面白いのは、日活ロマンポルノ時代の話だけじゃないぞ!(アキラの伝説とか渡哲也のデビュー期とか) -白鳥あかね『スクリプターはストリッパーではありません』を読む-

 白鳥あかね『スクリプターはストリッパーではありません』を読んだ。*1
 面白いというしかない。
 賞も得ているので、本書を読んでいる方も多くいるだろう。

スクリプターはストリッパーではありません

スクリプターはストリッパーではありません

 以下、特に「面白い」と思った所だけ。

忙しいぞ、スクリプター

 でも、ビデオが発達してから、現場でもモニターテレビで見て演出する監督が増えてきているんですね (20頁)

 スクリプターという職業は大変である。
 スクリプト(記録)用紙は、500カットの場合、500枚。
 どんな細かいことでも書かないといけない。*2
 パンなど、カメラの動きも記録し、当然、俳優の動きも記録しなければならない。

 こうしたポジションであるため、スクリプターは現場でも良いポジション(監督の隣)を確保している。
 そうした監督に近いポジションゆえ、場合によっては、監督やほかのスタッフからアドバイスを求められたりもする。
 マジで大変そうである。

スクリプターは、まさに、「秘書」なイメージ。

 ほとんどではなく全員女性です。男性がいたら、歓迎しますけどね。 (280頁)

 スクリプターの性別について白鳥は語る。
 彼女自身が設立に尽力した日本映画・テレビスクリプター協会は、全員所属しているのは女性である。
 なお、新藤兼人監督の最初の奥さんは、スクリプターだったという。

 たしかに、イメージ的には、秘書的なポジションである。

現場では俳優を見ろ

 白鳥は、俳優の芝居は、モニター越しではなく、実際に直で見た方が、役者にとってはいいという。

 監督に見られているということが俳優にとってはすごく大事なことなんです (21頁)

 モニターで画面構成やサイズや動きを見るのはいいけど、テストと本番では必ず俳優を見ろ、と白鳥はいう。
 結構重要なアドバイスではなかろうか。 


 さて、そんなスクリプターだが、監督によってはつけないケースが出て来る。*3
 今やスクリプターなしでもデジカメで補えるので、「スクリプターをつけるのは贅沢」といわれる時代なのである。
 しかし、それでもなお、スクリプターは重宝がられている。
 記録だけじゃなくて、アドバイスもする人だからである。


 監督は孤独である。
 孤独な人が自分の補佐を求めるのは無理のない所だ。

山田五十鈴の記憶力

 山田さんは科白がすぐ頭に入ってしまう特技があったから。 (52頁)

 セリフの直しを頻繁にする、それも、本番当日に変えるマキノ雅弘監督。
 だが、山田五十鈴は凄かった、それにあっさりと対応した。
 

 ちなみに、マキノ監督は役者やってただけあって、演出の際にも、演技も上手さを見せたという。
 1908年に生まれて、1912年に子役デビュー、1926年に監督デビューした人である。

アキラの伝説

 <渡り鳥>シリーズでもアクション・シーンはすべてスタントなしで旭自信が演じています。 (96頁)

 さすがアキラ。


 白鳥によると、大部屋出身で苦労しているから、腰は低かったという。*4
 自分に撃たれる役者や照明部には、気を使って奢っていたという。
 特に、照明部は、重要な仕事なのに、あまりスポットライトの当たらない職業である。照明だけに。
 ロケとなれば、機材は重いし苦労してる。


 そんなスタッフに人気があったのが、アキラである。

さらにアキラの伝説

 ダイスを五つ壺に放り込んで開けると全部垂直に積まれている、というやつね。あれを旭がたった二回目ぐらいでやってのけたときには、スタッフや俳優、みんな息を呑みましたよ。

 映画『南国土佐を後にして』でのお話。*5
 西村晃が台詞が出てこなかったけど、しょうがなしでOKになったシーンである。
 やはり、アキラはスターだったのである。

渡哲也のデビュー時代!w

 それで小杉さんが「台詞を言う前に足を叩け」とアドバイスするわけですよ、冷静に。それで、実際に哲っちゃんが叩くと台詞が出てくる。私はそれがおかしくってね(笑) (112頁)

 『あばれ騎士道』の渡哲也の話。
 彼のデビュー作品である。
 当時新人で、キャメラの前で緊張して、セリフが出てこない。
 そこで、引用部のことが行われた。
 本書で一番笑ったのはここ。

アフレコで喜ぶクマさん、苦労するスクリプター

 一番違うのはロマンポルノはオール・アフレコ、つまり現場での録音がなかったことですよ。 (130頁)

 殺陣師ならぬ、「横師」となった白鳥。
 ロマンポルノ時代は、ラブシーンの演出もすることになった。


 それまでの日活映画ではシンクロで必ずカメラと一緒にマイクがあった。
 でも、音があるとそのぶん時間がかかる。
 神代辰巳は、現場でしゃべってない科白を勝手にしゃべらせられるので、アフレコ大好きだったらしい。
 だが、スクリプターは、口を合わせないといけないので、白鳥は嫌だったという。

ロマンポルノの撮影の現実

 ロマンポルノは撮影日数も少なくて、七〇分の作品を最大でも十日、ふつう七日で撮るということが原則で、直接製作費がだいたい七百五十万、スタジオの電気代とか間接製作費を含めると千五百万ぐらいでした (132頁)

 ロマンポルノは予算厳守だった。
 相当カネも時間もなかったのである。
 

 日活から出ていった俳優たちは、冷ややかに古巣を見ていた。
 そんな中で、岡田真澄だけが、みんな日活を残そうと頑張っているんだ、と元仲間たちを窘めたという。(岡田は日活出身。)
 印象深いエピソードである。
 

おい、にっかつ!

