳密には再読

*2:清水稔も、「外来文化の受容の歴史から見た日本の外国語学習と教育について」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007974768 )において、

平泉・渡部論争 は、問題のとらえ方に相違があり、議論が必ずしもかみあってはいない。平泉の試案は、学校教育の成果を重視した一種の政策論であり、渡部の反論は、これまでの学校教育に対する一定の意義を強調していて、平泉の政策論に対案を示せていない

と評している。

*3:著者は別の論文でも、こう述べている(「「全員が英語を学ぶ」という自明性の起源:──《国民教育》としての英語科の成立過程──」https://ci.nii.ac.jp/naid/130003397430 )。

「英語の必要性の増大」や「英語教員の必修化推進運動」ではなく,高校入試の制度変更,高校進学率の上昇,ベビーブーマーへの対応としての教員配置などが複合的に働いていたと考えられる

実に(歴史)社会学っぽい感じである(褒め言葉)。
 社会学っぽいというのは、次のような言葉を想定している(大島真夫「書評 『教育と平等 大衆教育社会はいかに生成したか』苅谷剛彦著」https://ci.nii.ac.jp/naid/40017171104 )。

面白いのは,このような仕組みは誰かが強い意図を持って作り上げたのではなく,標準法を「過去からの慣性」(176 頁)として維持した結果生じたものだと描いている点である.誰にも知られず誰かの意図で起きたのでもなくひっそりと起きた社会の変化を鮮明な形で描き出すことができるのは社会学ならではだと改めて感じた.

*4:著者自身の言葉でいうと、次のようになる(「英語教育学の質評価:社会科学・政策科学の観点から」https://www.slideshare.net/tterasawa/20151114 )。

必修化に影響を与えた重要な要因を列挙すると以下のとおりである。(a) 高校入試改革、(b) 高校進学率の上昇、(c) ベビーブーマー世代の卒業に伴う、教師一人当たりが受け持つ生徒数の大幅な改善、(d) 当時の英語教育研究および言語学の学問的潮流、(e) 産業構造の劇的な変化、(f) いわゆる「戦後新教育」(リベラルな思想を特徴とする教育思想・教育実践)の退潮。以上の結果から、「すべての生徒が英語を学ぶ」という自明性は当時の社会政治的要因によって生み出されたものであると結論づけた。

もちろん、高校入試改革に関しては、「必修英語をめぐる理念的な問題は、中学校段階から高校段階に『先送り』されたものだと言うことができる」(本書248頁)。なぜ高校で英語をやるの(必修なの)、という話は、まあ、ほかの要因によって説明できるのだろう(*なお、高校入試に英語が導入された背景については、本書121頁を参照)。

*5:著者自身は、本書255、256頁において、英語教育の目的について、ある程度ビジョンを示している。ヒントとして、1960年前後の日教組教研集会外国語教育分科会における「国民教育としての外国語教育の四目的」を挙げている。

*6:ただし、本書42、43頁を見る限り、それを裏付けるような史料が十分とはいい難いように思われるので、補強する史料等がもっと欲しい所ではある。

*7:林博史は次のように述べている(「「総中流」と不平等をめぐる言説 : 戦後日本における階層帰属意識に関するノート(3)」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005592820 )。

「階層論が主として取り組んできた『貧困』という問題が,先進諸国では実質的に解決されてしまった」 (引用者中略) という認識は,少なくとも 1990 年代前半あたりまでは,多くの社会階層研究者に共通のものであったろう。しかし実際には,1980 年代まで減少を続けていた生活保護世帯数は 1990 年代に増加に転じた。 (引用者中略) 1980 年代以降,貧困は潜在的には拡大していたのである。このような状況にも関わらず,貧困に対する最後の砦である生活保護の対応は十分なものではなかった。

1980年代とは、かたや教育機会の「差異」が「格差」として認識される一方で、「貧困」は「格差」は認識されにくかった時代なのかもしれない。あるいは、機会の平等には敏感でも、結果の平等には鈍感だったのか。

*8:主に農山村地域の生徒たちである。

*9:戦後のものに関しては、1951年には次のような主張が見える。以下、「学習指導要領外国語科英語編(試案)改訂版」より、引用する(ブログ・『紙屋研究所』の記事・「バトラー後藤裕子『英語学習は早いほど良いのか』」からの二次引用となる。)。