 クマさんはぼかしは権力に屈したことになるというので許さなくて、わざと大きく黒い物を入れて抵抗しているんですね。(略)ネガで保存してあれば、復元できるから外国版は前張りがバレバレでも使うことができるじゃないですか。ところが日活はお金がもったいないからネガで黒みを入れちゃったんですって。 (152頁)

 この話を聞いて白鳥は卒倒しそうになったという。


 ワイも卒倒しそうになったで(猛虎弁)。

そのまま映画みたいな話

 『絶頂度』のヒロインを演じた三井マリアは、ロマンポルノはこれ一本だけで引退したんですね。 (162頁)

 『わたしのSEX白書 絶頂度』の撮影中に、この仕事が終わったら結婚すると三井が言っていたらしく、どうやら相手は医者だという。
 「この映画そのままみたいな話」と白鳥はいう。
 まさに。


 そんな三井を輝かせたのは、曾根中生監督の実力である。


 ちなみに、『絶頂度』は女性ファンが多いらしい。
 「主体性」をもって自分の意思で堕ちていく点が評価してもらったのではないか、と白鳥はいう。*6

池田敏春監督の話。

 永島は、その後も『MISTY』(91)で火炎放射器をぶっかけられて、やけどしそうになったんですよ(笑) (207頁)

 「人魚伝説」でおなじみ、池田敏春監督の話。*7
 別の映画では、永島は凍傷になったりもしている。
 でも永島は池田を尊敬していたので、池田に気に入られていたという。
 池田は、兎に角現場で、美術や助監督に怒鳴っていたらしい。*8
 普段はそうでもないのに、現場に入ると豹変するタイプだったらしく、白鳥によると、師匠の曾根中生も似たタイプだったらしい。

(未完)

*1:正確には再読だが

*2:監督は演出など、別の所に気を使っているので、監督をこうして補佐する必要がある。

*3:つけないケースの方が多いか

*4:最初は生意気だったらしいが。

*5:この項目について、誤字があったので、訂正を行った。2020/10/23

*6:本作では、脚本は白鳥が担当している。

*7:本作でも映画・「人魚伝説」の話をしているが、ここでは省略する。

*8:俳優とスクリプターは違ったらしいが。池田監督の生前の評判については、http://hirobaystars.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-1c1e.htmlなどもご参照あれ。

不朽であることを望まなかった魯迅の文章が、今もなお読み継がれることの不幸(大意) -片山智行『魯迅』について-

 片山智行『魯迅』(中公新書)を読んだ。
 キーワードは、「馬々虎々」。
 本書の内容紹介を引用すれば、「欺瞞を含む人間的な『いい加減さ』」)のことであり、「支配者によって利用され、旧社会の支配体制を支えていた」もののことである。
 本書は、魯迅を「馬々虎々」と戦い続けた人と説く。

 魯迅はその著「阿Q正伝」において、「速朽」の文学である旨を書いた。*1
 不朽であることを望まなかった魯迅の文章が、今もなお読み継がれるべき強度を保っているのは、果たして幸福なことと言えるだろうか(反語)

魯迅―阿Q中国の革命 (中公新書)

魯迅―阿Q中国の革命 (中公新書)

 以下、面白かった箇所だけ。

「『フェアプレイ』は時期尚早だ」の背景

 魯迅は公平な第三者の立場に立ったような顔つきで権力者の側に立つ、陳源のような「学者」「文人」の卑劣な言論を徹底的に憎んだ。 (188頁)

 魯迅は、そういう人だった。*2 *3
 彼の有名な「『フェアプレイ』は時期尚早だ」は、この精神によるものである。*4
 「公正」である議論が結局一方向にしか機能せず、権力側に加担している点を問題視したのである。
 「自称中立」問題、といっても良いかもしれない。*5

最悪の「馬々虎々

 魯迅が中国の政治状況のなかで見出した最悪の「馬々虎々」が、この四・一二クーデターであった。 (212頁)

 増田渉は魯迅から次のことを聞いたという。
 最初は国民党を褒め、革命の恩人だとして、ソ連から来たポローヂンの前で学生たちに最敬礼をさせたりした。
 学生たちは共産党に入った。
 ところが今度は、共産党員ゆえに彼らを片っぱしから捕まえて殺した。
 殺し方も、刻み切り、生き埋め、親兄弟ごと殺す、など。

 どこかのちの反右派闘争にも似た光景が、展開された。

信じてないものを強要すること。

 魏晋の時代には、礼教を尊崇した者は、一見たいへん立派なようですが、じつのところは礼教を破壊し、礼教を信じていなかったのです。 (215頁)

 魯迅は、先の四・一二反共クーデターの三か月後、危険な状況で講演を行っている。
 表向きは、阮籍が司馬氏からの婚姻関係の申し出を酔いつぶれることで逃れた話。
 だが、ウラにあるのは国民党反動派への批判である。
 彼らの言う「革命」は、かつての権力者たちの「尊孔崇儒」と同じであった、という。

 日本の愛国者やら尊皇家のツラをする者にも、こういうのが多そう(こなみ *6

(未完)

*1:こちらのブログの文章http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2008/10/post-bc92.htmlによると、「彼は決して“不朽”(後世まで残る)を求めず、自分の作品は“速朽”(早くなくなる)でよいと言っている。 彼は、自分の作品の中で描かれている不幸な現実が早くなくなり、将来にまで影響が残らないよう望んでいるのだ。」

*2:念のため(?)書いておくと、魯迅は、自分たちの陣営に近い人間も批判している。例えば、自分たちの「馬々虎々」を棚に上げて、他人を断罪、中傷する「革命」陣営(周揚ら)を批判している(230頁)。

*3:「公平な第三者の立場に立ったような顔つき」の輩を批判した文章、最近の優れたものとしては、http://b.hatena.ne.jp/entry/lite-ra.com/2015/06/post-1160.html等が挙げられるだろう。

*4:「『フェアプレイ』はまだ早い」を書くに至った彼の環境については、http://blogs.yahoo.co.jp/otiani/45247406.html参照。

*5:自称中立問題については、http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080107/p1http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20150406/1428763248等を参照。

*6:なお、魯迅については、「わが節烈観」http://blogs.yahoo.co.jp/otiani/53701052.htmlや、「ノラは家出してからどうなったか」http://amanoiwato.info/?p=266もおすすめ。

「進化しちゃえば大丈夫だよ」から、「僕は新世界の神になる」になるまで。 -嘉戸一将『北一輝 国家と進化』を読む-

 『北一輝 国家と進化』を読む。

 面白いし、勉強になる所も多かった。*1
 外部的な要因(社会的変化等)から彼の主著を読むのではなく、あくまで北の内在的な思想の地点に踏みとどまって読解している。
 その結果、彼自身は、(よく言われていたような)思想的な「転向」などはしていなかった、と主張する。
 後期に見える思想の萌芽は、すでに前期にちゃんとあったというのである。*2

北一輝――国家と進化 (再発見 日本の哲学)

北一輝――国家と進化 (再発見 日本の哲学)

 以下、特に面白かったところだけ。*3

ああ、斜め上の発想

 北の場合、道徳的紐帯に関する危機はなく、道徳論は「進化」によって解消されるべきものとなる。 (48頁)

 福沢諭吉は、身分制度解体に伴う道徳的紐帯の喪失を恐れた。
 そして、西洋のパトリオティズムを単純化したもの、「報国心」の養成を主張した。*4
 そうした場合、個人の「内面」に介入は不可避だとしていた。

 だが、北は違った。
 斜め上の発想を展開した。

進化しちゃえば大丈夫だよ。

 個であることを放棄することが「自律的道徳」となる。(略)個であることの放棄こそが社会主義への「進化」である。 (68頁)

 個であることを放棄して社会の一部になれば、道徳が解消される。
 北は「人類」から「神類」への「進化」としてそれを語る。
 社会進化論である。

 北は「進化」によって道徳の問題を、社会に融解させて、"最終解決"しようとしたのである。*5

プラトン主義者・北一輝

 しかし、内在的に読み解くならば、それをプラトン主義として理解することも可能だろう。 (148頁)

 すでにみたように、北一輝にとって「進化」とは、欲や感覚、身体的なモノと決別して「神類」になることである。
 驚いた人もいるかもしれないが、彼はそのように主張している。*6

 北の「神類」における排泄や生殖の「廃滅」の主張も、プラトン主義として理解できる、と著者はいう。*7
 彼の主張はプラトン主義の一種である、と。

 確かに、言われてみるとそんな気もしてくる。
 プラトニズムと考えれば、北の主張もあまり違和感はない。*8

性分業を主張するプラトン主義者

 むしろ女性がポリスの公有財産と位置づけられたプラトンの『国家』を想起すべきではないだろうか。 (172頁)

 北は女性参政権について、良妻賢母主義の日本を「正道」だとし、「母」・「妻」たる権利を完全にするためにも、「口舌の闘争」に動員すべきではない、と説明している。
 この露骨な性分業の思想を、著者はプラトン『国家』の影響とみている。
 これもその通りだろう。
 さすが、プラトン主義者。*9

どこが無産者や。

 北は「同化作用」に孕まれる強権性や暴力性を、「進化」という彼独自の科学主義的法則性によって隠蔽したにすぎないのではないか。 (220頁)

 北の対外思想について。

 北は、自分の社会主義帝国主義とは違う、といっている。
 しかし、彼の論述を見る限りだと、引用部のようになる。

 北の社会主義個人主義批判であったように、国際関係においても本質的には個的なものを否定しているのではないか。

 「改造」論において、大東亜共栄圏のような膨張的政策を肯定している (232頁)

 北は、インドや中国を西洋の列強から解放する戦争を肯定している。
 そして、国際関係においても階級闘争が認められるべきだ、として、日本を「国際的無産者」であると主張している。
 他国を併合しといて、どこが無産者や。*10

僕は新世界の神になる。

 北一輝は自分の主張する国家論が真理であることを、彼自身が絶対者、あるいは全能者そのものとなることによって保証しようとした (245頁)

 倒錯的な試み、と著者はいう。
 まあ、当たり前である。*11
 「説明など不要、ただ実行せよ」という中身の計画*12を立てた男は、「最終的に起源となる神話を彼自身に見出した」。
 こんな計画を天皇制に依拠できるわけもない。
 だからこそ、北は「神」になろうとしたのである。

(未完)

*1:正直、西欧方面だと、なんだかカントローヴィッチとルシャンドルに依拠しすぎじゃないかという感じはあったけれども、近代日本を代表する他の思想家の思想(特に国家論)を、北のそれと比較していく流れはとても面白いし、勉強になった。

*2:本書のマジメな書評としては芹沢一也の手になるhttp://blog.livedoor.jp/bisista_news/archives/1241479.htmlがある。必読である。この書評で言われるように「脱神秘化され尽くした北一輝を前にしたとき、面白味が消えてしまっているのも否みがたい」という点は、たしかにその通りだろう。