平和への愛なくしては,列挙したその他のいろいろな目標を達成することは不可能であろう。ゆえに平和のための教育は,英語教育課程をも含めた全教育計画の条件であり重要な部分である。/生活様式・習慣および風俗に関する個人的ならびに国民的差異を理解しないでは,また自国のものとは異なる生活様式・歴史および文化をもつ人々に対して望ましい態度をもたないでは,生徒は寛容な世界的精神をもつ公民に成長することはできない。さらに生徒は,一般人類の福祉に寄与する公民に成長すべきである。さもなければ,外国語の習得もほとんど意義を有しないであろう。習得した技能はその目的を離れてはなんの意義も有しないのである。

この時代においては、こうした「国際理解」の言葉はある程度切実なものとして響いたはずである。

*10:著者も2009年段階では、

事実、英語力が賃金や社会的地位と密接な関係にあることを示す先行研究はすでにいくつか存在する。 (引用者中略) これが事実だとすれば、社会的属性に起因する英語教育機会の格差によって、新たな社会経済的格差が生み出される恐れがある。この点を真剣に考えるならば、現存する英語教育機会の格差に対し、具体的な対応をとる必要があるだろう

というに認識だった(「日本社会における英語の教育機会の構造とその変容 ―英語力格差の統計的分析を通して―」http://jalp.jp/wp/wp-content/uploads/2019/08/gengoseisaku05-terasawa.pdf )。その後研究を進展させて、2012年に、”The "English divide" in Japan : A review of the empirical research and its implications”(https://ci.nii.ac.jp/naid/40019265030 )を著し、

前者(既存の富の差→英語力の差)の存在は明らかになったが、後者(英語力の差→新たな富の差)は、英語力の賃金への効果を取り扱った研究を見るかぎり、かなり限定的なもの

であるとした。

「コルセットをしなくてもいいとどんなにいいだろう」と、与謝野晶子は述懐した -乳房文化研究会 (編)『乳房の文化論』を読む-

 乳房文化研究会 (編)『乳房の文化論』を読んだ。

乳房の文化論

乳房の文化論

  • 発売日: 2014/11/19
  • メディア: 単行本
 

  内容は、紹介文の通り、

おっぱい、お乳、バスト、胸、時と場合によってまことに変幻自在、さまざまの呼び名で親しまれている乳房はまったくもって「不思議のかたまり」。そして、その不思議の分だけ乳房の研究、乳房の学問は奥が深い。20年以上にも及ぶ広範な研究のなかから精選された乳房論の数々。

という内容。
 研究会だけあって、内容は実に真面目である。
 この対象に関して興味のある方はどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

 (なお、以下に取り上げるのは、すべて、深井晃子「揺れ動くおっぱい―ファッションと女性性への視線」からのものである。) 

パッドとコルセットの歴史

 現在の偽おっぱい、パッドの祖とでも言うべき小物を使って取り繕おうとする年配女性たちの、むなしくも切ない努力 (258頁)

 18世紀ごろの話である。
 こうした道具は、既にこの頃から存在していた。*1
 胴部については、19世紀にコルセットがより改良された。
 製鉄技術発達により、胴をきつく締め上げやすくなったのである。
 つらい。

コルセットと洋装

 洋装が大好きだったという与謝野晶子が「コルセットをしなくてもいいとどんなにいいだろう」と述懐している (260頁)

 当時の洋装の女性服にはコルセットが不可欠だった一方、和服には、コルセットは不要だった。*2
 それもあって、日本には、女性の洋装はなかなか広まらなかった。
 他の要因として、洋装は高価であり、住環境との折り合いも悪かったというのもある。
 パリでもコルセットが廃れていくのは1910年代ごろからである。*3
 「女性たちがきっぱりとコルセットを捨て去ったのは、女性の社会的地位、生活が根底から変化した第一次世界大戦の後だった」のである。

ブラジャーの誕生

 日本では乳房バンド、乳押さえなどと呼ばれたブラジャーは、日本的な”ギャルソンヌ”のイメージづくりに貢献しながら、洋装する女性に使用されるようになっていった (264頁)

 日本でも大正末から昭和の初め、すなわちモガ・モボの時代において、「男の子のような女の子」のイメージで広がって、ブラジャーは流行していく。*4
 ブラジャーは当初、女性らしさを隠す、凹凸を持たない少女のような身体を作るために、乳房をできるだけ平らにすることを重視されたのである。*5

イヴ・サンローランの功績

 彼のAラインのドレスは、円筒型で、女性らしい身体の凹凸を強調するものではなかった。それは成熟美から若々しさへとファッションの舵を切る、新しいシルエットだった。 (267頁) 

 イヴ・サンローランの功績である。*6
 この若々しさは少女っぽさへ向かい、ミニスカもその延長線上にある、と著者はいう。
 また、サンローランは、厳格に男性性に属するものだったパンツを女性用に適応させた、パンツルックを提案する。
 これは当時、たいへん画期的なものだった。