*3:なお、今回は、彼の社会民主主義的な側面については、特に書かないつもりなので、あしからず。

*4:この場合、どんな「報国心」を福沢が要求したのか、という問いにつながるわけだが。

*5:念のため書いておくと、当時このような「疑似生物学的進化論」の考えは北のみのものではなかった。ヘッケルの意見を引いて加藤弘之が述べる所によると、進化論によって「人学」は進歩して、その進歩で哲学が進歩して、その進歩で道徳も「完全」になる、という(73頁)。

*6:国体論及び純正社会主義』等にて言及している。こちらのブログさんの書評もご参照あれ。http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20120316/p1

*7:ロシア宇宙精神論http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120923/1348404741との関係も、少し気になるところ。

*8:彼を近代の思想家だと思うと違和感バリバリだが、古代の思想家と比較すると、違和感は生じにくくなる、と思う。

*9:ただし、北の思想とプラトンの思想との違いも存在する。先に紹介した芹沢による書評で言及されているように、「終生変わらぬ国家社会主義者」である北にとって、国家とは、「人間の理想状態が実現される場所」であり「それは『実在する有機体としての国家であり、天皇と国民とが一体と化した物理的実在の国家』」である。それは「プラトン的なイデア」であるが、「プラトンと違ってそれは物理的実在として実現されうると北は信じた」。

*10:なお、北は併合した朝鮮について「朝鮮は日本の一部たること北海道と等しくまさに『西海道』たるべし。日本皇室と朝鮮王室との結合は実に日鮮人の遂に一民族たるべき大本を具体化したるものにして、泣く泣く匈奴に皇女を降嫁せしめたる政略的のものに非ず」(from『日本改造法案大綱』) と述べている。

*11:既に紹介した芹沢による書評の言葉を借りれば、「イデアを実在化する存在は誰かといえば、もちろん神だということになる」。

*12:日本改造法案大綱』のこと。

出版されて10年になるが、まだ古びていないことは喜ばしいことなのか どうか -ななころびやおき『ブエノス・ディアス、ニッポン』-

 『ブエノス・ディアス、ニッポン 外国人が生きる「もうひとつの日本」』を読んだ。*1
 出版されて10年は経つが、いまだに古びていない。
 それは喜ばしいことなのか(反語)。

 野村進が書評*2でいうように、「激変する在日外国人社会の現状を知るためには必読の一冊」であり、「依頼人の七割以上が在日外国人という現役ばりばりの弁護士」が、「複雑多岐な実例をあげつつ、われわれが毎日のように見かける外国人たちが、日本で何を思い、どんな問題に苦しんでいるかを伝えてくれる」という、初心者から上級者(??)まで、おすすめの一冊である。

 先行する他ブログの書評http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20090225/p1で指摘されているように、「著者は何かを強制するというやり方を信じていない」のはその通りだろうし、「決して一方的に我々を糾弾する本ではない」のもその通りだろう。*3
 ただ、「俺たちが知ってあげるだけでもすこしだけ世の中は優しくなる」かどうかは、正直分からない。

 とりあえず、面白かったところだけ。

ザ・二枚舌

 国は、ある事件では、不倫関係が継続することになるとの理由で、子もろとも国外追放を命じ、別の事件では、外国人妻を強制送還にして、日本人男性を不倫の責任から免れさせている。このような態度を「二枚舌」という。 (86頁)

 詳細は本書を読んでほしいが、相当ドイヒーな例である。
 最終的に外国人女性へしわ寄せが行くようなシステムが、日本において構築されている。

「外国人労働力」の議論における盲点

 彼らのある部分は、日本で商売を続ければ、数年後には必ずや何人かの従業員を雇用して、手堅く商売を展開したに違いない。一円起業を認めるなど、国をあげてベンチャーを支援しようというご時世なのに、身ひとつで成功をつかもうとする外国人の若者はかやの外におかれたままだ。 (121頁)

 外国人労働力の議論の際には、日本で雇われる外国人ばかりでなく、日本で人を雇う外国人についても思いをいたすべきだ。 (同頁)

 付け加える言葉はない。
 こういう視点が、日本のお偉い人たちには欠けているのだ*4

理解より「権利」

 「多文化」も、(略)外国人の子どもに公正な競争と機会の保護をするという観点が必要と思う。 (155頁)

 文化の違いを理解うんぬんよりも、出稼ぎ労働者とその子どもたちが、職場や学校で経済的・社会的に不利な地位におかれている現状を変えることのほうが先決のはずだ。 (同頁)

 その通りとしか言いようがない。
 目下必要なのは、違いの「理解」ではなくて、「権利」である。*5

「不正送金」の実態

 「不正送金」は、銀行免許を持たずに送金したことが問題にされているのであって、在留資格のない外国人から依頼を受けて送金したことが問題にされているのではない。これまで「地下銀行」とよばれ、銀行法で摘発されている業者がした送金は、業者にもよるが、むしろ在留資格を有して適法に滞在している外国人が稼いだ金がメインである。 (167頁)

 「不法就労者」が仕事で得る所得のほとんどは給与所得で、所得税源泉徴収されているのだから、不法就労者うんんうんは税収と関係ない。 (同頁) 

 これは門倉貴史の主張に対する批判である。
 「不正送金」の実態、そして、「不法就労者」と税収との無関係を、著者は指摘する。
 門倉好きも、アンチ門倉も、必読である(マテヤコラ

嗚呼、「人治主義」

 在留特別許可は、本来強制送還されるべき者に対する例外的措置で、法務大臣が広い裁量にもとづいて、ときには国際情勢(!)まで加味して、個別的に判断するもので、基準はない、というのが法務省の説明で、裁判所も、これがタテマエにすぎないことに気づかないふりをして、法律の解釈をするという本来の役目をほとんど放棄している。だが、年間一万人もの者に対して与えられる許可が、個別的・例外的措置であるはずがない (196頁)

 きちんとした法・原則(法治主義)によってではなく、実質的なある者の恣意性(人治主義)によって、制度の利用者が振り回される。
 どこか、生活保護をめぐる行政の対応を思わせるところが、なくもない。

薄情な母?

 子どもを手元において濃密なスキンシップをはかる母ばかりがよき母ではない。それは、日本の東北地方から農閑期に都会に出稼ぎに行って、毎月家族のために生活費を送り続けた父が、情に薄い身勝手な父でなかったのと同じことである。 (199頁)

 民族的、そして、ジェンダー的なバイアスが露見した例である。
 子を本国の親族に預けて養育してもらっている外国人の母が、薄情だと日本の行政は判断していることに対して、著者は批判している。*6

大日本国における、投票の時の文字。

 舛添要一氏によると、一九三〇年一月、当時の内務省は同じくハングル文字での投票を有効とする省議決定をしており、舛添氏の父が生前市議会委員に立候補したときのポスターにはハングル文字のルビがふってあったという (210頁)

 一九二〇年から、すでにローマ字での投票は認められていた (211頁)

 以上、大日本帝国時代の基礎知識である。

 舛添は「この時期、そのときは朝鮮人と呼んでいましたけれども、日本にいる朝鮮人の方々は参政権のみならず被参政権もあったわけであります。」「内務省が三〇年一月にローマ字と同じく朝鮮文字の投票を有効とすることに省議決定をしているわけです。ローマ字と同じくというのは、既にローマ字で書いてもよかったわけです。」と言及している。*7
 当時、朝鮮半島の出身者でも、日本に住所があれば、国会議員については1年、地方議員については2年の居住を条件に、選挙権が認められていた。
 そのため上記のような制度になっていた。

出国を希望する外国人を、自国で罪を犯したわけでもないのに、八か月以上も拘束し続けた日本政府

 しかしながら、国の権限でできることは、領土・領海から外国人を追放することまでである。いったん領土・領海から出た外国人が、どこの外国に行くかは、日本政府の関知することでもなければ、強制することができるものでもない。(略)日米犯罪人引渡条約は、両国で犯罪とされる行為をした者に対してのみ適用されるところ(同条約二条)、ユーゴでチェスの試合をすることは日本では犯罪ではないからだ。 (216、217頁)

 ボビー・フィッシャーの一件である。
 「出国を希望する外国人を、自国で罪を犯したわけでもないのに、八か月以上も拘束し続けた日本政府の罪」(218頁)を著者は批判している。
 ボビー・フィッシャーがだれか分からない人は、ググってみよう。*8

 昔から日本の外交というのは、こんな感じである。

(未完)

*1:よく知られているように、「ななころびやおき」とはペンネームである。弁護士の山口元一氏が書いたのが本書。山口氏については、http://b.hatena.ne.jp/entry/synodos.jp/society/10010の記事が記憶に新しい。

*2:http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072700603.html参照

*3:著者は憎しみは表さないが、怒りは隠していないように思う。

*4:お偉い人たちだけではないのかもしれんが。

*5:別に、違いを理解する必要はないって話ではない。

*6:こういうバイアスは、官僚だけに見られるものではないのは、いうまでもない。

*7:http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/keika_g/155_05g.htmlを参照。

*8:彼自身については、フランク・ブレイディー『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』(邦訳)という伝記が存在する。

「警察がRAAを作り、RAAから”夜の女”が出現し、その取り締まりのために婦人警察官が必要とされた」 -池川玲子『ヌードと愛国』について-

 池川玲子『ヌードと愛国』を読んだ。
 実に面白い。
 タイトルは、『ラーメンと愛国』を模したものだろうが、内容としては、『ヌードを通してみた、近現代日本における女性及び女性表象の扱い』みたいな感じである。
 本書には、僅かに、出光真子(某出光の経営者の娘であり、映像作家であったひと)の話も出て来るのだが、この人については、またいつかする(かもしれない)。

ヌードと愛国 (講談社現代新書)

ヌードと愛国 (講談社現代新書)

 以下、興味深かったところだけ。*1

大衆メディアとヌードとアリバイ

 女子のスポーツブームに便乗した大衆メディアは、女学生の伸びやかな身体を、「性的」なお楽しみとして読者に供給しはじめる (69頁)

 女性性のイメージの転換として大きかったのが、女子のスポーツブーム(むろん戦前)である。
 このブームを、大衆メディアは、お下劣に利用した。
 載っている画像が、まあ、アレである。*2
 この女性の表象の転換(大人しい「深窓」感ある女子から、のびやかな身体の女子への転換)と、竹久夢二の「抵抗」、そして「挫折」が本書で描かれている。

帝国とマイノリティと共犯

 板根は、アイヌの「伝統的な暮らし」がすでに失われているという致命的な事態に行き当たる。結局、普段は「ハイカラなジャケット」を着ているアイヌの人たちに、博物館から調達した厚司を着せて撮影 (126頁)

 北海道において、アイヌを取り上げた「ドキュメンタリー」である『北の同胞』(1941年)を撮った女性監督・坂根田鶴子のエピソードである。
 ここに、拭いきれぬ「帝国」の暴力がある。
 そして、女性の映画監督という「男社会」の中のマイノリティ(あるいは、社会的に劣位にある者)が、自分の力を発揮できる場所を見出していく結果として、「帝国」の力に手を貸してしまう、という痛ましい「共犯」的な行為がある。*3