 

(未完)

*1:以下、KCIデジタルアーカイブのページから引用する(https://www.kci.or.jp/archives/digital_archives/1820s_1840s/KCI_070 )。

スリーブ・パッドは、この時代を特徴づける大きなパフ・スリーブのために着装された。薄い綿素材でギャザーをふんだんに使い立体的に仕立てられている。中身の羽毛は軽く、パッドを大きく膨らませている。ドレスに固定するために紐が付いており、着装の際にドレス側の紐と結んだ。流行のなだらかな肩の線を延長するために膨らんだパフ・スリーブが効果的に使われた。

 こういった方法も、豊胸の一手段であった。

*2:なお、実際には与謝野はそのようには述べてはおらず、著者による言い換えであることは、本論の注4で述べられている。著者が依拠しているのは与謝野「巴里より」。

*3:福島利奈子は次のように述べている(「コルセットと女性像--コルセットからの解放を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006682068 )。

コルセットの身体への害が唱えられ、コルセットなしのドレスが提案されても、婦人はコルセットを着用しなければならないという16世紀から続く伝統的衣服マナーの支配は根強く、パリ・モードが大きく変化したのは、第一次大戦後の1920年に入ってからのことである。

また、階級とコルセットとの関係に関しても述べている。

あらゆる階層にコルセットが広がったが、労働者などの庶民が身に付けるコルセットは前でレイシングをするタイプであったのに対し、上流階級や貴族の女性が身に付けるコルセットは後ろでレイシングするタイプのものであった。前でレイシングを行う場合ならまだしも、後ろでレイシングを行なうには当然ながら相当な力が必要であり、それには召使いらの力を必要とした。もともとはコルセットの着用の際には誰かの手助けが必要なものなのである。すなわち、コルセットは社会的な階層性の保持・顕示に役立ったといえよう。

*4:高本明日香は乳房バンド等に関して、次のように書いている(「戦前の日本における婦人洋装下着の担い手」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005381996 *註番号を削除して引用を行った。)。

テーシー商会や白木屋デパートの婦人洋装下着の広告以外では,朝日新聞で3 業者の「乳バンド」の宣伝広告が見られた.年代順に見ていくと,1925(大正14)年11 月に大阪の「秋岡金虎堂」の「乳バンド」の広告がある.この広告では,「お乳の大きい方」に乳房を小さくみせることができ,運動や外出の姿をよくすると謳われている. (引用者中略) 次が,1926(大正15)年9 月の東京の製造販売元「島元旦三商店」の「乳おさえ」の広告である.この商品は,すでに大好評であるとあり,売れていたようである.商品については,欧米各国の最新型に改良を加え特に日本婦人の体格に合わせ,和装洋装に適するように工場にて特製しているとのことであった.この頃の欧米各国の最新型とは, (引用者中略) 1920 年代のギャルソンヌ(男性のような女性)ルックのための平らな胸を形づくるブラジャーであると推測できる.

また高本は、「戦前の婦人洋装下着に関しての情報は,ブラジャーの情報も含め,1920 年代より欧米からかなりリアルタイムに婦人雑誌,新聞の婦人欄等に入ってきており」,「主に家庭内で製作されていたと考えられる」とも述べている。

*5:福島利奈子は次のように述べている(福島前掲)。

コルセットが消えていくにつれ、ブラジャーは女性に欠かせないものとなっていった。/第一次世界大戦後の1920年代には、ギャルソンヌというまるで少年のようにボーイッシュでスリムな体形が目標とされる。このスタイルを作るために、丈の短いコルセットとともに身に付けるブラジャーが主流となった。しかし、彼女たちの好みは他の女性たちとは異なり、胸を平らにするようなブラジャーを身に付けていた。

*6:たとえば、サンローランの代表作・「モンドリアン」について、KCIデジタルアーカイブのページには、次のようにある(https://www.kci.or.jp/archives/digital_archives/1960s/KCI_230 )。

20世紀の大デザイナーの一人、サンローランの代表作である。直線的なAラインのドレスに、黒い直線で分割された大胆な原色の配置は、オランダの画家、モンドリアンの代表作《コンポジション》の引用である簡潔なフォルムながらそれを身にまとう女性の身体をほのかな陰影の中に浮き上がらせる、オートクチュールの高度な裁断技術が伺える。美術収集家としても知られたサンローランは、《コンポジション》も収集していた。