ああ 憧れの満洲航路

 当時、農村の女性に期待された役割は、「良妻賢母」に対して「働妻勤母」と称されていた。家事は「二義的なもの」、育児は「片手間でしかできない」ものであった (135頁)

 実際、家庭内教育は片手間にしかできない現状があった。*4
 満洲国への女たちのあこがれは、背負わされる役割を打破できるのではないか、という願いにあった。
 著者は出典として、古久保さくら「昭和初期農村における母役割規範の変容 雑誌『家の光』をとおして」を挙げている。
 曰く、「農業を業としている夫を持ちながら、自らを農業労働力として以上に妻母役割を担う存在として位置づけ、自らの関心の対象が「家」にも舅姑にもなく、夫と子供にのみあるという農村女性のあり方は、まったく新しい農村家族イメージを示すものであった」。*5
 では、満洲国の現実はどうだったのか。

満洲の現実と帝国への荷担

 『開拓の花嫁』が作られた時期の「大陸の花嫁」たちの状況とは、手助けしてくれる親世代がいない状況で、産み、育て、働かねばならないというひどく過酷なものだった。(略)総動員体制と母性保護の矛盾は、(略)満洲の移民地においては、人口の急激な増加と医療インフラの不備が、その矛盾を極限にまで押し広げていた。 (138頁)

 先ほども話題に上がった坂根が、満洲で撮った映画『開拓の花嫁』(1943年)の話である。
 この映画は、実在の開拓団を登場させた、「宣伝映画」だった。
 満洲での明るい生活が描かれている映画なのだが、しかし、映画を撮影していた当時の満洲の実状は引用部の通りだった。
 『開拓の花嫁』の中で描かれた女たちにとっての夢のような生活というのは、当時の現実ではなくて、今後改善されるであろう(政府側の)政策的な「展望」を描いたものでしかなかった。
 坂根はまたもや、「帝国」に協力することとなった。

 なお、このフィクション映画に出演した、実在の「埼玉村開拓団の中で、子どもを連れて引き揚げることができた家族は一つだけだったと聞く」と著者は記している。

日米、現地の婦人警官の利用法

 敗戦以前から、日本には婦人警察官なるものをプロデュースした経験があったし、そのことを、当時の一般的な日本人たちはよく理解していた。(略)一転、日本は支配される側に立つことになった。マッカーサー率いるGHQ/SCAPが、「抑圧されている女性たちを解放する為にやってきた正義の味方」として「日本婦人の解放」を強力に推し進めたことはいうまでもない。  (152頁)

 日米における、現地の婦人警官の利用法である。
 日本も大陸現地で、婦人警察官をプロデュースしている。*6
 敗戦後、占領下で、日本は同じ方法を米国に適用されるに至った。
 そこにあるのは、「女性を解放する正義の見方」という立場である。
 この光景は、かつてインドのサバルタン問題(サティ問題)に重なる所がある、ような気がする。*7

警察のマッチポンプ

 うがった見方をすれば、警察がRAAを作り、RAAから”夜の女”が出現し、その取り締まりのために婦人警察官が必要とされたわけで、これはマッチポンプ (159頁)

 著者は、RAAを作っといて、その結果生じた「夜の女」たちの取り締まり(後始末)を婦人警官にやらせてた現実を批判する。
 その上で、当時の映画について、「二種類の女性は、なぜ同じフレームに収まることがなかったのか。これは、女性史の側から問われてよい問題である」と言及する。
 要するに、RAAの女性が登場する映画には、婦人警官は出現しないし、婦人警官が登場する映画には、RAAの女性は登場しないのである。
 この現実とのギャップは、何を意味するのか。*8

高村光太郎と「超自然=女性」

 女性に対して、超自然的な浄化能力を求めずにはおれないという光太郎の激しい要求は、(略)光太郎の創作そのものと一体化したものだった。ゆえに、戦争が終わっても、なんら変化しなかった。 (193頁)

 光太郎とは、南光太郎(=てつを)のことではなく、高村光太郎のことである。
 『智恵子抄』では聖女的な存在としてあった、戦争詩では祭祀の巫女的な存在としてあった、「女性像」。
 結局、超自然的な存在として女性を求めた高村光太郎
 もし今の時代に生きていたら、アニメに携わっていただろう(こなみ

武智鉄二アンビバレント(?)な「女性観」

 武智という人の女性観は、極限的にアンビバレントなものであった。男女関係を社会構造的にとらえる視点と、女性を軽蔑してやまない視点。その二つを抱え込んでいた (200頁)

 武智鉄二、この優れた芸術家の原動力は、アンビバレンスにあった。
 例えば、伝統と革新との軋轢*9であり、上にあるような、思想上の男女平等の理念と作品中の女性「蔑視」との軋轢である。
 根本的な女性改造は、社会制度や教育学の問題と連なっていると1950年代に既に述べている武智であったが、一方で創作の時には、女性への偏見が丸出しであり、このギャップが凄い。*10

もしかしたらネオリベ

 晩年の弟子である作家・松井今朝子によれば、彼は(略)「戦前の軍国主義を肌で知る人として、大きな意味ではその延長線上に戦後の官僚主義国家があることを指弾」し、「六〇年代安保を契機に、むしろ反米的な左派系の民族主義」の側に立っていたという
 (202頁)<<
 再び武智である。*11
 基本的には、反米の人なのである。
 もし武智が90年代、ゼロ年代を生きていたら、反官僚主義系のネオリベさんに、なっていたりしたのかもしれない。

(未完)