ただ、本家のモンドリアン、例えば『赤・青・黄のコンポジション, 1930』の絶妙な比率、また、横の線の太さに対する繊細な配慮などと比較すると、正直見劣りするように思われる。

正直、すごい煽り気味のタイトルではあるが、しかし、それに見合うだけの面白さと説得力がある -春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』を読む-

 春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』を再読。

なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書)

なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書)

  • 作者:春日太一
  • 発売日: 2014/09/16
  • メディア: 新書
 

  内容は紹介文の通り、

かつて映画やテレビドラマで多くの人々を魅了した時代劇も、2011年には『水戸黄門』が終了し、民放のレギュラー枠が消滅。もはや瀕死の状態にある。その理由はひとこと。「つまらなくなったから」に他ならない。/「高齢者向けで古臭い」という固定観念、「自然体」しか演じられない役者、「火野正平(=いい脇役・悪役)」の不在、マンネリ演出を打破できない監督、何もかも説明してしまう饒舌な脚本、朝ドラ化するNHK大河ドラマ・・・・・・。 (引用者後略)

という内容。 
 正直、すごい煽り気味のタイトルではあるが、しかし、それに見合うだけの面白さと説得力がある。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

時代劇はマンネリと言われてしまうの背景

 その結果として採られた選択肢が、「物語のパターン化」であった。 (63頁)

 映画興行の博打性が高まったため、映画会社は安定した収入の見込めるテレビを軸に置いた。
 その中で、1970時年代後半において、当時高水準の人気を博していたのが時代劇である。
 制作現場は、テレビ時代劇の生産効率を向上させるために、物語をパターン化させ、結果、「時代劇はマンネリ」というイメージを生んだ。
 結果、「一連の時代劇には葛藤を抱えた主人公はいない。先が読めないようなスリリングな展開も、心に突き刺さるような感動もない」(67頁)。*2 *3
 加藤泰黒澤明など、かつてはマンネリでもなく、主人公が葛藤する時代劇を作る人は、たくさんいたにもかかわらずである。

高い演技力を要求される時代劇

 彼らのほとんどは発声などの演技の基礎をろくに訓練することなく実戦に投入される中で人気を得てきた。 (106頁)

 演劇の基礎を身に着けることなく実践に投入された者は、基本的には滑舌も悪く発声もなってない。
 台詞は聞き取りにくいし、棒読み。
 声も高いし細い。
 これは、時代劇にとっては致命的である。
 時代劇だと、高い演技力(高いコンテキストの把握能力)*4を要求されるため、ボロが出やすい。

 ところが、近年はそうした経験をいくら踏んでも芝居が上手くならない。それは、マイクと音響設備の性能が上がったことで、遠目には見えない形で仕込んだマイクを使って声を劇場中に響かせることが可能になり、技術を訓練しなくともなんとかなってしまう (110頁)

 かつては経験を積めば上達は出来た。
 しかし、近年は舞台に出ても芝居が上手くならない。
 芝居を作り込むには基礎が必要で、それがないと、役柄に応じて発声を使い分けることができないのである。

 最大の問題は、近年の芸能事務所が役者としての基礎養成にほとんど時間と手間をかけないまま実戦投入をさせていることだ。 (108頁)

 大元は時間と金がない(かけない)ことだ。

新劇と時代劇

 新劇は外国の翻訳ものを専らとする。そのため、日常から逸脱しながら芝居を構築する点において、時代劇と親和性が高かった。 (118頁)

 新劇や新国劇は、時代劇の脇役や悪役の最大の供給源だった。*5 *6

 チャンバラ映画も起源をさかのぼれば、その技術は新国劇に遡る。*7

 しかし、小劇場出身者だと、新劇などのようにはいかない。

 時代劇においては「昔の人っぽく見える作り込み」と「現代人が違和感なく受け止められる自然さ」これを両立した芝居でなければならない (141頁)

 この両立は困難である。
 いっぽう、歌舞伎の場合は、伝統的能なので長年の様式美で良く、現代人のリアル感から隔絶しても大丈夫だ、と著者は述べている。

芝居を見ない監督問題

 監督が自分たちの芝居を正面から見ているかどうかで、役者の集中度合・緊張感は全く違ってくる (144頁)

 芝居を見ない監督問題。
 映像を通してみてしまうと、フレーム内での役者の動きや画面構成のバランスに気が行って、役者の芝居への意識が低くなるのである。
 ゆえに、映像を通さずに監督は現場の芝居をじかに見るべきなのである。*8

映像の技術進化に追いつけていない?

 照明も低解像度時代と変わらない当て方をしているため、画面が隅々までテカテカと明るくなる。 (82頁)

 デジタル化、ハイビジョン化が進むテレビ業界である。
 なのに京都では、技法を変えていない。*9
 カツラは地肌とのラインが見え、ドーランを塗りたくったメイクでは不自然に肌の質感がマスクをしたように浮き出て映る。*10
 本当らしさを重視する時代劇には、致命的である。

 

(未完)

*1:本当はその後、出た著者の『時代劇入門』(角川新書)を薦めたかったのだが、こちらの方を今回は取り上げた。タイトル勝ちというのが一つの理由である。もちろん『時代劇入門』も良書である。

*2:では『水戸黄門』はどういうところがウケていたのか。大坪寛子と国広陽子は次のように述べている(「https://ci.nii.ac.jp/naid/120005844667https://ci.nii.ac.jp/naid/120005844667 *注番号を削除して引用を行った。)。

同じ地域の多くの男性が『水戸黄門』を好んでいることを伝え,やはりこの番組を視聴しているのかと尋ねたところ,口々に「『水戸黄門』はワンパターンで面白くないので見ていない」との答えが返ってきた。彼女たちが再視聴を希望した番組の中に,2011 年まで続いた『渡る世間は鬼ばかり』があり,1990 年に放送されたこのドラマの第 1 回放送分を共同視聴したが,その後の話し合いでは活発に意見や感想が飛び交った。 (引用者中略) どちらもパターン化されたストーリーであり,高齢者にそれなりの役割が与えられていて,ストーリーの最後には高齢者の気持ちがスカッとする解決が提示されることなどの特徴があり,わかりやすくて感情移入しやすく,日常のストレスを発散しやすいためと述べている。確かにそうした共通点はあったとしても,現実世界から遠く離れた世界での勧善懲悪の物語に主にカタルシスを得るために好んで視聴している男性たちとは違い,女性たちは,多少デフォルメされながらも自分たちの生活世界に近い『渡る世間は鬼ばかり』のストーリー展開から,身近な現実での教訓を確認したり,自分たちの半生を振り返る機会とするなど,もっと多様な見方をしていた。

過去の時代劇から、「身近な現実での教訓を確認したり,自分たちの半生を振り返る機会とするなど,もっと多様な見方」ができる要素をそぎ落として、スカッとする成分を増量したのが『水戸黄門』、とみるべきであろう。

*3:深谷昌志は、次のように述べている(子ども研究ノート①テレビとのつき合い」https://berd.benesse.jp/shotouchutou/research/detail1.php?id=3448 )。

実質に子どもたちがよく見ているのは、午後3時から4時台にかけての「大岡越前」や「水戸黄門」などの再放送番組が多い。勧善懲悪のワンパターンの番組だから、どこから見始めてもよいし、用事があれば、途中からテレビを離れても心残りが少ない。

ワンパターンというのは、こういうメリットもあるわけである。テレビは映画館に比べ日常に近接している、という点が大きいと思われる。

*4:ブログ・『二転び(にころび)日記 ~本と文具と勉強と~』は、「平田オリザ著『演技と演出』『演劇入門』~マクドナルドとマックとマクドhttp://nikorobinikki.blog96.fc2.com/blog-entry-263.html という記事に於いて次のように述べている。

演出家と役者がまずコンテクストのすり合わせをします。/その結果を役者が劇場で演じ、そのイメージを観客が共有します。/演出家、役者、観客の三者が、それぞれのコンテキストをすり合わせることで、/演劇がなりたっている。

後述するように、時代劇の役者は、現代劇とは異なる、しかし、伝統芸能的な敷居の高さを抱かせないような演技を求められる。役者には、そうした要求に対応する(コンテキストのすり合わせが可能な)引き出しの多さと広さが、要求されるのである。

*5:若林雅哉は次のように述べている(「明治期の翻案劇にみる受容層への適応--萬朝報記事「川上のオセロを観る」を手がかりに」http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/report2-2.html なお、この題の「川上」とは「川上音二郎」を指す。)。

彼ら (引用者注:明治期の知識人たち) が求めているのは、久保田米遷「川上の「オセロ」」が言うように、また後の新劇運動が努力したように、「「オセロ」に伴ふ、十六世紀の伊太利亜の場所と、その服装とを共に移し、筋だけを演るといふだけに留めないで、唯だ詞のみを日本に直して演じ」ること、即ち、原作の翻訳劇なのである。