*1:以下、ページ数を記載した。また、適宜補足も行った。2021/1/11

*2:本書では、『サンデー毎日』1923年10月5日号(健康増進号)の画像が掲載されている。以上、2021/1/11

*3:著者・池川の『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子』が参照されている。坂根についてはWikipediaに記述がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%A0%B9%E7%94%B0%E9%B6%B4%E5%AD%90

*4:詳細は、広田輝幸著を参照のこと。http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20140310/1394463090

*5:この「ああー 憧れの満洲航路」だが、元ネタはむろん「ハワイ航路」である。

*6:1942年の文化映画『女警』というのが、本書で例として挙げられている。以上、2021/1/11

*7:片や伝統を根拠に女性の「殉死」を賛美する現地男性、片や近代性を武器に女性を解放する存在として支配を正当化する支配者側男性、そこに置き去りにされる現地女性の声(意見)、という構図である。サバルタンの問題については、例えばhttp://blog.goo.ne.jp/origenes/e/998c4bfaad4dd6857bddfa121af2d204等を参照のこと。

*8:当時の映画において、女の役目というのは、男の添え物か見世もの、ということだったのか。あるいは、映画の「経済性」の問題上、「女」は二種類もいらねえよ、ということなのか。

*9:これが武智歌舞伎などにあらわれている

*10:詳細については本書を(ry

*11:松井今朝子の名前が間違っていたので、上記引用部を訂正した。以上2020/12/14

かつてハマスも支援していたイスラエルさん についての基礎知識、的な何か -早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ』を読む-

 早尾貴紀ユダヤイスラエルのあいだ』を改めて読んだ。
 立場はどうあれ、イスラエルパレスチナに関心のある人は、読んでおくべき本である。*1
 主に、ユダヤ系の知識人たちが、「イスラエル」にどのように向き合ったのか、という内容である。

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

ショーレムの「転向」

 二〇年代においてはやはりアラブ人との共存を目指す運動に参加していた。 (48頁)

 ショーレムの話である。*2
 彼は、いち早くパレスチナに移住し、友であるベンヤミンらに移住を呼びかけた。
 そして、ブーバーらとともに、ユダヤとアラブの共存を訴えた。
 だが、30年代のナチズム台頭以降、ショーレムは排他的シオニズムに傾いていくことになる。
 「転向」である。
 イスラエルが誕生する以前に、一つの希望が消えていた。

ブーバーの一貫性

 ブーバーは、イスラエル建国以前から建国後にいたるまで、終生アラブ人との共存を訴え続けた。 (48頁)

 彼は「転向」しなかった。*3

 ブーバーやアーレントは、二民族国家論を唱えた。
 二つの国家を作るのではなく、あくまでも共存を目指した。*4

ギブーツの現実

 そこには「未組織で後発的なアラブ人労働者に代表されるような『低賃金労働』がある」 (73頁)

 理想視されがちな、ギブーツの現実である。

 初期のキブーツなどによる入植活動および土地の取得が、アラブ・パレスチナ人土地所有者からのユダヤ人による土地の排他的占有と、アラブ・パレスチナ人低賃金労働者と競合関係のなかでのユダヤ人労働者の地位確立を意図しており (112頁)

 これは、ゲルション・シャフィールの研究に基づく言及である。
 ギブーツはその誕生から、排他的ユダヤ人国家と結びついていたことになる。

「左派」の欺瞞

 左派は、入職活動などによってこれまで支配獲得した領土を既成事実として線引きし、そのこちら側をイスラエル国家として国境を最終画定し、その向こう側に「パレスチナ国家」の建設を認めるという、いわゆる「二国家解決案」を主張している。 (215頁)

 左派(「シオニズム左派」)、というと、いいイメージがありそうな気がするが、そんなことはなかったぜ。*5
 たとえば、ピースナウ*6は「シオニズム左派」に近い、と著者はいう。
 こっちの方がイスラエル側に都合がよい。
 これが、先に挙げた二民族国家論との違いである。*7

 パレスチナヨルダン川西岸地区の内部を切り刻んでいる入植地と分離壁の撤去に一言も触れることなくパレスチナの独立と二国家解決を呼びかける (227頁)

 「左派」の一人であるデイヴィッド・グロスマン(作家)への批判である。
 平和が「停戦」だけで終了してしまっていて、こうした構造的暴力は放置されてしまっている。
 これで本当に「平和」になるわけがない。

 現在イスラエルグリーンライン(中略)から大きくはみ出す形で建設している「分離壁」と呼ばれるものは、もともと左派・労働党から提案された (250頁)

 グリーンラインとは、中東戦争の停戦ライン*8のこと。
 国際的に承認されたイスラエル領を定めるラインのことを指す。
 そのラインから大きくはみ出す形で、壁が作られている。*9
 労働党ェ。。。

バーリンの「矛盾」とヘルダー

 ヘブライ語が発明・改良・採用されていく過程で、とりわけ東欧ユダヤ人の母語としてのイディッシュ語は「前近代的な非言語」として侮蔑され抹殺されていった。 (232頁)

 この言語的な人工性に、ヘルダーを支持するはずのバーリンは、向き合わなかったのではないか、と著者はいう。
 現在使用されているヘブライ語は、近代に作られた(作り直された)人工的な言語である。
 その一方で、イディッシュ語*10は、わきに追いやられることになる。
 ヘルダーは、自然や感情、民族的個性といったものの優位を説いた人物であり、もし彼が20世紀後期に生きていたら、人工的であるヘブライ語よりイディッシュ語の方を支持したであろう。

ユダヤ移民、なの?