翻案の劇ではなく翻訳の劇という、当時の日本においては高いハードルを、新劇は求められたのである。なお、若林論文の主旨はそちらのほうではない。詳細は論文をどうぞ。

*6:先の註の続き。

 金子幸代によると、森鴎外は、この『オセロ』について、翻案としては褒めているが、原作の時代や場所人物の舞台を離れた(変えた)ことについては注文を付けている(金子「日本近代劇再考--『オセロ』上演と鴎外の「歌舞伎」」https://ci.nii.ac.jp/naid/110001374069、76頁)。
 川上音二郎の翻案に基本的には肯定的な、この鴎外の反応は、次の山中桂一の言葉を考慮すべきであろう(「鴎外の言語実験とそのゆくえ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005299543 )。

当時の鴎外は (引用者中略) 西洋的な諸概念や習俗、はては小説の結構にいたるまでかなり大胆な取捨選択を行なった かれは、「単なる逐語訳でなく西洋文化をいかに取り人れるか、何を捨てるかに腐心して」 (引用者中略) おり、明らかに、単なる翻訳者以上の役割を自覚していた

*7:もちろん、チャンバラ映画が国外の影響を受けていないわけではない。小川順子によると、アメリカのアクション映画のアクロバットな動きが、チャンバラ映画にも影響しているという(小川「チャンバラにおける身体表現の変容」(黒沢清ほか編『日本映画は生きている 第2巻 映画史を読み直す』岩波書店、2010年、167頁)。

*8:白鳥あかねも同じことを言っている。http://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20150628/1435491481 

*9:本書刊行は2014年である。

*10:廣谷鏡子「(3)"人"を拵こしらえる人たち―メイク,かつら,衣装」には、床山・三村要の次のようなコメントが載っている(https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/20150101_1.html )。

ハイビジョンはみんな見えちゃうじゃないですか。技術的には,カメラにフィルターかけたりコマ落とししたり,後でCG 処理しているようですが,今度は4K でしょう。最悪だよね(笑)。結局もう,かつらという状況じゃなくなってしまいますよね。もうずいぶん前から地毛を使っています。女の人はみんな半かつらといって,前は(生え際が自然に見えるように)全部地毛を使うようにしています。もう今はリアルですよ。リアルを求めてる。きれいとリアルですよ。

「個人的には、こう思います」と申し訳なさそうに話す人は、ある種の学問の雛形に囚われすぎている -野口雅弘『マックス・ウェーバー』を読む-

 野口雅弘『マックス・ウェーバー: 近代と格闘した思想家』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『仕事としての政治』などで知られるマックス・ウェーバー(一八六四~一九二〇)。合理性や官僚制というキーワードを元に、資本主義の発展や近代社会の特質を明らかにした。彼は政治学、経済学、社会学にとどまらず活躍し、幅広い学問分野に多大な影響を及ぼした。本書は、56年の生涯を辿りつつ、その思想を解説する。日本の知識人に与えたインパクトについても論じた入門書。

というもの。
 同時期に、岩波新書からもウェーバー本が出ているが、癖がないのは、おそらくこちらの方であろう。

 以下、特に面白かったところだけ。

通説や多数派に逆らっても一人称で語る

 通説や多数派に逆らっても一人称で、党派的に語ることを可能にし、そして場合によってはそれを促すような学びのあり方が、政治教育には必要である。 (72頁)

 ウェーバーの「客観性」論は、党派性や論争性を当事者に自覚させ、価値をめぐって対話を促そうとする。
 政治的な立場は不可避的に党派的である。
 「私はこう思う」と一人称で語る余地を確保できない政治理論は、非政治的である。
 エビデンスや客観的論証が否定されるわけではない。
 しかし、「個人的には、こう思います」と申し訳なさそうに話す人は、ある種の学問の雛形に囚われすぎている、と著者はいう。*1

「翻訳」とは言いえて妙

 ハーバーマスはここで「翻訳」の必要性をいう (248頁)

 ここでいう翻訳とは、ある思考システムで伝承されてきたものを別の思考システムで考えている人でもわかるように「引き渡す」ことである。
 政治領域の議論も宗教的・文化的なものと完全に切り離すことは出来ない。
 そこで、宗教的観念を整理し、複数の宗教的な世界を対比しながら、ある程度の相互理解を可能にするような議論が必要である。
 しかも特権的傍観者の視点ではなく、観察して語る当人も、一定のバックグラウンドを背負っており、したがって自分だけ「没価値的」ではありえないという前提で議論がなされねばならない。
 「翻訳」とは言いえて妙である。*2

政治(家)の領域と官僚(制)の領域との関係

 政治家と官僚の関係性において、官僚制による合理的行政の論理の展開が政治的な空間を窒息させること (126頁)

 ウェーバーは、官僚制的な組織原理を破壊したり、ミニマム化すればいいとは考えていない。
 恣意性を排除するために、そうした組織原理が保持されるべき領域を認めている。
 問題は、官僚制による合理的行政の論理の展開が、政治的な空間を窒息させる事態である。
 政治的な領域とは、自分の属する共同体の針路について立場を決め、異なる立場の人と言葉で戦う領域である。
 なぜそうした立場を選択したのか、支持者や敵対者や公衆に説明しなければならず、その決定には責任が伴う。*3 *4 *5

そうした領域である。

情報公開に否定的だったウェーバー

 しかしそれでも、文書公開についてのウェーバーの議論にはなおも傾聴すべき点がないわけではない。 (185頁)

 公文書が「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」という視点はウェーバーにはない。
 むしろ、情報公開が国益を損なう面に彼は目を向けた。*6
 それでも彼の考えから学ぶことはある。
 ある断片的な文書から何らかの結論が出ることはあり得ない。
 文脈から切り離された「エビデンス」が必要以上に大きなセンセーションを巻き起こしてしまう事態を想像してみると、言わんとするところも理解されるだろう。*7

 

(未完)

*1: 著者(野口)は次のように述べている(「「ウェーバー全体主義」再考 -エリック・フェーゲリンの視角から」https://ci.nii.ac.jp/naid/130006905314 )。

ウェーバーの闘争はグノーシス的ではない。彼の闘争は、あらゆる闘争にピリオドを打とうとするグノーシス的最終闘争の対極にある。ホッブズからウェーバーへと直線を引き、そこに政治思想における「近代」を見い出す解釈はすべからくグノーシス的闘争と多神論的闘争の差異を看過してきた。ウェーバーは「鉄の檻」を実体化し、それを否定するのではなく、むしろそれが複数の対立する合理性から形成されている点を強調する。彼の抗争的多神論という価値論とそれを基礎にした闘争観は、世界を二項対立的に分断するのではなく、諸陣営内部における緊張、抗争の契機に注意を向けることにより、善悪二元論的な殲滅戦争にエスカレートすることを防ぐ理論なのである

「すべからく」という語の使用法に思うところはあるが、きわめて正しい言い分だと思われる。著者は、「ウェーバーの両義的な態度は、まったく逆に、全体主義に対する高い免疫力を証明するものである。問題は、責任倫理ですらその対抗原理を失うならば『専制』へと転化しうるという連関である」とも註で述べており、対抗原理あってこそ、なのである。
 ウェーバーにとって、価値観に基づく抗争は、むしろ諸陣営の中に緊張感をもたらし、相互の牽制による均衡をもたらすものだ、と考えられる。とすれば、そもそも、意見の対立が成立しないような空間では、「政治」は死んでしまう。だからこそ、意見をぶつかり合わせるためにも、「主観」的な異論は不可欠なのである。
 この点について、毛利透は、『表現の自由の公共性』(自由人権協会、2005年)において、ハーバーマスは「理性の脱主体化」を主張したと述べている(当該書14頁)。
 理性というものは、個人個人の頭を規制するのではなく、公共圏という議論の過程で働く。つまり、その場で働くのが理性であって、発案する人間側に理性を求める必要も義務もない。討論の過程で理性は働く。だからこそ、その討論の結果は民意としての正当性を有する、という論理を取るべきである。このように毛利は、ハーバーマスの議論を理解している。
 ウェーバーと理性に対する理解は異なるが、ウェーバーと「理性の脱主体化」とは、あるていど噛み合うところがあるように思われる。

*2:大窪善人は次のように述べている(「ハーバーマスの協同的翻訳論の射程 : 仏教の社会論理に即して」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009890204 *なお、註番号を削除して引用を行った。)。

世俗的な言語と宗教の教義に依拠した言語との協同的翻訳を要請するのは,その翻訳を待っているものの核心的な意味が,世俗的な言語によって,または宗教的な言語によって,いまだ充分に明らかにされ尽くされていない,という意識にある。それは,翻訳の可能性について論じたベンヤミン言語哲学に近い響きを想起させる。ベンヤミンは,彼がボードレール詩篇を翻訳した際に,その序文に『翻訳者の使命』という論文を書いている。ここでベンヤミンのいう翻訳とは単純な意味内容の伝達ではないという。むしろ,異なる言語が,それぞれに異なる表現方法によって,同一のものを志向し表現することとして捉える。信と知は,さしあたりお互いにとって受容することが難しい異なる言語によって,同じ対象をより深く表現しようとしているのである。 