 一九八〇年代後半からは、(略)ユダヤ人であるかどうかが根本的に疑わしい移民を、しかしやはり「ユダヤ帰還法」に基づいて、組織的に大量に移民させるという事態が生じている。 (293頁)

 例えば、ロシア系については、半数近くがキリスト教徒と言われている(しかも移民してきた多くがキリスト教のままである)。
 エチオピア系についても、彼らがユダヤ人の系譜にあるという証明はない。
 もちろん、こうした移民らにも、「二級市民」という差別が待ち構えている(294頁)。
 イスラエルという国は、ずいぶんとまあ、平等性のない国なのである。

アイヒマン裁判を利用したイスラエルさん

 イスラエルが、国家の正統性を補強するためにホロコーストを利用するようになったのは、一九六〇年のアイヒマン裁判以降 (323頁)

 ロニー ブローマン, エイアル シヴァン『不服従を讃えて』等が参考文献となっている。
 アイヒマン裁判のときのイスラエルの「手口」については、http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20121125/1353854145なども参照あれ。

ハマスを支援してたイスラエルさん

 イスラエル政府がオスロ合意の前までは、ファタハなどパレスチナの世俗ナショナリズムの発展を牽制するために、宗教勢力としてのハマスを半ば公然と支援していた (334頁)

 アフガンで戦うムジャヒディンたちを「支援」してた、某アメリカ合衆国のようである。
 このハマス支援の詳細については、http://palestine-heiwa.org/note2/200602211318.htmなどを参照あれ。

(未完)

*1:著者のイスラエルパレスチナに対するスタンスについては、著者自身によるイラン・パペ小論http://palestine-heiwa.org/doc/2007/pappe.htmlが参照されるべきである。

*2:ユダヤ神秘主義研究で有名な人。アーレントとの論争でも有名。

*3:念のため書いておくと、『我と汝』等の著作で知られる人物。

*4:ただし著者によると、「 一九四七年の国連パレスチナ分割決議の時点でユダヤ人対アラブ人の人口比は一対三、しかもユダヤ所有の土地はわずか七パーセントであった 」(231頁)という。相手が当時マジョリティだったからこそ、ブーバーやアーレントが、共存を呼びかけた要素はある、と著者は述べている。

*5:「左派」の欺瞞については、著者の手になるhttp://palestine-heiwa.org/note2/200705230511.htmも参照せよ(命令

*6:ブランドのことじゃないよ

*7:「『二国家解決案』(いわゆるパレスチナ国家の樹立)のオルターナティヴとしての『二民族一国家(バイナショナル)構想」は、「欧米リベラル知識人による『知的ゲーム』であるとの批判がイスラエル国内の反シオニスト左派の論者から出され」ていることに、注意が必要である(http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/06/post-99/) 

*8:横浜市営地下鉄とは関係のないやつ。

*9:分離壁」の実態については著者自身の解説をご参照あれhttp://palestine-heiwa.org/note2/200611031728.htm

*10:高地ドイツ語の一つ。イディッシュ語自体は、アメリカに300万人以上の話者がいる。『屋根の上のバイオリン弾き』の原作も、イディッシュ語で書かれている。

ホメイニ師の「柔軟さ」と、酒とイスラームと歴史について若干 -高野秀行『イスラム飲酒紀行』を読んで-

 高野秀行イスラム飲酒紀行』を読んだ。
 面白い。
 時間がないので、特に面白かったところだけ。

イスラム飲酒紀行

イスラム飲酒紀行

ホメイニ師の「柔軟さ」

 「イスラムでは『鱗のない魚は食べてはいけない』とされている。ただあまりに一般庶民に人気なため、ホメイニ師が『ウズンブルンには尻尾の近くに少しだけ鱗がある』とファトワ(宗教的見解)を発令し、やっと公に食べることができるようになったという経緯もある (133頁)

 ホメイニといえば、悪魔の詩事件を想起される人も多いが、こういう一面もある人だそうな。*1
 イスラームは、いつだって、意外なところは柔軟である。

酒を飲むムスリム

 オスマン朝の頃から、酒を飲む人は飲んでいたと思いますよ。キリスト教徒は当然飲んでいたし、酒好きだったと伝えられている皇帝もいますからね。ふつうに酒が飲めるから、アタテュルクだって若い頃から酒飲みになったんだろうし…… (218頁)

 著者・高野氏の連れの男性の一言である。
 アタテュルクとは、トルコのケマル・アタテュルクのことである。

 建前と本音は、当然、あちらにもある。

ホメイニ師の「柔軟さ」 2

 世界に誇るイランの偉大なる詩人なのだ。『オマル・ハイヤームの言う酒は酒ではない』という曲芸的解釈で整合性をつけ、自陣に取り込んでしまう。イラン人、恐るべしである。 (306頁)

 オマル・ハイヤーム、言わずと知れた、イランの大詩人である。
 酒を讃える詩とかも書いている。

 なんと、この詩人は現代イランでも否定されておらず、それどころか尊敬されている。
 ホメイニが、詩に出てくる「酒」を現実の酒ではなく、「神との合一」などの宗教的陶酔の象徴として解釈して整合性をとっているためだという。

 そんな無茶な、という話。*2
 
(未完)

*1:悪魔の詩事件の際のホメイニ師の「見解」の是非をめぐっては、イスラーム法からの批判が存在する。詳細はhttp://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/syousetu.htmなどを。ホメイニ師シーア派世界における位置づけについては、http://flavius.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-6431.htmlなども参照されるべき。

*2:上の註を考えるに、イスラーム法を「逸脱」して作家に死刑を宣告するときのホメイニ師と、オマル・ハイヤームの詩を無理に解釈してしまうときのホメイニ師は、どこか似ている、ような気がしなくもない。