もちろん、ベンヤミン的な翻訳だと、かなりの直訳調になって、相互理解も簡単ではなさそうだが。

*3:政治家と官僚との拮抗こそが肝心である。先の「責任倫理ですらその対抗原理を失うならば『専制』へと転化しうる」という著者の言葉を思い出すべきである。

*4:著者は別著において、官僚制による秩序の安定が民主主義に欠かせないものと評価している(以下、三谷晴彦「書評 野口雅弘著『官僚制批判の論理と心理 : デモクラシーの友と敵』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005285835より。 )。

官僚制は行政サービス等の社会における平等性を実現する為に重要な役割を担っているのであるから官僚制に対する行き過ぎた批判は民主主義を損なう結果になると主張している

もちろん、ここで述べられる官僚制において擁護されるべきは、主に「国家の左手」(byピエール・ブルデュー)に属する人たちが中心であって、新自由主義と結託するタイプの「国家の右手」の連中ではない、ということは、おそらく著者(野口)も同意されるところではないか。

*5:三浦直子は「国家の左手」について次のように述べている(「臨床社会学としてのブルデュー社会学理論の展開--福祉社会における社会学の可能性と必要性」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000507129 *註番号を削除して引用を行った。)。

ブルデューが 1993 年に著した『世界の悲惨』においては、貧困層・移民など「福祉の対象とされる人々」、および国家の左手といわれる「福祉を担う人々」(社会福祉士・指導員・下級司法官・小中学校の教員・公立のメディアや病院の従業員などを含む、下級公務員としての広義のソーシャルワーカー)といった二者を扱っている。すなわち、「小さな国家」を目指して社会福祉を切り捨てた国家政策の犠牲となった人々(現代社会の中から「排除された人々」)や、これら国家の責任放棄の結果、その埋め合わせを負担させられた人々(国家の左手)が、主な研究対象として設定されている。 (引用者中略) 福祉を担う彼らの社会的地位は、重要だが蔑視されるものとして(賃金の低さによっても推測される)、また彼らの任務は多忙で骨折りだが内実は些細なことであるとして、彼らの仕事は要求されることは多いが報われることは少ないものとして、社会的に性格づけられているのである。国家が彼らの任務を成功させる手段を与えないがために、彼らの任務は「不可能な使命」として、常に失敗に終わらざるをえない。

*6:ウェーバーの想定する情報公開が国益を損なう面とは、およそニコルソンの説く外交に関する事項を想起すれば、わかりやすいかもしれない。とりあえず、近藤誠一「文化と外交」から引用する(https://www2.jiia.or.jp/BOOK/backnumber_6.php )。

イギリスの外交官としてパリ講和会議(1919年)に参加したハロルド・ニコルソンは、冷徹な国際関係を踏まえた国内における外交政策の決定(「立法的」側面)と、その政策実現の現場における外交交渉に要する資質(「執行的」側面)とを区別し、前者は時代と共にかつてのような君主の独断ではなく国内の政治決定プロセスにおいて決定されるとしても、後者は依然として外交官がその「経験と思慮分別」を活用して、国家の代表として秘密裏に相手と交渉することで初めて長期的利益が追求できると考えた。ニコルソンは欧州列強が一定の諒解の下で外交の適切な遂行を行なった第1次世界大戦までの外交を「旧外交」として擁護し、ウィルソン米大統領によって始められた民主主義的「開かれた」外交、すなわち「新外交」を「民意の興奮状態」が、「永続的な平和構築へ向けての冷静な考慮」を損なうとして批判した

上に引用した「外交官」は、比較的、ウェーバーの想定する政治家像にあてはめやすそうに思う。

*7:文脈から切り離された「エビデンス」が必要以上に大きなセンセーションを巻き起こしてしまう分かりやすい例は、写真であろう。以下、『南京事件FAQ』の記事、「ニセ写真ばかりというのは欺瞞」から引用する(https://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/d/%A5%CB%A5%BB%BC%CC%BF%BF%A4%D0%A4%AB%A4%EA%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B5%BD%E2%D6 )。

一部の否定論者は南京事件に関係する写真をわざわざ「証拠写真」と呼び、あたかも写真によって南京事件の事実が成り立っているかのように印象操作を行なっている。その上で「どれもニセ写真ばかり」と声高に主張することで、事件そのものの存在まで怪しいと思わせる目的があるようだ。 (引用者中略) 「南京事件」は写真を根拠として成立しているわけではない。写真の影響力を大げさに煽り立て、何例かの疑わしい写真を理由に南京事件の実在まで疑わしいものだと誘導する議論は、否定論者の典型的な「一点突破、全面展開」戦術である。